kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1966年の日本共産党の「ジャズ」観に呆れた

 昨日(3/14)、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』が堤未果の排外主義本を批判するどころか褒めそやしていた件に触れたが、その共産党は半世紀前に下記ツイートに示されるような「音楽観」を持っていたのだった。元共産党東京区議(現無所属)の松崎いたる氏のツイートより。

 

 

 なんじゃそれ。昨年夏に知った70年代の新日本新書『愛とモラル』の一件を思い出した。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 日本共産党という政党は民主集中制にあぐらをかいて、つまり執行部が党員や支持者から批判されないのをいいことにして、過去の自分たちの誤りに対する自己批判を全然行わずに「黒歴史」にしてしまう悪弊がある。

 私はかつて共産党支持者の方から「社民の人間は民主集中制の党内のことに容喙するな」と言われてからしばらく黙っていた時期があるが、2015年に共産党が「野党共闘」路線に踏み切って以来、共闘しようという政党なら正面切った批判に晒されて当然だと思い、同党を批判するようになった。これを「反共」というのなら、共産主義共産党の方が間違っているだけの話だ。

 1966年の時点での日本共産党のジャズに関する見解は、スターリニズムや当時進行形だった文化大革命を思い出させるものだ。当時の日本共産党は既にスターリニズムを批判していたし、文革もリアルタイムで批判していたはずだが、「人の振り見て我が振り直せ」が全然できていなかったと総括されなければなるまい。

 ジャズに対する批判は、ジャズの要素を取り入れた例えばラヴェルストラヴィンスキー(ロシア出身だがソ連には一度しか訪問したことがない)の音楽にも適用されるはずであって、要するに「社会主義リアリズム」の思想の反映だ。この思想のもとでは、音楽を含む芸術は革命に奉仕されなければならない。とんでもないドグマだが、日本でも70年代まではたとえばNHKのFM番組でクラシック音楽を解説していた教条主義的な左翼評論家たちの間で広く信奉されていたはずだ。現在の日本共産党委員長である志位和夫が愛好するショスタコーヴィチも、スターリニズムの時代には「退廃」を批判されて「面従腹背」の音楽という音楽史上でも稀に見る独自の作風につながった。

 日本共産党が本気で「野党共闘」で政権への参画を目指すのであれば、最低でも外部からの批判に真摯に向き合う態度が必要だと思うが、残念ながら現在の同党にはそうした姿勢が全然感じられない。芸術にせよLGBTにせよ原発にせよ、共産党には「叩けば埃が出る」ところだらけであるにもかかわらず。

 おそらく民主集中制のドグマに党の執行部が守られている形なのだろうが、いい加減その誤ったドグマを打破すべき時期だ。それができなければ日本共産党に未来はない。

堤未果の「トンデモ排外主義」を撃とうとしたら、網に日本共産党まで引っかかった(呆)

 この件を知ったきっかけは、某氏がリツイートした作家・星野智幸氏の下記ツイートだった。

 

 

 上記ツイートからリンクされた移住連のサイトは下記。

 

migrants.jp

 

 以下引用する。

ファクトチェック! 堤未果著『日本が売られる』
―「6 医療が売られる」に焦点をあてて―

 

特定非営利活動法人 移住者と連帯する全国ネットワーク

 

 堤未果著『日本が売られる』「6 医療が売られる」では、「YOUは何しに日本へ?国保を食い潰す外国人たち」という見出しから始まり、外国人が医療目的に来日し、国民健康保険を利用して高額治療を受け、出産一時金を不正に受給しているということを強調し、「国民皆保険制度というインフラは、安易な移民50万人計画を進めることで、雪崩のように崩壊させて良いものでは、決してない」としています。しかしそのことを実証するデータは何一つ示されていないどころか、事実に基づかない主張で塗り固められた、「ウソ八百」ともいうべきシロモノです。
 以下、本書の記述に沿って、ファクトチェックをしていきます。

 

ー 医療目的を隠して来日し、国民健康保険に加入して高額の治療を受けにくる外国人が急増しているのだ。(194P)

 そもそも国民健康保険に加入する外国人は「急増」していません。2012年度以降5年間の外国人の国保被保険者数は、2012年度86万人から2016年度99万人とわずか13万人の増加にすぎません(2018年11月移住連の省庁交渉における厚生労働省の回答資料)。構成比で見ても、国保被保険者全体に占める外国人被保険者の割合は、2.4%から3.3%に増加したにすぎません。また、この増加は、国保被保険者数が2012年度3466万人から2016年度3013万人に減少したことに主によっています。
 「医療目的を隠して来日し、国民健康保険に加入して高額の治療を受けに来る外国人が急増」していることを裏付けるデータは何一つ存在していません。

2012年に民主党政権は、それまで1年だった国保の加入条件を大幅に緩め、たった3カ月間滞在すれば、外国人でも国保に加入できるよう、法律を変えてしまった。194P)

 認識が間違っています。確かに、2012年、住民登録の対象となる在留期間が3ヶ月を超える在留資格をもつ外国人(中長期在留者)は、国民健康保険の被保険者とされるようになりました。しかしこれは、「加入条件を大幅に緩め」たというよりもむしろ、保険の加入と納付義務を課す外国人の対象を拡大したことを意味しています。納付義務が課される外国人が増えたということです。この背景には、「住民としての利便性」と「自治体業務の煩雑さをなくす」ことを理由として、2009年(当時は自民党政権)に入管法住民基本台帳法の改定が行われたことがあります。健康保険の分野でもこの趣旨を達成すること、国民健康保険がその対象を、住所を有する者としていることから、2012年に国民健康保険法施行規則を改定し、中長期在留者を国民健康保険の対象としたのです。

ー 特に中国人患者が多いC型肝炎薬などは、3か月1クールで455万円のところを、国保を使えば月額2万円だ。高額すぎて問題になった肺がん治療薬オプジーボなら、1クール1500万円が自己負担額月60万円、残りは私たち日本人の税金で支えてゆくことになる。(194)

 高額な医療を受けるために入国している外国人がいるという事実はほとんど確認されていません。厚生労働省が、2017年3月に行った在日外国人の国民健康保険利用に関する実態調査によると、調査期間(2015年11月〜2016年10月)の1年間における外国人レセプト総数14,897,134件のうち、国保資格取得日から6ヶ月以内に80万円以上の高額な治療を受けたものは1,597件(総数の0.01%)、そのうち資格取得から6か月以内に診療を受けているもののうち、ハーボニー配合錠、ソバルディ錠、堤氏が槍玉に挙げているオプジーボ錠の処方があるものは、7名しか確認されていません。(調査の詳細については厚労省提供資料https://bit.ly/2MfjSMo参照)。
 また、堤氏は、「残りは私たち日本人税金で支えてゆくことになる」としていますが、前述の通り、在留資格が3か月を超える外国人は、医療ツーリズムや「観光・保養」目的を除き、健康保険への加入と保険料納付が義務付けられていますので、保険料を支払っています。また所得税、住民税、消費税も、すべて等しく負担しています。
 いうまでもなく、保険料を払っている人が当該保険を利用することに何の問題もありません。

在日外国人の多い地域では、治療費を払わず姿を消す患者も後を絶たず、逃げられた医療機関には回収するすべはがない。(194)

 まず在日外国人の多い地域とは、どこを指しているのか書かれていません。一部の医療機関で訪日外国人による医療費の回収が問題となっているのは確かです。しかし、訪日外国人は健康保険資格を持っていませんから、堤氏がここで問題にしている国民健康保険制度に影響が生じることはありえません。また、生活苦から医療費を払えなくなる人が存在することは事実でしょう。しかし、外国人による不払いが多いという実証データは存在しません。また、不払いを起こした人が「姿を消す」ことも、仕事や家族の関係を考慮すれば決して容易ではなく、現実的な話ではないでしょう。
 こうした根拠のない記述は、「在日外国人の増加が、病院財政を悪化させる」という偏見を助長します。

出生証明書さえあればもらえる42万円の出産一時金も、中国人を中心に申請が急増しているが、提出書類が本物かどうかも役所窓口では確認のしようがないのだ。(195)

 「本物かどうかも役所窓口では確認のしようがない」ということはありえません。というのも、国民健康保険法第113条には、被保険者資格、給付、保険料に関し、必要に応じて調査権が定められているからです。出生証明書は、出産に携わった医師又は助産師が記入しますので、疑義があれば、記載者の所属する医療機関に確認すれば、真偽はすぐに判明します。
 また、被扶養者が外国で出産した場合を想定した上での指摘だとしても、中国人が「出生証明書」を偽造して出産育児一時金の詐取を行っているかのような記述は、「中国人差別」そのものです。そもそも言葉の問題、出産前後のケアなどを考えて、出身国での出産を希望する在日外国人は少なくありません。それは、日本人女性が「里帰り出産」するのと同じです。「実家」が海外にあるだけで、出産一時金が認められないのは、差別です。
 このあと堤氏は、安倍政権が低賃金の労働者を大量に受け入れようとしているが、「今は安く使い捨てることができたとしても、猛スピードで進化するAIによって、今後単純労働者の需要は否応なしに減っていく」と指摘した上で、以下のように述べています。

ー その時、今横行する医療のタダ乗りに加え、大量に失職する低賃金の外国人労働者とその家族を、日本の生活保護国民皆保険制度が支えなければならなくなる現実は、果たしてシミュレーションされているだろうか?(195P~196)

 そもそも「単純労働者の需要は否応なしに減っていく」「大量に失職する低賃金の外国人労働者とその家族」という前提には、何の根拠も示されていません。それどころか「横行する医療のただ乗り」というフェイクまで持ち出した上に、外国人労働者とその家族を(将来の)「福祉のお荷物」とみなし、その存在を否定的に捉えて危機を煽るのは、排外主義に他なりません。
 そもそも日本に暮らしている人は誰でも、社会保障制度の対象となるのは、国際人権規約にある「社会保障の内外人平等」原則に照らして当然のことです。

ー だが移民は、四半期利益のために使い捨てる商品ではない。名前があり家族があり、子供を育て、将来の夢を描き、病気にもなり、社会の中で老いてゆく、私たちと同じ、100年単位で受け止めなければならない存在だ。(196)

ー だからこそ、どんどん入れる前に、彼らをモノではなく人間としてどう受け入れていくかを慎重に議論し、シミュレーションし、環境を整備するのが先だろう。(196)

 堤氏は、移民がすでに「ここにいる」こと、すなわち260万人を超える外国人、くわえて外国にルーツがある人びとが日本で暮らしていることを無視して論を立てています。「名前があり」「家族があり」「子供を育て」「将来の夢を描き」「病気になり」「社会の中で老いてゆく」人がすでに260万人以上もいるわけですから、「シミュレーション」などするまでもなく、これまでの外国人受け入れの実態から謙虚に学べば、どのような環境を整備すればいいのか、自ずと答えは出るはずです。

 

YOUは何ゆえウソをつく?」移民の人権を食い潰すペンの暴力

 以上のような、堤氏の「外国人ただ乗り」論は、特に目新しいものではありません。むしろ、この本が出版された直前にいくつもの週刊誌やネットメディアで展開されていた「フェイク記事」をろくに取材も検証もせず、そのまま書き写しているかのようです。外国人ただ乗り論に「ただ乗り」して、移民の存在を、いわば自らの主張のダシにし、「日本人」と「外国人」の対立を煽ることは、まさに「ペンの暴力」であり、ジャーナリストとして恥ずべき態度です。「自国民と移民とが憎み合い、暴力がエスカレートし、社会の基盤が崩れかけている欧州の二の舞になってしまう」(196P)事態を引き起こそうとしているのは、ほかならぬ堤未果さん、あなた自身ではないでしょうか。

 

(移民連のサイトより。引用文中の赤字は引用者による)

 

 上記の「ファクトチェック」について、最初の項目の13万人(2.4%から3.3%への0.9ポイント増加)を急増には当たらないとしている点に論点を絞ろうとする論者も少なからずいるが、問題の核心はそこにはない。堤未果が露呈した右翼排外主義的な態度こそが問題だ。急増に当たるかどうかばかり言挙げするのは、南京事件南京大虐殺)の犠牲者を30万人とするのが過多だと言い募って、それをいつの間にか「南京大虐殺はなかった」ことにしてしまう論法と同じで、堤の排外主義を実質的に擁護する態度以外の何物でもない。

 上記の引用文中で赤字にした堤の文章はあまりにも酷く、極右レイシズムがむき出しだ。読んでいて、城内実関岡英之か、と思った。

 上記「ファクトチェック」には多くの「はてなブックマーク」がついているが、堤未果がこんな人になってしまったとは、という反応が多い。しかし私は以前から堤に対する悪評を仄聞していた。ただ私は以前岩波新書から出て売れたという『貧困大国アメリカ』を読んだことがあって、それから類推してよくいる「『右』も『左』もない」人たち、つまり右翼に寛容な人なんだろうな、程度に思っていた。それがとんでもなく大甘の認識だったことを思い知った次第。

 そこでネット検索をかけたら、以前からの堤未果の悪評が出てくるわ出てくるわ。たとえば下記東本高史氏のブログ記事は2010年7月に書かれている。堤未果のアブナさは何も最近始まったばかりではないようだ。

 

mizukith.blog91.fc2.com

 

 以下引用する。

 

以下は、あるMLで堤未果さんという少壮のジャーナリストを評価する向きの発言がありましたので、その発言に否を唱えた私の応答です。

堤未果さんについては彼女が若くして日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞を受賞したことや一昨年『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)を著わし、同著書が30万部を超えるベストセラーになったことなどから、いわゆる革新・護憲陣営の中にも彼女を「革新勢力の旗手」として評価する向きが少なくありません。しかし、その評価は私は少し以上に誤っていると思います(このようにやわらかく表現しておくのは彼女はまだ若く、これからよい方向に変化する可能性もないわけではないからです)。以下、警鐘の意味を込めて同文をエントリしておこうと思います。

○○さん。あなたは間接的な表現ではありますが堤未果さんを評価されているようですが、堤未果さんは評価に値するような人でしょうか? 私には疑問です。

堤未果さんは一昨年の国会での国籍法改正審議の際に同法改正に反対する「アホウヨ」まがいの実にくだらない意見を東京新聞に発表しています。彼女の左記の発言の全文とその意見のあまりの「ばかばかしさ」についてはmacskaさんのブログに適切な指摘があります。

参議院議員川田龍平さんのパートナーで『ジャーナリスト』の堤未果さんが、11月30日付けの東京新聞に国籍法改正についてのコラムを掲載している。全体を読まないとそのばかばかしさが十分に分からないと思うので、以下に全文引用する。」
http://d.hatena.ne.jp/macska/mobile?date=20081209&section=p1
http://d.hatena.ne.jp/macska/20081201/p1

さて、あなたが好尚するネット上では堤未果さんの人物評について次のような意見も散見されます。

堤未果っていう人の考えていることがよく分からない。アメリカでの貧困の告発をする彼女と、日本のネトウヨまがいの連中に賛同してしまう彼女が、同じ人格の中で同居しているのが、よく分からない」(雲さんTwilog  2010年7月15日付)。また、左記のTwilogによれば堤未果女史はどうやら「夫婦別姓合法化」にも反対している様子でもあります(ウラはとれていません)。

川田龍平氏が新自由主義ポピュリズムの政党であるところのみんなの党に鞍替えしたことにはかつての仲間内からも批判は多いのですが、その批判の中には堤未果さんの川田氏に対する負の影響を指摘する人も少なくありません。私としてはプライベートにわたる点もあり、事実を根掘り葉掘り確かめるのも気が引ける話なのでうわさ話の程度に聞き置いていますが、上記の東京新聞上の彼女の論を読むにつけそのうわさ話(ほんとうは川田夫妻をよく知る確かな人の話でもあるのですが)にかなりの信憑性を感じているしだいです。

それにしても堤未果さんが『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書。同著は30万部を超えるベストセラーになりました)など何冊かの本を出しただけで、確かな批評眼もなく一部に彼女を持て囃す風潮がありますが、正直なところ私はうんざりさせられています。

私は先のエントリで次のような意見を述べておきました。

本来「革新」の言説を発信する媒体であるべきメディアが逆に大マスコミの論調に巻き込まれた「論」を展開し、その「論」のまやかしに気づかない読者を拡大しているという逆説が横行しているというのが残念ながらいまの護憲・革新陣営の現状です。

上記の現象もその一例のように私には見えます。
 
(Blog「みずき」2010年7月21日)

 

 上記記事からリンクされている2008年の「はてなダイアリー」の下記ブログ記事を読んで、堤未果(と川田龍平)が国籍法改正に反対していたことを知った。
 

d.hatena.ne.jp

 

 以下引用する。

 少し遅れて知ったのだけれど、国籍法改正に反対票を入れ、自分のブログでは「国籍法について」というエントリだけトラックバック欄を削除した(わたしは、かれがトラックバック欄を削除する前に批判エントリからトラックバックを送っていたのだけれど、慌ててトラックバック欄だけ消したためか、サイドバーの「最近のトラックバック」の欄にはわたしのトラックバックは残っているが、他の人がトラックバックを送ることはできない)、参議院議員川田龍平さんのパートナーで「ジャーナリスト」の堤未果さんが、11月30日付けの東京新聞に国籍法改正についてのコラムを掲載している。全体を読まないとそのばかばかしさが十分に分からないと思うので、以下に全文引用する。

「本音のコラム」 民主主義の宝 堤未果

 かつてケネディ大統領は米国民にこう語った。「国があなたに何をしてくれるかでなく、あなたが国のために何ができるか自問してほしい」

 六月の最高裁違憲判決を受け、衆院でわずか三時間の審議で可決された「国籍法改正法案」が参院で審議されている。

 日本人男性と外国人女性の間に生まれた子に対し、父親が認知さえすれば(DNA鑑定はなし)日本国籍取得を認めるという同法に、偽装認知など多くの危険性がある事に議員が気づき、見直しを要求したが同案は衆院を通過。その後、慎重審議を求める声が与野党で拡大し、参院では入管審査徹底という付帯決議をつける条件で採決を先送りしたのだ。ある自民党議員は最高裁判決が出たからと思考停止する政治家を批判。「怖いのは全会一致となったらおかしいと思っても声を上げられないその仕組みだ。」

 過去に権威が決定を下した時「しょうがない」と受け入れた為に道を誤ったと悔やむ声は歴史上少なくない。今回、議員たちを揺さぶり疑問を投げかけたのは国会事務所に殺到した国民からのファクスやEメールだった。政治は民が動かすのだ。

 主権者の権利を付与する「国籍」という重要事項が選挙で頭が一杯の政治家にずさんに扱われる。その立法構造に疑問を持ち、声を届け続ける国民の存在こそが民主主義国家の宝ではないか。

 ケネディの演説との関係が全然見えないし、「ある自民党議員」として引用されているのが、国会議員に対して一人何十・何百というFAXやメールを届けるよう呼びかけるなど、率先して国民を煽動している戸井田とおる衆議院議員のことだったり、あるいは最高裁が国家の人権侵害を指摘し違憲だと言っていることを、過去に国が道を誤る原因となった「権威」の決定であるかのようにすり替えたりと、突っ込みどころが多過ぎてもうどこから始めれば良いのか分からない。

 でも注目するべきは、「今回、議員たちを揺さぶり疑問を投げかけたのは国会事務所に殺到した国民からのファクスやEメールだった」という部分。要するに、「川田龍平ネットウヨの煽動によって大量に届けられたFAXやメールの山に恐れをなして迎合しました」と告白してるとしか思えない。(後略)

 

(『*minx* [macska dot org in exile]』 2008年12月9日)

 

 2008年末といえば民主党への政権交代の気運が盛り上がり始めていた時期*1だったが、政権交代を求める勢力の中には「『右』も『左』もない」と称して平沼赳夫城内実を持ち上げる勢力が(特にネットでは)強かったことを苦々しく思い出す。

 国籍法改正といえば忘れられないのが11年前の11月11日にその城内実(当時衆院選に落選して浪人中だったが現在は自民党衆院議員)が書いた恥ずべきブログ記事で、一時期私はこの城内を批判することに躍起になっていたものだ。"bakawashinanakyanaoranai" という当該記事のURLに含まれるローマ字の文字列は、あまりにもしばしば打ち込んだもので、今も指が覚えている(笑)。この文字列を検索語にしてネット検索をかけると、城内実ブログの問題の記事に簡単にアクセスできるから実に便利だ。

 

www.m-kiuchi.com

 

 上記ブログ記事には、引用する気も失せる醜い文章が羅列されている。あまりにも城内実の印象が強烈だったため、他に国会議員で目立った田中康夫がやはり反対していたことは覚えているものの、堤未果が反対論に加担していたことは今回ネット検索でやっとこさ認識した。移住連のファクトチェックを読んで城内実関岡英之を連想した直感は正しかったが、堤未果のアブナさに気づくのに10年以上もかかったとは迂闊だった。

 ところで、この記事を書こうとして移住連の記事についた「はてなブックマーク」を見ていて、驚くべきブクマコメントをみつけた。以下に示す。

 

【お知らせ】堤未果著『日本が売られる』についてのファクトチェックを幻冬舎に送付しました | 移住連 |Solidarity Network with Migrants Japan -SMJ

目次を読む限り, アンチ資本主義 + 排外主義みたいな感じかなぁ. 学生運動を経た高齢者に多い印象. // 赤旗が好意的に取り上げてた…. <a href="http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-12-11/2018121101_06_0.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-12-11/2018121101_06_0.html

2019/03/13 11:49

b.hatena.ne.jpm

 

 早速リンク先を見てみた。

 

www.jcp.or.jp

きょうの潮流

 いつの間にか政府が国民の生活に値札をつけて外国や企業に売り渡す。水や土、森や海、農や種、食や福祉、教育や医療、労働者まで―。安全や命にかかわるものが差し出されていく▼堤未果さんの新著『日本が売られる』は築いてきた国のかたちが売国政治によって壊される現状を豊富な例で告発しています。次々に売られていく大切なもの。その激流のなかで私たちが本当に立ち向かうべきものとは何かと▼臨時国会が閉幕しました。外国人労働者の拡大、沿岸漁業への企業参入、水道の民営化。いずれも営みを大きく左右し、国の今後にかかわる重要法案を安倍政権は審議することまで拒んで強行しました。国民への説明を投げ捨てて▼国会の空洞化はこの政権がいかに国民をないがしろにしているかをあらわにしました。もはや民主主義国家としての体を成さない状態までおとしめたことに志位委員長はアベ政治の破たん、財界べったりの害悪ここに極まれりと▼浜の漁民の労苦を涙ながらに訴える、命まで奪われる外国人実習生の過酷な労働実態を突き付ける。日程ありきでしゃにむに押し通す与党に対し、野党は共闘して事実と現場の声をぶつけ、まともな論議を最後まで求めました▼堤さんは「今だけカネだけ自分だけ」の暴走に反撃する世界の動きをあげ、売られたものは国民の力で取り返せと呼びかけます。安倍政権の打倒にも欠かせない三つの力があります。暴挙を忘れない、たたかうことをあきらめない、手を携えて団結する。

(『しんぶん赤旗』2018年12月11日)

 

 なんと、『しんぶん赤旗』、つまり日本共産党の機関紙の編集部からも、堤未果の本を読んでその極右排外主義を問題と感じる批判能力が失われていたようだ。

 終わったな、日本共産党。もはやこの国は極右排外主義的民族主義に覆い尽くされているようだ。これこそ「『右』も『左』もない『崩壊の時代』」。

*1:当時総理大臣の麻生太郎朝日新聞記者の曽我豪に書かせた『文藝春秋』2008年10月号の「論文」で就任早々の衆議院解散を宣言しながら勝てそうにもないとする自民党内の調査結果にびびって解散できなかった一件があった。

「××信者」は「法の支配」を理解しているか

 安倍晋三が国会で「法の支配」の対義語を答えるクイズを出されて答えられなかったといって話題になっているらしい。

 

 

 私は法学部を出ていないので、「法の支配」の対義語が「人の支配」だと言われたらなるほどとは思うけれども、安倍晋三と同じように聞かれたら答えられなかったに違いない。高校の頃、「法の支配」に「法治主義」を対置する言い方を習ったことがあって、それをこの日記に書いたことが以前あったが、この対置は大学入試にも出題されたことのある言説だけれども実は正しくないという指摘を法学を学んだ方からいただいたことがあったと記憶する。まあ「法の支配」に「人の支配」を対置するならすっきりとはしているし、安倍晋三成蹊大学法学部卒)はもちろん、安倍を信奉するネトウヨ(実態は「安倍信者」)が本心では「人の支配」あるいは「人治主義」を奉じていることは明らかだろう。

 しかし、それを嗤っている側の人間も、どれだけ「法の支配」を理解している、あるいは「法の支配」の考え方が身についているかは大いに疑問だ。「小沢信者」や「枝野信者」(「立民信者」)、あるいは「共産党信者」の面々が「法の支配」を理解しているはずがなかろう。理解していたら個人(や政党執行部への)崇拝に走るはずがない。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉を思い出したが、それは、そもそも「法の支配」の対義語が「人の支配」であると答えられなかったに違いない私自身がかみしめるべき言葉なんだろうなと苦笑した次第。

 なお、「安倍晋三は『法の支配』の対義語を正しく答えていた。答えられなかったとするのはデマだ」とする安倍擁護派の議論とそれに対する反論がネットであったのをみつけた。以下にリンクだけ張っておくが、議論はどうあれ、安倍が本心では「人の支配」や「力の支配」を信奉し、それに沿った政治を行っていることは明らかだ。

 

www.jijitsu.net

 

www.kitaguchilaw.jp

世界最凶の単位とは

 3.11の日だけど軽い話題でお茶を濁す

 

 こんなTogetterがあるんだね。

 

togetter.com

 まとめられているツイートからいくつかピックアップする。

 

  これはいえる。四半世紀前の思い出だが、アメリカでテレビを見てると気温が華氏で言われる。華氏から摂氏への換算は暗算が難しい。止めてくれと思った。

 

 私にも同じ経験があることは先日書いた。

 

 そして、このTogetterで世界最凶の単位を発見してしまった。

 

  そうだ! あの「東京ドーム」ほどむかつく「単位」はない。ほんとハラタツ。ちなみに関西では「甲子園球場何個分」という。甲子園ならまだ我慢するが東京ドームだけは許せん。なお「神宮球場何個分」という言い方に接したことは一度もないし、数年後には神宮球場は壊されるらしい。

「政府による『選択と集中』はこんなにも非合理だ」(飯田泰之)

 「財政政策も重視する『リフレ派』」のはずでありながら、リフレ派右派に対する迎合ばかりが目につく飯田泰之という人に対して私は強い不満を持っているが、下記記事で展開されている主張についてはその通りだと思う。っていうか、いまどき政府の「選択と集中」なんかが良いと思ってる人なんか本当にいるの?という気もするが。特に、国の研究者の方からは悪口しか聞いたことがない。

 

gendai.ismedia.jp

 

 一点非の打ち所がない正論だと思うので、以下に全文を引用する。

 

ビジネスのみならず、行政や政策に関してさえ「選択と集中」という言い回しに出会う機会が増えている。もとは経営戦略の一手法を指す用語であった「選択と集中」であるが、行政や政策のフィールドでこの語が言及されるとき、それは、「当たり馬券だけを選んで買えば、競馬で大儲けができる」という話のような非現実的な議論に陥りがちだ。 

国立大学運営の基本予算である運営交付金は独立法人化直後の1兆2400億円から近年では1兆円程度まで減額され、加えて重点分野・大学への重点配分枠を増大させている。選択し、集中を進めたことで日本の大学の研究や教育の質は上昇しただろうか。

これからの日本のコンテンツビジネスを進行するとして鳴り物入りで登場したクールジャパン関連事業は毎年500億から600億円の予算措置を受けているが、明確な成果を得られていない。

個別の企業の経営戦略としての「選択と集中」、政策として実施される「選択と集中」は似て非なるもの、そして後者にとって時に有害なものなのではないだろうか。

「多様性と分散」こそが必要

選択と集中」という言葉をビジネス界に広めたのは何といってもジャック・ウェルチだろう。1981年から2000年にかけてGE(General Electric)の経営者を務めた氏による経営戦略の基本方針は明確だ。業界No.1かNo.2になることができない業務からは撤退する――企業の人材・知識・資金は有限であるから、十分な収益を期待できる分野にそのリソースを集中して利益率を上げていく。

同社の顧問でもあった経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーがこの戦略を発案者ともいわれる。ウェルチ体制の下でGEの売上高・利益率はともに6倍以上に伸びるところとなった。

選択と集中の有効性を示すエピソードして有名なGEの成功であるが、十分な収益を期待できる分野にそのリソースを集中して利益率を上げていく――というのは「経営戦略」と呼ぶほどのものなのだろうか。他の企業、さらには行政や政策の分野でも参考にし得るものなのだろうか。

以上の概要を聞いてだれもが思い至るのが、「十分な収益を期待できる分野」がわかれば苦労しないというものではないだろうか。実際、当のGE自体も2000年以降、選択し集中した業務の一つである不動産事業の失敗、買収企業の業績不振による再売却など、「選択と集中」に成功し続けているわけではない。

どこかに天才的な経営者がいて、経済の未来を見通して大胆な選択、そして集中に成功することもあるだろう。または、単なる偶然として選択し、集中したら結果として業績が上がるというラッキーパンチもあるだろう。

そのプロセスはともかく、どこかには成功している企業があるという点に注目されたい。無数の企業、無数の経営者が自身の信念に基づいて経営を行い、結果として社会・経済のニーズに合致したものが生き残っていく。このダイナミズムを通じて、一国全体での平均生産性の向上や経済成長が達成されていく。

個々の企業による選択・集中戦略の成功の陰には、無数の選択・集中の失敗が隠されている。多種多様な、無数の企業による試みがあるからこそ、そのなかで成功を収める企業も登場する。

個別企業の「選択と集中」の成功は、経済全体での多様性の中から生まれてくる。むしろ社会における多様性の恩恵を受けながら、自社のみが「選択と集中」を行うことができるところに、経営戦略における「選択と集中」を成功させる要因があるのではないかと思われる。

失敗の歴史としての「選択と集中

マクロレベルで特定の活動を選択し、資源を集中投下するという政策方針は、経済・社会の多様性を低下させる。経済活動に限らず、上からのコントロールは本来ならば活躍できたかもしれない様々な試みを摘み取る危険性をはらんでいる。

その最大の例はソヴィエト型社会主義の失敗だろう。社会主義の失敗を平等主義の失敗ーーごく単純な例としては努力してもしなくても所得が同じなら誰も努力はしないだろうといった議論、と結び付けられることが多い。

しかし、共産主義政権下においても党内での地位や配給の優先といったインセンティブづけが行われており、所得のみでは計測できない不平等が存在した。むしろ、社会主義の失敗は計画経済の困難にあった。

社会主義計画経済において、当局は生産すべき財・サービスの種類・量を提示しなければならない。社会のニーズを予想することそのものが難しいことはいうまでもないだろう。

それに加え、計画内容の決定を「人」が行うことの問題もある。計画立案者が、直接の上司、さらなる上位の党幹部を納得させることができる生産計画は「誰もが否定できない定番の商品」を「いままでの実績の延長線上で考え得る量」だけ生産するというものになる。

組織で働いたことのある者なら多かれ少なかれ経験する事態であるが、それがマクロレベルで生じるのだ。結果、経済活動の多様性は低下し、画一的な商品のみが生産され続けることになる。

計画的な経済運営が奏功するのは、目指すべき経済状態、例えば産業構成や技術開発方針の「正解」が見えている場合に限られる。

途上国における開発独裁が一定期間の有効性をもつのは「追いつくべき姿(産業構成や特定の商品の生産量など)」という、それなりに合理性のある目標が与えられているからだ。新商品の開発や新たなビジネスモデルの発見が利益の源泉になる経済では、試行錯誤のプロセスを萎縮させる計画――上からの「選択と集中」の指令は経済成長の阻害要因となる。

政府による選択と集中の危険性を示す好例が、高度成長期日本の特定産業振興臨時措置法(特振法)だろう。1963年(昭和38年)3月閣議決定された同法案では、鉄鋼・有機化学・自動車を特定産業に指定し合併と整理統合を通じて競争力ある企業をつくることが目標とされた。特定の企業を選択し、その企業に資源を集中させることで成長を加速させようとしたわけだ。

特振法をめぐるエピソードは城山三郎の『官僚たちの夏』のモチーフとなっていることから、どこかで耳にされたことのある方も多いだろう。

63年から64年にかけて3回にわたって国会に提出されるも、幸いにも、いずれも審議未了のまま廃案となった。同法案が通過していたならば、ホンダやスズキの自動車が生まれることはなかった。(小型車生産企業に指定されたであろう)スバルのインブレッサもBRZもこの世に存在しなかっただろう。「選択と集中」が行われなかった未来から振り返ると、同法がもたらしたであろう危険性を確かに感じることができる。

このようなエピソードベースの話を離れても、政府による成長産業の指定・育成が当該産業の成長につながらないことは統計的にも示されている。戦後の日本において、税制優遇や補助金による産業育成・支援をうけた産業ほど成長していない。

「正しくばらまく」ことの必要性

ミクロの「選択と集中」の成功は、マクロの多様性に支えられている。政策当局が正しい「選択と集中」を行うことができる可能性は限りなく低い。

このように書き進めると、単に変化を避け、現状維持を礼賛する主張のように思われるかもしれないが、それは誤解である。人口の年齢構成、世界的な産業構造の変革期において、これまで通りの資源配分を維持することもまた合理的ではない。

むしろ、将来・未来のことは予想できない、わからないという前提に立った資源・予算配分への変更こそがいま求められているのではないだろうか。例えば、研究費の配分を考える際に、事前にどの分野が将来の役に立つか全くわからないならば、合理的な予算配分の方法は均等割になる。

無論、現実には分野毎に最低限必要な予算に差はあるわけだが、分野や機関間ではある意味「メリハリのない予算」が合理的な配分になるだろう。一方で、各分野内での大学・研究機関の中ではそれぞれの機関の方針にあわせて選択と集中を行えば良い。多様な思想・アイデア・基準による選択と集中がそれぞれ行われることが、「成功する選択と集中」を生み出すコツなのだから。

筆者にとって身近な研究費の配分を例に取ったが、これに限らず、多様なタイプの「選択と集中」を生み出すためには何が必要かという視点が必要だ。「選択と集中」は「あたり馬券だけを買う方法」ではなく、いかにして「政策をギャンブルにしないか」を考えるための反面教師として語られるタームなのではないだろうか。

 

飯田泰之「全国民必読! 政府による『選択と集中』はこんなにも非合理だ」 - 『現代ビジネス』2019年3月5日)

 

 引用文中赤字ボールドにしたのは特に共感した部分。また、青字ボールドにした部分については、昨年12月に城山三郎の『官僚たちの夏』を読み、先日もこの日記で小説のモデルになった元通産事務次官・佐橋滋に言及したばかりだからよく覚えているのだった。

 

官僚たちの夏 (新潮文庫)

官僚たちの夏 (新潮文庫)

 

 

 上記新潮文庫の解説文にも、後世の目から見た特定産業振興臨時措置法(特振法)に対する否定的見解が書かれていたが、それには私も同感で、佐橋滋に寄り添って書いた城山三郎には申し訳ないけれど、あの法案が成立しなかったのは日本経済にとって幸いだったと思った。飯田泰之は「政府による成長産業の指定・育成が当該産業の成長につながらない」と指摘しているが、これは本当にその通りだ*1

 ただ、佐橋滋に代表されるような統制経済的な伝統が今も経産省には根強く残っていており、また他ならぬ『官僚たちの夏』に書かれていた通りの通産省(現経産省)の民族主義的な体質も相俟って、それが安倍政権の「原発と軍事にはバラマキ、庶民には緊縮」というトンデモ政策につながっているんだろうなと強く思う。

*1:ところが、今朝(3/10)のサンデーモーニングでも、寺島実郎がなかなか進まない東電福島原発廃炉に関連して、「日本は原子力の技術者をもっと育成すべきだ」などと頓珍漢なことを言っていた。これを聞いて、この人は本当に有害無益だな、サンデーモーニングはいつまでこの人を出演させるつもりなんだろうな、と改めて思った。

「コンピューターおばあちゃん」は今も健在だろうか

 なんか変な勘違いをしていて、昨年4月に「19世紀の生き残りがいなくなった」ことを知った記憶*1がねじ曲がって、いつの間にか「明治の生き残りがいなくなった」と思い込んでいた。とんでもない思い違いだ。まだ去年のニュースから1年も経ってないのに、人間の記憶とは実にいい加減なものだとわれながら呆れた。以下朝日新聞デジタルより。

 

https://www.asahi.com/articles/ASM3952CYM39TIPE00T.html

 

116歳の「スイーツ女子」 世界最高齢ギネス記録に

合田純奈 

  

 福岡市東区に住む116歳の田中カ子(かね)さんが9日、世界最高齢ギネス世界記録に認定された。ギネスワールドレコーズジャパン社から認定証を手渡されると、「ありがとうございます」と言って顔をほころばせた。

 田中さんは1903(明治36)年1月、旧和白村(現福岡市東区)生まれ。この日、田中さんは入所する老人ホーム内の会場に、手押し車を押しながら歩いて登場。甘い物が大好物で、ひ孫からチョコレートを渡されると、ぱくっと口に入れた。「いくつ食べたい?」との問いかけに「100個」と答え、市が用意したイチゴのケーキも元気にほおばった。

 今までで一番楽しかった出来事を聞かれると、「今!」と力いっぱい答えた。

 親族によると、東区で長年、もち屋を一人で切り盛りし、実子4人と親戚の子ら4人を育てた。好奇心旺盛で勝ち気な性格。昨年7月に国内最高齢となった際には「次は世界一」と意気込んでいたという。

 男性の世界最高齢は、ギネス認定されていた北海道の野中正造さんが今年1月に113歳で亡くなっており、ギネス社が調査中。(合田純奈)

 

朝日新聞デジタルより)

 

 田中カ子さんはコンピュータは操作なさるんだろうか。なぜこんなことを書くかといえば、この手のニュースに接するたびに、あの「コンピューターおばあちゃん」は今も健在だろうか、と思ってしまうからだ。その歌詞には間違いなく「明治生まれ」とあった。
 前にも書いた記憶があるが、「コンピューターおばあちゃん」がNHKの「みんなのメロディー」の年間優秀作品だったかを受賞した番組を見た記憶がある。1982年3月だったかと思うが、なにぶん去年の記憶もあやふやな人間だから自信はない。その数年前には「与作」が年間最優秀作品に選ばれ、北島三郎の代表的な持ち歌の一つになった。
 あと、1976年から78年まで総理大臣を務めた福田赳夫が「私は若い。明治38歳だ」と言っていたことも思い出される。田中カ子さんはその福田赳夫より2年年長に当たる(学年ではどうかと思って調べてみたら、2人とも早生まれだった)。
 
 最初に書いた私の恥ずかしい勘違いの件に戻ると、よく病院なんかで書かされる生年月日から元号を選ぶ欄で、「明治」なんてもう要らないんじゃないかとこの間も思ったばかりなのだが、まだまだ要るんだね。元号を選択する欄を消して西暦を書かせるようにすれば良いじゃないかとも思わなくはないが、年配の方には自分の年を西暦で覚えていない人も少なくなさそうだからそうもいかないだろう。