kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新自由主義勢力の巻き返しが目立った統一地方選前半戦

 統一地方選の前半戦では、維新が大阪のダブル選挙で予想通り2勝を挙げたほか府議義戦でも議席を伸ばし、名古屋市議選でもずっと続いていた減税日本の退潮が止まって中日新聞に「躍進」と報じられるなど、手垢のついた一昔前の新自由主義勢力の巻き返しが目立つろくでもない結果となった*1。大阪ダブル選での維新2勝は大阪自民の惨敗であるにもかかわらず安倍晋三菅義偉を大いに喜ばせたらしいが、「勝手連」方式で自民候補に乗っかって予想通り大失敗した共産党からは反省の声は上がっているのだろうか。

 また立憲民主党は都市部ではそこそこ議席を伸ばしたが地方で苦戦したらしい。この党のコアな支持者たちも最近とみに新自由主義色を強めているから、これでは都市部でしか通用しないだろうなと思っていたら案の定。国政選挙では地方で強い共産党と組むしか実質的な選択肢がないことが改めて示されたが、今の立民だの共産だのに有権者にアピールするものがあるとは思われない。現状の延長線上では参院選の展望も得られないだろう。

 今後7月の参院選までの間に、日本経済の落ち込みによる生活への影響がもっと強まるはずだが、とりわけコアな立民支持層(彼らのあり方は「立民信者」に近い)が立民執行部に「もっとネオリベ化せよ」みたいな圧力をかけている現状を見ると、参院選にプラスになるとはとうてい思われない。

 2007年の夢よもう一度、とは行きそうにもない。

*1:北海道知事選で野党側が候補者の選定を誤り、裁判で有罪が確定した候補を立ててみすみす票を失う自滅をやらかした。新自由主義勢力の躍進とは直接関係ないかもしれないが、野党側に何が何でも勝とうとする意欲が全く感じられなかった。

「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」に何よりも必要なのは「批判」だ

 現在、読書ブログに書くべき案件(といってもエンタメ関係だけど)をどうまとめようかと思案していて、こちらに公開する記事に力が入っていないのだが、下記醍醐聡氏のツイートに「わが意を得たり」と強く共感したので紹介する。

 

 

 どの政党の党員、支持者であれ、疑問、異議を棚上げして、その政党に尽くすのは理性的な参政ではなく、信仰の世界の「帰依」。本当にその通りだ。

 こんなことは政治的な意見発信における「きほんの『き』」だと私は思うのだが、それができていないどころか、そういう姿勢を見せる人間を排除する、どうしようもない「同調圧力」が、「リベラル・左派・左翼」と「ネトウヨ」の双方のクラスタの内部に強く働いている。そうとしか私には思えない。だから私は彼らを「小沢信者」、「立民(枝野)信者」、「共産党信者」、「安倍信者」などと呼んで強く批判するのだ。

 

 

 そんな国会議員などほとんどいないと私は断言する。それは、国会議員の側にも問題があるが、それ以上に議員たちを甘やかす支持者の側に大きな問題がある。彼らは、支持政党やそれに属する議員を批判するよりも、政党や議員に意を唱える意見を発信する者を批判する方を優先させるのだ。はなはだしい人間に至っては、「鼻をつまんで」投票するという行為自体を批判する。この「鼻をつまんで」という表現を私も多用するのだが、ある時、既にこの日記のコメント欄から離れたかつての某常連が、「あいつは尖鋭化しすぎて『鼻をつまんで』という言い方しかできなくなっている」というような私に対する陰口をたたいていたのを目撃した。この物言いをした人間は2,3年前の小池百合子人気の全盛時に小池を強く批判していた人物なのだが、その人物にしてそんなことを言うとは、現在のこの国における「同調圧力」の強さが、政権支持側・反政権支持側を問わずにいかに強いかを物語る。

 これこそ、「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」における人間のありようだ。まずこれを克服しなければならない。現在の日本には「批判=悪」であるかのような風潮があるようだが、これこそ最大の誤りだ。現状の問題点を把握してそれを批判することはあらゆる改善の出発点だ。「批判=善」なのである。

中国で「令和」が2018年10月に商標登録されていた

 プロ野球セントラル・リーグは早くも読売が首位を独走する構えを見せていて不愉快極まりないが*1、2003年の「阪神優勝」を連想させる話題があった。この件も四月馬鹿かと思いきや事実だった。

 

news.yahoo.co.jp

 

中国で令和が既に商標登録されていることの影響について

4/2(火) 20:51

 

AbemaTimesの報道で知りましたが、中国において「令和」が既に商標登録されていました。2017年11月16日に出願されているので勝手出願・抜け駆け出願といった不正目的出願ではなく、偶然の一致としか考えられません。なお、本出願は、2018年10月21日に登録され、既に商標権が発生しています。権利者は河北省の個人の方のようです。指定商品は(日本酒を含む)酒類です。

元号選択時に商標登録されていないものという条件があると言われていました(そして、実際「令和」を含む登録商標はありません)が、外国の登録までは調べていなかったのでしょう。

これにより、日本企業にはどのような影響があるでしょうか?

商標権の効力は基本的にその国の中だけなので、この商標登録が日本国内でのビジネスに影響を及ぼすことは基本的にはありません。ただし、以下の点には注意が必要です。

日本国内で「令和」という名称の酒を売るのは自由(「令和」を商標登録することはできませんが、使用することが禁じられているわけではありません、独占できないだけです)ですが、その酒を中国国内で販売すると、商標権者に権利行使され、販売差止めや損害賠償を請求される可能性があります(正確には、日本から中国に輸出しただけで税関で差し止められる可能性があります)。

また、前回書いたように、「令和+識別力のある文字」で商標登録することは可能です。たとえば、「令和蔵」、「令和の宴」という商標を酒を指定商品にして日本で商標登録することは可能であり、商標権者は日本国内でその商標を独占的に使うことができますが、その酒を中国に輸出すると、「令和」と類似するとして、商標権者から差止めや損害賠償を請求される可能性があります。

さらに、もし、上記の「令和蔵」や「令和の宴」の商標権者が中国で正規にビジネスを行なおうということで、中国で商標登録出願を行なうと、先登録の「令和」と類似するとして拒絶される可能性が出てきます。

ただし、ここまでの話は海外で商標登録されている場合に共通の話であって、元号だからどうしたという話ではありません。元号特有の問題点として、たとえば、酒瓶に大きく「令和元年醸造」等と書いてあった場合に、中国における「令和」の商標権を侵害するリスクがないとは言えない点があります。日本においては、このパターンは「商標的使用ではない(ブランドとしての使用ではない)ので商標権は及ばない」と抗弁すれば済む話なのですが、中国の裁判所は「商標的使用」という概念が薄く、この抗弁が通用しにくいケースがあるからです。

(追記)

令和以外の候補ついて中国での登録状況を調べてみました。それぞれを含む登録商標の件数は以下のとおりです(類似についてはチェックしていません)。なお、中国は1出願1区分なので日本の場合よりも件数は多めになります。

「久化(きゅうか)」:1件

「英弘(えいこう)」:19件

「広至(こうし)」:なし

「万和(ばんな)」:なし

「万保(ばんぽう)」:156件

 

Yahoo! ニュースより)

  

 登録商標でもまた中国に先を越されてたってことか。

*1:そういや「平成元年」(1989年)に優勝したのも読売だった。しかも、日本シリーズ近鉄相手に3連敗後の4連勝というおまけまでついた。この球団はよほど天皇制との相性が良いらしい。長嶋茂雄の「天覧試合」での本塁打がすぐ思い出されるし、次期天皇が「浩宮」と呼ばれていた子ども時代に、読売の末次民夫(のち利光と改名)のファンだとどっかで読んだことがある。確か日本シリーズの阪急戦で末次が殊勲打を打ったあとだったと記憶する。

新元号の選定基準は「安倍晋三が喜ぶかどうか」だった

 最近の右翼の何が嫌かといって、たとえば百田尚樹あたりがよく言うような、「国語の授業で漢文を教えるのを止めろ」式の軽佻浮薄な物言いほど嫌なものはない。私は中高生の頃から国語は苦手だったのだが*1、それでも最初に漢文の授業を受けた時には、千年以上前の中国の文人の思考や感情に接することができて感動したものだった。私にしてみれば、百田らの物言いは「夜郎自大」以外の何物でもないように思われる。しかも百田らのあり方はこの国の没落を否認するための強がりでしかないのだから、みっともない、恥ずかしいとも思う。しかし、共同通信世論調査で新元号を国書からとったことの賛否を問う質問に84%だかの人間が肯定的な答えを返しているのだから、これはもうどうしようもない。

 

 

 リンクされた朝日新聞デジタルの記事は有料だが、途中までは無料でアクセスできるので、以下に引用する。

 

https://www.asahi.com/articles/ASM434TFSM43UTFK00M.html

 

国書に敗れた漢籍 改元支えた漢学の名家「宇野家」とは

 

 4月1日。石川忠久・二松学舎大元学長は東京都内の病室で、新元号「令和」を発表する菅義偉官房長官の記者会見をテレビで見守った。菅氏が「典拠について申し上げます。令和は万葉集の……」と初めて国書を典拠にしたことを明かすと、一瞬驚いた表情を浮かべ、つぶやいた。「やっぱりかあ」

 3月14日付で正式な政府の委嘱を受けた石川氏は漢詩研究の第一人者。実は2年前の夏までに、計13案を考案していた。政府から渡されたA4の提出用紙の束に1案ずつ毛筆でしたため、日本漢学の聖地「湯島聖堂」(東京・お茶の水)にある執務室で、内閣官房の担当者に手渡した。

 「万和(ばんな)」(典拠は文選(もんぜん))、「光風(こうふう)」(楚辞(そじ))、「弘大(こうだい)」(詩経)……。漢籍元号案が続く中、担当者の顔色が変わった。石川氏にとっては専門ではない、聖徳太子十七条憲法にある「和をもって貴しとなす」から採った「和貴(わき)」を見せたときだった。これは国書案である。

 担当者は「首相も喜びます。これでいきましょう」。13案の「筆頭案」に位置づけることになった。この時、石川氏は「権威ある漢籍より、国書の方が好まれる。もはやそういう時代か」と感じたという。最終的に「和貴」は政府原案には残らず、漢籍典拠の「万和」が最後の6案に残ったが、国書典拠の「令和」に敗れる結果となった。

 江戸時代までは、知識人にとって学問の中心は漢籍だった。明治以降は西洋の学問にとってかわられたが、漢籍に典拠を求める伝統は続いた。そこでは、研究者から「漢学界のサラブレッド」と呼ばれる一家が深く関わっていた。

 宇野家――。戦後70年、中国…

 

朝日新聞デジタルより)

 

 「首相も喜びます。これでいきましょう」か。なんて露骨な忖度。「和喜」自体は予選落ちしたとはいえ、それよりはるかに悪質にしてもっと安倍晋三が喜びそうな、いや実際に喜んだ[令和」が選ばれた。そして瀬戸内寂聴湯浅誠といった「リベラル」らがそれに翼賛する。なんてこったい。

 

 上記朝日新聞デジタルの記事についた「はてなブックマーク」から拾う。

 

b.hatena.ne.jp

 

国書に敗れた漢籍 改元支えた漢学の名家「宇野家」とは [令和]:朝日新聞デジタル

訳とか由来とか色んなの経由したけど、選ぶ連中が「喜ぶかどうか」っつうアレな態度でやってたって所に問題の焦点は結びそうだなぁ

2019/04/04 23:33

b.hatena.ne.jp

 

国書に敗れた漢籍 改元支えた漢学の名家「宇野家」とは [令和]:朝日新聞デジタル

首相が喜ぶかどうかが選定基準になっていることに少なからず驚く。

2019/04/04 16:56

b.hatena.ne.jp

 

 私には驚きは全くない。新元号が公表される前からずっと「国文学から選ばれることは疑う余地がない」と書いてきたし、そう予想した根拠は「安倍やネトウヨ(=『安倍信者』)が喜ぶから」以外の何物でもない。

 ただ、「やっぱりそうだったんだな、まあ『崩壊の時代』だからな」と思うのみ。

*1:そもそも、文学部的な資質は私には全くないことを自覚している。たとえば私は最近になって小説をよく読むようになったが、それは小説というのがそれがが書かれた社会や時代を理解するために恰好の材料だということが理解できるようになってそれにはまったからであって、文学部的な関心からではなかったりする。

「セビージャの理髪師」とか「バーグナー」とか

 スペイン語ではvとbを区別しない話は、1992年暮から翌1993年の年初にかけて初めての外国旅行先としてスペインのアンダルシア地方に行った時、というか行く前に事前に調べて知った。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 それ以来、たとえばロッシーニの代表作とされる歌劇を「セヴィリアの理髪師」などと表記されているのを見るたびに(昔のクラシック音楽の世界ではこんなのが平気でまかり通っていた)目くじらを立てたものだ。

 もっとも、現在普通に使われている「セビリアの理髪師」も大いに怪しくて、これは「セビージャの理髪師」とすべきところだろう。ここらへんはサッカーファンの方のほうが詳しいかもしれない。

 

doorto.net

 

 上記リンクの記事の著者は、表記の好みの順番を「セビージャ>セビーリャ(セビーヤ)>>セヴィーリャ>セビリヤ」と書いている。しかし、「セビージャの理髪師」を検索語にしてネット検索をかけても、そんな表記を用いているサイトは全然みつからない。私は昔から日本におけるクラシック音楽の世界の後進性は想像を絶するほど酷い*1と思っているが、その一例といえる(?)かもしれない。

 

 ところで最初のリンク先の後半部分には笑ってしまった。

 

 実は、今回の「ヴ」消滅について最初に知ったのは、NHKの小泉知世「世界から『ヴ』が消える」という記事を読んだときだった*3。それによると、最近「ヴ」を使わなくなった国名には「ヴェネズエラ」(「ベネズエラ」)のほかに、「エル・サルヴァドル」(「エルサルバドル」)、「ボリヴィア」(「ボリビア」)もある。これらの国名は西班牙語なので、そもそも「ヴ」は不必要且つ不適切だったわけだ。これに限らず、日本の外務省は西班牙語を敵視しているんじゃないかとも思えてくる。それも、ヒスパニックを敵視するドナルド・トランプが米国に登場する以前からずっと。そもそも、西班牙本国も、エスパーニャでもなく(安土桃山時代以来の)伝統的な表記であるイスパニアでもなく、英語風のスペイン(Spain)だ。Mexicoも西班牙語読みに従ったメヒコではなく、英語が崩れた「メキシコ」*4。また、Algentinaも西班牙語に従ったアルヘンティナではなく、英語が崩れた「アルゼンティン」(「アルゼンチン」)*5。「ヴ」問題よりも、この西班牙語に対する異様な敵意の方が不思議だ。
話は変わって、独逸語に関しては、「ヴ」の問題はVかBかではなく、VかWかということで現われてくる*6。例えば、

 

 

マックス・ウェーバーマックス・ヴェーバーMax Weber
`ウィトゲンシュタインヴィトゲンシュタイン(Wittegenstein)

 

どちらが適切なんでしょうか。識者の御教示を仰ぎたいです。そういえば、『ベルリン天使の詩*7映画作家は、ヴィム・ヴェンダースと書かれてもウィム・ウェンダースと書かれることは殆どないように思う。まあ、「ビム・ベンダース」という表記を見たときには殺意が湧いた、ということはあるけれど。

 

 そういやナチスに政治利用され、本人もユダヤ人を差別するレイシストだったRichard Wagnerを「バーグナー」と書かれたら、世の「ワグネリアン(ヴァグネリアン)?」諸氏は「殺意が湧」くんだろうなと思ってしまった。私はワグネリアンじゃないからどうでも良いけど(笑)。

*1:何より権威にひれ伏す根性がはなはだしいし、それは専門家より一般のファンにとりわけ顕著だ。だから私自身もクラシック音楽をかつてよく聴いた(今でもたまに聴く)人間でありながら、あの集団には近づかないようにしている。