kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

植草一秀『知られざる真実 −勾留地にて−』を読む(2)

前エントリ*1の続き。植草一秀著『知られざる真実 −勾留地にて−』(イプシロン出版企画)からのメモ。

第1章 偽装(続き)
11. 日本経済混迷の真相
1989年から2001年にかけて多くの論文を発表した。詳細は『現代日本経済政策論』(岩波書店、2001年)*2を参照。バブル崩壊を最初に警告したのは1989年2月。バブル崩壊は1990年総選挙の翌日、2月19日に始まった。日本経済は1991年2月から不況に突入したが、宮沢内閣の不況認定が1年遅れたが、92年8月の10.7兆円景気対策により株価は反発し、経済情勢は改善した。しかし、93年の記録的冷夏と円高推進、さらに政権交代によって経済政策運営に半年の空白が生じたことにより、株価は再び急落した。細川政権は94年2月に15.25兆円の景気対策を決定し、94年夏には景気が浮上しかけた。しかし、価格破壊が進行してインフレ率が急低下して実質金利が上昇していたのに日銀が利上げを検討したことにより株価は下落した。95年の円高が拍車をかけた。結局95年の3度日銀は利下げし、村山政権が95年9月に14.22兆円の景気対策を実施して、96年には日本経済は2.9%の経済成長を実現した。橋本政権は消費税を97年4月に2%引き上げることを検討したが、私(植草氏)は消費税を97年4月、98年4月にそれぞれ1%ずつ引き上げよと主張した。橋本政権が消費税2%増税閣議決定すると、株価は下落した。96年総選挙は、民主党が発足して野党票が新進党民主党に割れてしまったために、比例区で32%の得票率しかなかった自民党が勝った(新進党28%、民主党14%)。97年、橋本政権の緊縮財政路線が大失敗して日本経済は大きく悪化し、株価暴落、景気崩壊、金融問題噴出が生じた。97年11月に三洋証券、北海道拓殖銀行山一証券が相次いで破綻した。財政赤字を減少させるための大増税財政赤字を激増させた。98年の参院選に敗北した橋本龍太郎首相は退陣した。後任の小渕首相は堺屋太一氏を起用して政策路線を転換、23.9兆円の景気対策を実施し、株価は2000年4月には2万円を回復した。自由党が政権に参画していた時代だった。小渕政権は「バラマキ」を批判されるが、1998年の公共事業支出は1996年と比較して半減していた。2000年に小渕首相が倒れ、森政権が発足すると財務省主導の超緊縮路線に戻った。速水日銀総裁の「ゼロ金利政策解除」は歴史的大失態だった。当時竹中平蔵はゼロ金利解除を強硬に主張していたが、2001年には一転してゼロ金利維持を強く訴えるようになった。結局、日銀は2001年3月にゼロ金利復帰に追い込まれ、同時に量的金融緩和を実施することになった。
12. 異論の表明
自由党の議員は私(植草氏)の意見に賛成したが、竹中平蔵が異論を表明した。テレビ東京WBSで、亀井静香氏が竹中がコメンテーターなら出演しないと申し入れ、急遽植草氏と竹中の出演日が入れ替わったことがあった。竹中はテレビで、「景気回復を進めなければ金融問題や財政赤字を解決できないと主張している人がいるが、それは間違いだ」と発言した。
13. 小泉純一郎氏への進講
研究会の1年半前(注:1999年9月頃ということになる)に小泉純一郎に進講したが、小泉は序盤から話をさえぎって、緊縮財政の推進以外にないと主張し、聞く耳を持たなかった。
14. 日本経済の崩壊
2001年に小泉政権が発足した。総裁選で、亀井静香氏は、1. 本選挙で亀井陣営が小泉に投票する、2. 新政権人事で亀井氏が相談にあずかり、亀井氏も処遇される、3. 3月に亀井氏が中心になって決定した「緊急経済対策」を実施する、という3項目の協定を結んだ。伝令になったのは安倍晋三で、私(植草氏)はそれを安倍から直接聞いた。しかし、小泉は協定を破棄して亀井氏を人事から排除し、緊急経済対策の実行も否定した。安倍は小泉に苦言を呈したが、小泉は聞き入れなかった。小泉は、経済政策に「緊縮財政」と「企業の破綻処理推進」という二つの基本方針を示した。1997年の橋本政権よりさらに緊縮殿強い小泉政権の政策により、日本経済は崩壊した。結局小泉政権は大型補正予算を編成し、財政赤字を拡大させた。日経平均が上昇に転じると小泉は再び緊縮財政路線に戻り、二度目の経済破綻が生じた。2002年7月、NHK日曜討論で私(植草氏)は前年度と同規模の補正予算が必要だと主張したが、竹中平蔵は「補正予算編成など愚の骨頂」と発言した。この竹中発言を受けて、株価は再び暴落した。

(注:原著では竹中平蔵小泉純一郎安倍晋三に対しても敬称がついています)

ここで注目したいのは、1996年に消費税増税が議論された時、結局植草氏も消費税増税自体には反対ではなく、上げ方をマイルドにせよと主張していただけだったことだ。また、小渕政権時代の株価上昇について述べる時、ITバブルに触れていないのはおかしい。何も小渕自民党と小沢自由党の自自連立政権の政策のおかげだけで株価が上昇したわけではない。ITバブルの生成と破裂に振り回された私としては納得できない。

さらに、自由党に好意的であるほか、亀井静香にも好意的であるのが目立つ。このあたりは現在まで一貫しているが、意外にも植草氏は安倍晋三に対してかなり好意的で、直接安倍から自民党総裁選に関する情報を得ることができるほどの親密さを持っていたらしい。

そういった諸点が気になるものの、竹中平蔵との対決構図では植草氏の主張に軍配が上がることはいうまでもない。2002年というと、榊原英資氏が竹中平蔵を「ペーパードライバー」呼ばわりし始めた頃だが、植草氏も結構頑張っていたわけだ。というより、小泉政権発足時には榊原氏は竹中を批判していなかったはずなので、その点では植草氏は榊原氏に先んじていたといえるかもしれない。
(この項さらに続く)