kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

私が植草一秀氏の論考を評価した理由

注目に値するし支持もできる植草一秀氏の論考 - kojitakenの日記 で評価した植草一秀氏の論考*1を、やっぱり駄目だ - Living, Loving, Thinking, Again が痛烈に批判している。

「デフレ」の第一義は「物価下落」である。しかし、当時の日本が直面していたのは「物価下落」だけではなかった。

 日本経済は、「大不況」、「金融不安」、「物価下落」に直面していたのだ。経済状況を現実に即して表現するなら、「大不況」、あるいは「恐慌」の方が適切であったと考えられる。

 それにもかかわらず、「デフレ」という用語が用いられた。この用語法を誘導したのは財務省である。「デフレ」の第一義は「物価下落」である。「物価」の所管官庁は日本銀行である。つまり、日本経済悪化の責任を負うべきは日本銀行であり、日本経済悪化に対して率先して政策対応を示すべき期間は日本銀行である、との主張を展開するために「デフレ」という言葉が用いられたのである。

先ずこれって、無意味な言葉遊びなんじゃないか。「デフレ」というのはモノ(財・サーヴィス)よりも銭に対する選好が強い状態、(深尾光洋氏の言葉で言えば)「不動産や株式などの実物資産が売られて、現金、預金、国債に資金がシフトするタイプのバブル」*2をいうので、経済の不活性や収縮を表すのに「デフレ」という言葉を使って悪いわけはない。

(「やっぱり駄目だ - 『Living, Loving, Thinking』より、二重引用部は植草一秀氏のブログからの引用)

無意味な言葉遊びといえば身も蓋もないが、少なくとも、読者の意表を突く表現ではある。私は、植草氏のブログ記事に先立って、氏の著書『知られざる真実 −勾留地にて−』を読んだばかりだったので、あ、本と同じことをブログに書いているな、と面白く思った。それで、議論を喚起したかったのである(笑)。

また、sumita-mさんは、植草氏の本論について下記のように批判している。

完全に間違ったことは言っていないのだが、陰謀理論というスパイスを過剰に利かせるのが植草クォリティか。旧大蔵省が分割されて以降、金融政策の責任は内閣府に属する金融庁が負っている筈なのだが、それが言及されていないのは不可解。旧大蔵省ならともかく、現在の制度上、財務省が金融政策に公式に介入することはできない筈なのだが。また、2001年以降の事態については、政府筋の懸念にも拘わらず日本銀行が独断専行的に政策を発動して経済を悪化させたというのは経済学者の間では定説になっていると思ったが、植草ちぇんちぇーにとっては、これも「財務省」が悪いということになるのか。また、財務省が(短期的には)目論んでいる緊縮財政と「財務省は中期的に激しいインフレ誘導を狙っている」ということは矛盾しないのかと思った。しかし、上にも言及したように、デフレ=「現金、預金、国債に資金がシフトするタイプのバブル」なのだから、このままデフレを放置することこそがハイパーインフレーションを惹き起こす最適の途ということもできる。ただ、その場合、インフレ対策として超高金利政策が発動されるわけだし、また政府財政が黒字体質になることも考えられないので、インフレによって借金がちゃらになったと喜んだのも束の間、今度は政府が今以上の厳しい利子負担に苦しまなければならないだろう*5。また、植草ちぇんちぇーは「デフレを一概に悪と決め付けることは間違いである」という〈良いデフレ〉論を主張している。一般に物価水準が落ちても、それが新技術の導入などによる生産性の上昇によってもたらされたものなら、一般的な給与水準は上昇している筈であり、完全に悪いとはいえない。こういうのを「デフレ」といえるかどうか。また現在、一般的な給与水準は上昇していますか。現在の状況は、寧ろたんに高級なものが売れなくなって、多くの人が安物買いに走っているということなのでは? それは既に安定した職や潤沢な収入を得ている人にとってはいい面もあるかも知れないが、多くの人にとっては物価が下がったのを喜んでいるうちに、自分の時給もバーゲン価格になっていた、さらには自分の職がなくなっていたということではないのか。

まあ、植草は植草。

(「やっぱり駄目だ - 『Living, Loving, Thinking』より)

上記の批判にもうなずける点はある。植草氏の著書『知られざる真実 −勾留地にて−』の中で、もっとも私が奇怪に思ったのは、植草氏の著書の読書メモ*3にも抜き書きした、

6. 福井日銀総裁追究の深層
村上ファンド福井俊彦日銀総裁(当時)が出資していた。村上世彰氏は、東大時代私(植草氏)のクラスメートだった。日銀の独立性を確保するために、福井氏は適任だった。2006年の量的金融緩和政策解除やゼロ金利政策解除を見事に実現した。インフレが生じると債務者が得をして預金者が損をするので、日本の借金王である日本政府はインフレを熱望する。福井総裁の村上ファンド出資問題を考える際に、こうした背景を考えなければならない。

という部分である。

この節で、植草氏は「インフレ・ファイターとして日銀総裁に適任だった福井俊彦氏を財務省が追い落とした」と言わんばかりの書き方をしている。ここで植草氏は日銀の独立性を声高に主張しているが、これは、どちらかというとケインジアンよりも新自由主義者が好んで用いる論法だと私は認識している。実際、植草氏の経済学研究の起点は「マネタリズム」、「規制改革=小さな政府論」であり、東大経済学部在籍中の1983年に植草氏がまとめた「レーガノミクスの再検証」で植草氏は、当時「レーガノミクスは失敗した」と見なされていた経済学界主流の見解に反対して、「インフレ収束を待たない減税実施は間違いだが政策の基本方針は正しい。レーガノミクスは再評価される」と結論づけた(『知られざる真実 −勾留地より−』149頁より)。つまり、植草氏自身は、基本的に新自由主義者ではないかと疑われる。そして、この節の記述ときたら、

村上世彰氏は、東大時代私(植草氏)のクラスメートだった。

という表現で、個人的な事情に基づく村上世彰へのシンパシーを婉曲に表明したり、

インフレが生じると債務者が得をして預金者が損をするので、日本の借金王である日本政府はインフレを熱望する。

などと書いており、植草氏がデフレよりむしろインフレを警戒しているかのように読めるのである。早い話が、この節は植草氏の著書全体から浮いている。なお、植草氏の本には、もう一か所、同じ印象を与える節がある。

この植草氏の主張に対して、

財務省が(短期的には)目論んでいる緊縮財政と「財務省は中期的に激しいインフレ誘導を狙っている」ということは矛盾しないのかと思った。

と書いたsumita-mさんと同じ感想を、私も『知られざる真実』の上記箇所を読んで持った。しかし、私は経済学には全くの素人であり、自信がなかったので、ブログの記事にはついつい書きそびれた次第である。

植草ちぇんちぇーは「デフレを一概に悪と決め付けることは間違いである」という〈良いデフレ〉論を主張している。

そこまで言ってしまうと、再び「身も蓋もない」という言葉が思い浮かぶが、そう言われても仕方ないとは思う。

なお、植草氏が財務省に悪意を持つ理由は、氏の著書を読むとはっきりわかるが、野村総研に勤務していた若き日の植草氏は、大蔵省を担当させられていたものの、大蔵省に冷遇されたためである。以下植草氏の著書より引用する。

 官僚への過剰接待問題が表面化して「MOF担(注:Ministry of Finance、すなわち大蔵省担当)が有名になった。彼らは銀行から使命を帯びて大蔵省に派遣された。銀行は交際費を与えて官僚との関係強化を狙った。証券界からの派遣は私(注:植草一秀氏)が初めてだった。大蔵省キャリア(第一種国家公務員)は金融機関に序列をつけた。興長銀都市銀行、信託銀行、地方銀行の順だった。証券は最下位に位置付けられた。キャリアが仕事の主役で金融機関派遣職員は家来だった。私の出身母体は銀行と異なり大蔵省への関心を払わなかった。キャリアの中に人格者はいたが、派遣者をいじめる者もいた。

植草一秀 『知られざる真実 −勾留地にて−』(イプシロン出版企画, 2007年)より)

正直言って、この恨みつらみに満ちた植草氏の文章を読んで、私は同情してしまったのである。東京大学文科二類入学ということで、ノビー(池田信夫)も連想した。ノビーも、若き日には廣松渉のゼミに参加して、「あのときほど圧倒的な学問的影響を受けたことはなかった」と述懐する哲学青年だった*4

そして、屈辱をバネにした植草氏は、1992年、31歳の若さにして、岩波書店から『金利・為替・株価の政治経済学』という著書*5を世に問うた。その努力と才能はたいしたものだったに違いない。

だが、「こんなに優秀な俺がなぜ」という思いが、その後の植草氏を陰謀論に走らせたのではないかと、そこは残念に思う。例の「痴漢冤罪(?)事件」の主張も、植草氏のそんな意識から出ているのではないかと想像する。

しかし、このように突っ込みどころ満載であることは百も承知ながら、それでも私が植草氏の論考を「注目に値するし評価もできる」と書いたのは、財務省に引っ張られる民主党・鳩山政権の政策を批判するエントリを植草氏が上げたところによる。この点について、植草一秀氏とともに鳩山由紀夫首相及び小沢一郎民主党幹事長を「三種の神器」として崇拝する民主党支持ブロガーたちの意見を聞きたかったのだが、彼らは植草氏のこのエントリをスルーしているようだ。

私の認識では、現在のような重大な経済危機において、財政政策と金融政策を組み合わせて政府および金融当局が対応するのは、全世界で行われていることであって、それにもかかわらず財務省が日銀にばかり責任を押しつけようとする動きを批判する視点は、それはそれで意味があることだと思う。