kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

社会党が衰退したわけ(石川真澄『人物戦後政治』より)

私は、高校生の頃から朝日新聞石川真澄という政治記者のファンだった。

初めて石川氏の名前を意識したのは、1978年か79年に「編集委員」の肩書つきで書かれた署名記事だった。当時朝日新聞に載っていた他の政治記事とはずいぶん毛色の違う文章を書く人だなと思った。イデオロギーより客観的なデータを重視する記事を書くこの記者が、理系の人(九州工業大学機械工学科卒業)だと知ったのはずっとあとのことである。1979年には統一地方選挙と総選挙があり、石川記者は選挙の分析で名を上げることになる。12年に一度、「亥年」に行われるでは自民党が勝つという「亥年現象」の仮説が有名で、手前味噌だが「亥年現象」を検索語にしてGoogle検索をかけると、当ブログの下記記事が上位で引っかかる。もちろん石川記者の仮説を紹介したものだ。
きまぐれな日々 「亥年現象」を超えて (2007年6月1日)

この石川仮説を、上記『きまぐれな日々』から孫引きする。

ところで、今年は12年に一度、統一地方選参院選が同じ年に行われる年だ。朝日新聞編集委員を務めていた故石川真澄氏によると、こういう年は参院選投票率が下がるという。どういうことかというと、「県議クラスを中心に積み上げられた地方の草の根組織運動が、統一地方選、つまり運動の中心人物たち自身の選挙が終わった直後には動かなくなっている。動かないと、そうした選挙運動に誘われて参院選の投票に行くはずだった人々が投票所に行かなくなり、投票率が極端に下がる」のだという。石川氏はこれを「亥年現象」と名づけた。(「世界」 2001年10月号より。単行本 「戦争体験は無力なのか」 (岩波書店、2005年)収録)。

(『きまぐれな日々』 2007年6月1日付エントリより)

2007年には亥年に当たった。石川氏の仮説通りなら、安倍晋三が率いる自民党参院選に勝利するはずだったが、このジンクスは破れ、自民党は歴史的大敗を喫した。この流れが今年の衆院選まで続き、政権交代に至った。しかし、政治、政党、政治家や有権者、それに社会、経済や国際関係が日々変化していくものである以上、いつまでも同じ仮説が成立するはずはなく、仮説が破れたからといって石川氏の仕事の価値を損なうものではない。

石川氏は1996年に朝日新聞を退社し、2004年に死去した。翌2005年1月、安倍晋三中川昭一NHKに圧力をかけて番組を改変させたことを朝日新聞が報じたが、結局安倍と中川の恫喝に朝日が屈した事件が起きた。これを私は、朝日新聞にとっての「西山事件」だと考えている。以後、朝日新聞は牙を抜かれた新聞と化して今に至っている。

ところで、石川氏が1997年に岩波書店から出版した『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』が、岩波現代文庫に収録されたので、これを購入して読んだ。その一部は、角さんの天皇観 - kojitakenの日記で紹介したが、本稿では社会党の政治家たちについての記述を紹介する。

若き石川記者が社会党を担当するようになった頃の朝日新聞社内の雰囲気について、石川氏は下記のように書いている。

私が社会党を担当するようになったころはまだ社会党の信用がまだ相当にあるころであって、「社会党の駄目さ加減」などといった言葉さえ使う者はなかった。「派閥」というものについても、社会党のそれは自民党とは違う扱いがされていた。

 自民党の場合は理念や政策の違いによるものではなく、単に権力を奪い合う単位としての派閥であって、ヤクザさながらの親分・子分関係が軽蔑の対象でさえあった。それに対して社会党の派閥は、イデオロギー、政治方針、大衆運動の原則、労組との関係といった「次元の高い」問題についての考え方の相違に基づくグループであって、派閥という言葉を使うのさえ適当でないという空気があった。

 実際、私が社会党の記事を書くようになって数カ月経ったある日、私は政治部の一人の先輩からこう忠告された。「君が書くようになって社会党はずいぶん派閥化した印象がある。社会党の派閥が自民党と同じではないことを忘れないように」

石川真澄『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』108-109頁)

一頃ネットで流行った言い方を借りれば、「社会党の派閥は良い派閥」と言ったところだろうか。石川記者が朝日新聞の幹部級記者(編集委員)として有名になったのは70年代後半からだったが、もし石川氏が10年早く生まれていたら、「ブル新の右翼反動記者」の代名詞として、左翼の糾弾の対象になったに違いない。というか、70年代に40代を迎えた記者だったから朝日新聞で重用されたともいえる。つまり、もう少し早かったら左から、今だったら右から朝日社内で弾かれたに違いない。現に、小選挙区制の導入を批判した石川氏の主張は、朝日新聞の社論とはならなかった(加藤紘一が石川氏に電話してきて、小選挙区制をやめろともっと強く主張しろと言ったそうだ)。

そんな石川記者は、大の社会党シンパだったが、それだけに逆に社会党の政治家たちへの批判は辛辣を極めている。

前掲書からさらに引用する。

 私は六〇年代に、かなり多くの(社会党)左派系議員に、少し親しくなると、本当に社会主義社会の実現を目指しているのかを尋ねてみた。たいていの人があいまいだった。そんなこと、できっこないよと、はっきり答える人もいた。中には、上着の左のポケットから「いこい」という大衆煙草を取り出し、右のポケットからは高級とされる「ピース」を取り出して見せ、前者は選挙区用、後者は東京用と笑ったうえで、社会党議員であることと社会主義者であることは使い分ける必要がある、と説明してくれた人もあった。

石川真澄『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』122頁)

石川氏自身は、1983年7月に朝日新聞一面に、社会党に「マルクス・レーニン主義との完全であからさまな絶縁」を求める記事を書き、冷戦終結直前の1989年6月には、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」で資本主義と社会主義との競争はもう勝負あったと思う、と主張した。後者は、普段左翼嫌いを売り物にしている出演者から「社会主義とはそういうものではない」と(驚くべきことに「右派」の論客によって「左」から)批判されたという(前掲書125-127頁)。石川氏は社会党社民主義化を求めており、江田三郎土井たか子菅直人氏らのシンパだった。江田氏による構造改革路線の提案とその敗北について記述した部分は前掲書の核心だし、同書第5章には土井、菅両氏への論評や、社民党保坂展人・前衆院議員と1996年に行った対談も収録されているから、その意味でもこの本は現在の政治に関心のある人にとっても興味深いだろうと思う。そして、この本で一番社会党の政治家に対して呆れたというか印象に残ったのは、その保坂氏との対談中に出てくる下記のくだりである。長くなるが以下に引用する。

 実は、ヨーロッパで社会民主党がとっているような福祉国家路線を進めようとしていたのはどこかというと、保守本流なんですね。口ではそうは言わなくとも、福祉国家路線が保守本流のひとつの柱だったことは間違いない。一方の社会党は、この間の『現代』に澤地久枝さんが書いていましたけれども、成田知巳さんに会ったときに「日本社会党福祉国家路線をとらないのです」と言われた。「じゃあ何をなさるんですか」と聞いたら、「社会主義です」と答えた。社会党のほとんどの人たちにとって、その精神的支柱はまさにこのようなものであったわけです。福祉国家論というのは、本当に困っている労働者階級を適当にごまかして、安心させて、革命から遠ざけるようなものにすぎないというテーゼをずっと守ってきた。

 もしも八六年の社会党の転換というのが本物であったとするならば、いま実は実現しているように、自民党保守本流にもう少し親近感を持って対応して(注:石川氏と保坂氏の対談が行われた1996年は自社さ連立政権時代)、場合によっては同盟を結んででも、トータルとして新保守主義、中曾根的なものを阻止するという方向を取りえたはずなんです。しかし、むしろ中曾根氏の方が自覚的にそうしていた。つまり、保守本流の池田・佐藤路線を傍流としてやっつけて、これを総決算することにより、実は同時に社会党もバッサリと切って捨てていたんですね。そのことを中曾根氏は自覚していたのに、社会党は気がつかなかったし、私(石川真澄氏)も含めたマスメディアの人間も的確にはわからなかった。

 ようやく一九九五年になって自民社会連立内閣というものができましたが、そこで変な野合だの何だのと言われないためにも、ともに福祉国家を目指すという点でのみ一致するんだということは言えたはずだと思います。むしろ、われわれの方が社会民主主義の本家であって、それを保守党(注:「中曾根的なもの」を指すと思われる)の側が僭称し乗っ取ろうとしているのだ、という理屈は立ったと思うんですよ。その素地はすでに一〇年前(注:1986年)にはあったし、一〇年前にそのことを認識すべきだったかもしれないと思います。いずれにしても、後知恵に過ぎませんが。

石川真澄『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』213-214頁)

ここで、1986年の社会党の転換というのは、社会党マルクス・レーニン主義の党から抜け出る「新宣言」を採択したことを指すが、石川氏はこの路線転換は本物ではないと批判していた。

現時点から振り返ると、石川氏の批評はもっぱら政治思想的な側面からのもので、自社さ連立政権の後期に当たる橋本龍太郎内閣がとった財政再建路線(新自由主義路線)への批判が全く見られない、すなわち経済政策に関する批判が不足していたため、橋本自社さ政権が福祉国家を目指すどころか新自由主義政策をとったことを見逃しているという大きな弱点がある。しかし、論壇において新自由主義への批判が目につくようになったのは1998年頃からであり、それが十分強まらないうちに小泉政権が登場し、江田三郎の思想と同名ながら内容は正反対の「構造改革路線」によって日本をぶっ壊したことによって、ようやく新自由主義路線への批判が主流になった。1997年に出版された前掲書を読む際には、こうした時代的な制約があることはおさえておかなければならないと考える。


人物戦後政治 私の出会った政治家たち (岩波現代文庫)

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戦争体験は無力なのか ある政治記者の遺言

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