kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

リクルート事件報道にも再評価が必要かもね

"Egawa Shoko Journal" 掲載の「東京地検特捜部の判断は常に正しい、のか」*1を読んで。

主張のポイントである、

 報道機関の役割の一つは権力を監視することなので、政権与党の最大実力者の小沢氏の言動を厳しくチェックすることは当然といえる。だが、検察も権力機関だ。なのにその検察のやることについては無批判に受け入れるだけでいいのだろうか。

 流していい情報ならば、発言者が隠れていないで、佐久間部長自らが堂々と顔と名前を出して国民に「説明責任」を果たしてもらいたい。一連の捜査にかかっている経費も、国民の税金からまかなわれているのだ。万が一、流してはいけない捜査情報を、検察庁の誰かが流しているのであれば、そういう輩は特定し、守秘義務違反できっちり処分するべきだろう。 その辺の説明もしっかりしてもらいたい。
 捜査対象となっている小沢氏の「説明責任」を求めるなら、捜査中にも関わらず情報をリークして世論操作を行っている検察当局の「説明責任」も追求していかなければならない。

などには、もちろん同意である。

ところで、江川氏はこの文章でリクルート事件について書いている。確かに今小沢一郎の「政治とカネ」の問題について検察を批判するのであれば、過去のリクルート事件についても再評価が必要だろう。

リクルート事件は1988〜89年で、ロッキード事件は1976年。私はリクルート事件の報道にはあまり熱中できなかった記憶がある。報道に関しては、あれは確か朝日新聞のスクープがきっかけになったと記憶しており、それはまっとうな取材のたまものだったと思うが、リクルート事件報道全盛時には、確かに次々と「新事実」が報道されて、ロッキード事件当時の報道とはどこか違うなあ、と漠然と感じていた。今にして思えば、「検察リーク報道」はこの頃には既に始まっていたのかもしれない。あの事件では首相の竹下登をはじめとして安倍晋太郎宮沢喜一を合わせたニューリーダーが全員事件に関係しており、おかげで安倍晋太郎は総理大臣になり損ねた。岸−福田系列の政治家を嫌っていた私はそれを歓迎したものだが、その17年後、安倍晋太郎DQN息子が総理大臣になってしまったのは痛恨だった、というのはさておき、

 過去の事例から学べば、取り調べの課程をすべて可視化する必要があるのは、警察に限らない。今回の事件も、石川議員らの捜査段階での「自白」が裁判になってから問題になってくることもありうる。供述の任意性や信用性が問題になれば、裁判に長い時間を要することになり、真相の解明にも悪影響を及ぼすことを考えれば、これを機に、検察の捜査も含め、任意段階からの全面可視化を急いでもらいたい。

これはその通りで、取り調べの可視化こそ焦眉の急。今の衆参両院の勢力分布から考えて、これは法制化できるはずだ。

これをしないのであれば、民主党は検察と取引したのではないかという仮説を私は立てるだろう。「陰謀論」ではない、「陰謀仮説」である。