kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

堀内恒夫が自民党の参院選候補だって

http://www.asahi.com/politics/update/0422/TKY201004220407.html


巨人の原辰徳は、阪神から現在ではオリックスで監督を務めている岡田彰布同様、まずまず監督としての才能に恵まれているように見える。2002年には監督就任一年目でいきなりチームを日本一に導いた。

しかし、翌年に星野阪神の独走を許して3位に終わると、ナベツネは「人事異動」と称して原を解任した。ナベツネはなぜか「身内」の原辰徳よりもライバルのはずの阪神星野仙一が大好きだったようで、その後も原には冷たかった。ナベツネお気に入りの星野が北京五輪でずっこけたから、やむなくWBC日本チームの監督に据えた原が、星野では絶対になし得なかったと思える2連覇を日本チームにもたらしたことは記憶に新しい。これで自信をつけたのか、巨人でも原監督は2006年こそ不振だったものの、2007年にはリーグ優勝、2008年にはリーグ優勝と日本シリーズ進出、そして昨年にはついに7年ぶりの日本一を巨人にもたらした。

断っておくが、私は巨人が大嫌いである。しかし、原辰徳は嫌いではない。現役時代にはONと比較されて苦しんだ。王貞治とは相性があまり合わず、長嶋茂雄とは決定的に合わなかった。原は、まず王監督時代につまずき、長嶋監督時代には四番打者だったのに代打に長島一茂を送られる屈辱を味わわされた。長嶋監督が選手を総動員した延長15回の試合で、原だけが代打にも送られず出番がなかったこともあった。そして、ONとだけではなくナベツネとも合わなかったのである。そんな原辰徳に私は同情していた。

その原が「人事異動」で左遷された時に巨人の監督を務めたのが堀内恒夫だった。そして、堀内は監督に就任した2004年こそ順位を前年から1つ上げて2位になったものの、2005年には連戦連敗を重ねて5位に落ちた。結局、2年間干されていた原が監督に復帰したが、堀内時代にチームは滅茶苦茶にされていて、原がチームを立て直すには時間がかかった。

そもそも私は、現役時代からONの打棒に助けられて勝ち星を稼いできた堀内という投手が大嫌いだった。貧打線を背負って、奪三振日本記録を達成した試合(1968年)でも延長戦でノーヒットノーランを達成した試合(1973年)でも自らのバットで試合を決めた阪神江夏豊との落差はあまりにも大きかった。巨人には高橋一三という左腕投手もいて、成績は堀内と遜色なかったのに、なぜかマスコミが堀内ばかりほめそやしているのも気に食わなかった。

堀内は、ONを擁した巨人打線のおかげで若くして勝ち星を積み重ねたが、早く衰えた。しかし、200勝を達成するために現役にこだわった。やっと200勝を達成した時にはもうヨレヨレで、一足お先に引退した張本勲が、引退早々巨人OB会で堀内を痛烈に批判したという話も聞いた。

王が巨人の監督として成績がふるわなかった頃、後任監督候補として堀内の名を挙げる人もいたが、1988年に優勝した中日のファンの知人が、「堀内が監督になってくれればこっちの思う壺」と言っていたことが忘れられない。結局藤田元司が監督に復帰して巨人を立て直し、彼の望みは潰えたが、80年代末当時から、堀内は指導者には向いていないという定評があった。堀内が投手コーチを務めていた頃の巨人は、斎藤雅樹槙原寛己を筆頭とする先発投手の王国だったが、堀内は、「中継ぎ投手は先発の能力のない投手がやる仕事」というのが持論で、そんな考えを持つコーチの下で働く巨人の中継ぎ投手陣が好成績を収めるはずもなかった。斎藤らの全盛期には、それでも先発投手の力で巨人投手陣は何とかなったが、堀内が監督になった頃には巨人には斎藤も槙原もおらず、堀内の継投は毎試合のように失敗して、2005年の巨人は不振に沈んだ。

その堀内恒夫、「お山の大将」で人の上に立つ人間とは思えないこの男が、よりにもよって参院選自民党候補とは。しかも、ツーショットを見て初めて気づいたのだが、堀内恒夫谷垣禎一とそっくりではないか!

谷垣が、自民党総裁としていっこうにパッとしないのもうなずけると思ってしまった私だった。