kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ポジショントークをしない言論は信ずるに値する

検察審査会小沢一郎「起訴相当」議決について、目を引くエントリをいくつか挙げる。
上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場 : 検察審査会の小沢一郎「起訴相当」議決には2度驚いた!


断っておくが、上脇教授は小沢一郎、あるいは民主党マンセーの学者ではない。検索語「上脇博之」でGoogle検索をかけると、『きまぐれな日々』の下記エントリが上位で引っかかる。
きまぐれな日々 こりゃダメだ! 論外の自民党、定数削減に固執する民主党


そこからリンクを張った上脇教授のブログ記事は下記。
上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場 : 議員定数削減論批判と民主党への注文


ここで上脇教授は、民主党衆議院定数削減の政策を批判し、『しんぶん赤旗』に取り上げられている。そして上脇教授は小沢信者の不評を買っていた*1

その上脇教授による「検察審査会」の議決への批判である。小沢一郎の言うことなら何でもマンセーする言説も、小沢一郎に関することならなんでもdisるだけの言説も、ともに私には信用できないが、上脇教授の言説は信頼するに値すると思う。

市民ブログでは、下記エントリが出色だと思った。
【改】検察審査会の小沢さん起訴相当の決定は不当(加筆修正・追記しました) - Afternoon Cafe


このエントリでは、下記の指摘が特に良かった。

ところで、この問題は、なんとしても起訴に持ち込みたい検察の策略だ、とか自公勢力が民主政権を追い落とそうと企てているとか、申し立てた「市民団体」はどうやら在特会の桜井氏らしいとか、そういう憶測に基づいた陰謀論で捕らえるべきではないと思います。
裁判員制度にも共通しますが、これはあくまで司法手続に一般市民が参加することによっておきる「司法のポピュリズム」の問題として捉えるべきだと思うのです。
もし仮にそのような陰謀(?)が働いていたのだとしても、審議官に参加した11人の市民がポピュリズムでなく「社会的良識」を発揮できればそんなものははねかえせるのです。

私がこの議決を不当ではないかと取り上げたのは、あくまで政権交代を守るため、ではなく、無辜の民を罰しないため、です。


司法における「市民感覚の反映」は、司法の場に社会一般通念、常識的判断を反映させるという意味では大切なものだと思います。特に再審事件で裁判官の検察えこひいきとでも言うべき酷い偏向判断を見るにつけ、それは痛感します。
また、巨悪を眠らせないため、とか、検察のメンツのための不起訴を防ぐためにも、検察審査会は必要な制度だと思います。
例えば以前、背任か横領で逮捕された人が濡れ衣だったことが発覚、しかし誤認逮捕でメンツがつぶれた検察は、真犯人を不当に起訴しようとしなかった事例がありました(事件の詳細を忘れてしまい記憶があやふやで申し訳ないです)
その時検察審査会は起訴相当という妥当な判断を出しました(そのころは強制起訴はありませんでしたが)
検察審査会の存在自体を叩いている論調も見受けましたが、小沢さんの事例をもって直ちに検察審査会不要を言い出すのは短絡的に過ぎると思います。

しかし一方で冤罪を生み出したり(甲山事件)、ポピュリズムに走って証拠不十分でもとにかく罰せよ、という厳罰主義になる危険性も十分あります。

司法における「市民感覚」は社会一般に通じる良識と悪しきポピュリズムとの諸刃の刃。
本当にやっかいで難しいものです。市民全体の見識を地道に高めていくしか他に方法はありません。

私は犯罪と報道について、推定無罪を無視し、犯人に違いないと決めつけるマスコミの印象報道を何度か批判してきました。(こちら→カテゴリー:犯罪と報道) 
小沢さんの問題について、マスコミの報道は公平公正な視点からの報道だったろうかというと、、私は疑問に思います。例えば産経は、逮捕もされていないのに「容疑者」と報道をしました。推定無罪もへったくれもありません。
産経に限らず、主要メディアは「無罪推定の原則」を無視した報道に偏っていたのではないでしょうか。
検察審査会のメンバーもこの産経の報道に代表されるようは報道に感情的な偏見を抱いていたのではないかと推測できる表現が見受けられます。

だとすれば、小沢さんもまた、偏向した犯罪報道の被害者だといえるでしょう。(そんなわけでこの記事は犯罪報道のカテゴリーに入っています。)

繰り返しますが、検察審査会という市民が司法参加する場に於いては、健全な社会常識が反映される場合もありますが、逆にポピュリズムに支配されてしまう危険もあります。
今回の小沢さんの起訴相当の議決は、客観的証拠に基づくべき所を主観的な推測でなされたことから、マスコミに流されるという一種のポピュリズムではなかったかと私は思います。
「疑わしきは罰せず」
「有罪にするなら客観的な証拠に基づかねばならない」
いくら怪しげな絶対権力者であろうと、この最低ラインは譲ってはいけないと思います。


ここで「甲山(かぶとやま)事件」が出てくるが、これは1974年に兵庫県西宮市の知的障害者施設「甲山学園」で園児2人の死亡事故が発生したことに端を発する冤罪事件である。私は小学生時代、この事件が起きる少し前に学校の遠足でこの甲山(標高309メートル)に登ったことがある。四国八十八箇所の第74番札所・甲山寺(こうやまじ)にある甲山(かぶとやま)よりは標高が高いけれども、小学校中学年の遠足にはちょうど良いくらいの小さな山だ。そこで冤罪事件が起きたのだが、これが検察審査会の「不起訴不当」の議決によって再捜査がなされたあげくに裁判が長期化し、元保育士(当時の呼称は元保母)の人生を大きく変えてしまったのだった。私はうかつにも、検察審査会の議決によって再捜査がなされたという経緯を失念していたが、当時、周囲の人たちが何をしゃべっていたかはよく覚えている。多くの人たちは、元保育士を犯人と決めつけていたのだった。これは、「市民的感覚」とはいえないと私は考えるが、「庶民の感情」であったことは間違いない。

何より、今回の件の本質がポピュリズムであることを、このエントリは的確に指摘している。私が書いた「きまぐれな日々 「感情」を臆面もなく前面に出した「検察審査会」の「反知性」」でもそのことは言っているのだが、私の悪い癖で、すぐに池田信夫植草一秀城内実らの悪口に話がそれて、散漫なエントリになっている。その点、秋原葉月さんのエントリは、論点を絞って鋭くポピュリズムを突いており、実に素晴らしい。こういう文章を書きたいものだなあと思わせる名エントリだ。

何より、上脇博之教授にせよ、秋原葉月さんにせよ、ポジショントークをしない。真に信頼できるのは、そういう言説だ。

*1:http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-2fe3.html のコメント欄におけるブログ主「ふじふじ」氏の発言など