kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「負け組」大平正芳、加藤紘一と「勝ち組」中曽根康弘、小泉純一郎

今から半年前、「2月1日の週は熱い真夏のような熱い週となるであろう」と書いた政治家がいた。少なくとも最初の「あつい」は「暑い」と書くべきだろう(二つ目の「あつい」は「熱い」でかまわないと思う)。「暑い」と「熱い」の区別なんて小学校で習うことだと思うのだが、ドイツ語が達者な元外交官が日本語が苦手とは面白い。

それはともかく、2月1日の週は当然のごとく暑くはならなかったが、今は暑苦しくてたまらない。そのせいで、早い時間に寝てしまっては深夜に目が覚める悪循環だ。

ところで、金曜日の夕方、図書館に出かけて新聞の縮刷版をぱらぱらとめくってみた。1979年9〜10月、1987年4〜5月、1994年6月などの朝日新聞を見たのだが、いずれもデジャブの思いがした。

1979年に一般消費税導入を公言して衆議院を解散したものの、選挙期間中に公約撤回に追い込まれた大平正芳首相は、発言の「ブレ」を新聞に叩かれていたが、それにもかかわらず選挙前の予想は「自民堅調」、しかし蓋を開けてみれば「自民惨敗」だった。当時、「(昭和)五十五年度予算に向けて財政再建の道筋を示す」などという言葉が紙面に見られる。つまり、大平正芳が目指していたのは「財政再建のための消費税導入」だった。大平正芳は、いかにも大蔵官僚出身らしく、「均衡財政」のドグマにとらわれていたのだった。大平正芳所得税増税も打ち出していたが、もっぱら批判を浴びたのは一般消費税の創設だった。

これが中曽根康弘となると選挙前に大型間接税の創設を言い出す真似などしない。中曽根が売上税導入を口にしたのは1984年のことだったようだが、1984年というと前年末に総選挙を行ったあとのことだ。ところが、中曽根は1986年の衆参同日選挙前*1になると、「大型間接税の導入はしない」と公約し、それを信じた有権者自民党を圧勝させた。だが、中曽根は舌の根も乾かぬうちに再び売上税の導入を言い出したのである。それが響いて1987年の統一地方選で大敗し、中曽根は売上税を導入できなかったのだが、当時の中曽根ブレーンの発言を見ると、売上税導入と法人税所得税の減税をセットにしていて、直接税減税の穴埋めのために間接税を導入するという新自由主義者中曽根康弘の思想がよく現れている。このあたりが、税収全体を増やそうとした大平正芳新自由主義政策を推進しようとした中曽根康弘の大きな違いだ。中曽根は、選挙前に消費税を争点にしようとした大平正芳(や菅直人)とは違って、選挙というのは国民を騙して勝つためにあるという信念を持っていたらしく、1984年と1987年の二度とも、選挙が終わったあとに売上税導入を言い出した。中曽根は、どんなに批判しても批判し足りないほど卑怯な人間であるが、こんな人間が「大勲位」を得てしまうのが日本の社会なのである。

1994年6月の縮刷版を見たのは、自社さ政権成立直前の状況を思い出すためだった。社会党とさきがけは、連立与党と自民党の双方と協議していたが、小沢一郎が社さには乗らず、自民党が乗ってきたため、自社さ政権が誕生した。直前まで自社さ政権が生まれる気配などなかった。その日私は残業していたのだが、上司から「村山が海部を破って総理大臣に指名された」と聞いて耳を疑った。自民党と連立しての社会党総理の誕生もさることながら、なんで自民党議員のはずの海部が対立候補に担がれたのか、わけがわからなかった。「担ぐみこしは軽くてパーがいい」*2という小沢一郎のわがままが裏目に出た形だった。

小沢一郎菅直人が合わなかったのは昔かららしく、1998年の参院選自民党が惨敗したあとの政局では、今度は小沢一郎自民党と組んで自自連立政権が成立した。このあたりは、小沢信者が「黒歴史」にして、全く語ろうとしない部分である。自自連立はさらに公明党を入れて自自公連立に発展した。当時菅直人が「ジジコウが」と言う時、「爺公」を連想させる憎々しげな言葉だなと思ったものだ。

小沢一郎は結局連立を離脱し、自由党は分裂して「自公保」(次候補?)連立政権になるのだが、この時に小渕恵三に精神的打撃を与えた小沢が殺したようなものだ、とずいぶん言われた。また、小渕恵三が倒れた時、順当なら加藤紘一あたりが総理大臣になってもおかしくなかったが、亀井静香を含む五人衆が密室で勝手に森喜朗を担いでしまった。その森が不人気にあえいでいた2000年の総選挙では、野党が強ければ自民党が負けていてもおかしくなかったが、民主党議席数を伸ばしたり、小政党となった自由党小沢一郎の個人的な人気で健闘したとはいうものの、自民党には遠く及ばなかった。その閉塞感の中、加藤紘一が「加藤の乱」を起こして自滅したのだが、この時加藤と連絡を取り合っていたのが菅直人だった。加藤の詰めの甘さは菅直人と相通じるものがある。

翌年の参院選は、森のままでは自民党が勝つ可能性がないことは、翌2001年に行われた秋田県知事選*3自民党がダブルスコアで惨敗するなどの結果から誰の目にも明らかになり、焦った自民党は森を降ろして総裁選を実施することになるのだが、加藤が前年に早まってさえいなければ、2001年の総裁選で加藤が勝ち、加藤内閣が発足していたものと思われる。もちろん加藤が総理大臣になったところで、自民党政権は徐々に終わりに近づいただろうが、政権交代のプロセスはもっとマイルドなものになったのではなかろうか。2001年の参院選自民党が勝つこともなく、それこそ2005年頃に政権交代が実現していたかもしれない。その場合、民主党政権新自由主義政策をとって失敗し、今頃再度自民党政権に戻っていた可能性もある。しかしそうはならず、小泉純一郎という、決して総理大臣にしてはならない男を総理大臣にしてしまったことが、単に自民党のみならず、日本を徹底的に破壊することになった。痛恨の極みである。

結局勝つのはいつも中曽根康弘小泉純一郎のような厚顔無恥な人間なのだが、彼らが日本の社会を良くしたのであれば、彼らが勝ったって文句は言わない。彼らが日本を悪くしたからこそ、私は彼らに悪態をつき続けるのである。

*1:1986年、中曽根は解散しないかに見せかけておいて、突如衆議院を解散したのだった。「死んだふり解散」と言われた。同日選挙にすれば自民党が勝てると中曽根に解散を助言したのは読売新聞の渡邉恒雄ナベツネ)だったことを、ナベツネ自身が明かしている。

*2:この表現を用いたのは小沢一郎本人ではなく平野貞夫らしいが。

*3:2001年の秋田県知事選で再選された寺田典城知事は、2009年に引退したが、先日の参院選で「みんなの党比例区候補として立候補して当選した。