kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小学校2年生の時の「参観日」の思い出

大昔、小学校2年生の時に担任だった男の先生は、当時40歳代だったが、まだ幼い子供に対して社会や政治に関する話をするのが好きだった。それが刺激的で面白かった思い出がある。小学校1,3,4年の時の担任は、いずれも女性教師で、そのような刺激は与えてくれなかった。

ある時、「父兄参観日」(母親しか来ないのに、なぜ「父兄」と呼ばれていたのか、子供心に不思議だったが)の対象となった国語の授業で、教師は私たち児童にディスカッションをやらせた。参観日のための特別な趣向の授業だったのだろう。

課題は、別に社会や政治の問題に関するものではなく、国語の教科書に掲載されていたテキストの段落分けをどのようにすべきかというものだった。2人の同級生から意見が出された。最初に多数決をとった時、一方を支持したのは提案者ただ一人であって、1人対その他大部分の児童に意見が分かれたのだった。

この時、私は議論のたたき台となる意見は出していない。最初のプレゼンでは、圧倒的多数の支持を得た同級生のしゃべりに魅力があったため、皆は彼になびいたのだった。私は、もう一方の同級生の主張の方が正しいと内心思っていたが、最初の多数決では多数になびいてしまった。

そこから教師の司会のもと、議論が行われた。今にして思えば、少数意見の援護を意図していたのではないかと思う。そして、圧倒的多数派から最初に離脱して、反対意見を述べた1人を支持する意見を、提案者以外で最初に述べたのは私だった。

すると、2人になった反対意見への支持を表明する同級生が相次ぎ、議論は白熱した。今にして思えば、私同様、内心ではたった1人の少数意見の方が正しいと思いながら、ついつい多数になびいてしまった同級生が多かったのだろう。

最後の多数決では、当初1人だけが唱えていた意見が、当初多数だった意見を数で上回った。教師の結論は、当初1人が唱えていた意見の方が論理的に正しいというものだった。もちろん、小学校2年の授業だから、「論理」などという言葉は使わなかったが、それに該当する解説を児童に行った。何十年も経った今でも忘れがたい授業である。

なぜこんなことを思い出したかというと、民主党代表選について思いをめぐらせていたためだ。「マスコミの偏向報道」とやらで、小沢一郎への支持が少ないとしても、もし小沢一郎の主張に本当に理があるのならば、最後には小沢一郎世論調査レベルでも勝てるはずだ、そう考えているうちに、ふと子供の頃に受けた国語の授業を思い出したのである。

現時点で私は、菅直人小沢一郎のいずれも支持していない。今後、両者の主張をじっくり評価し、意見を発信していきたい。

もちろん、小学生の時みたいに、俺の意見で議論の流れを変えてやる、などとは思わない。そこまでうぬぼれてはいない。しかし、小沢一郎の意見が本当に理にかなっているなら、それは必ずや権力抗争のただ中にいる民主党議員のみならず、一般の党員やサポーターに至るまで支持されるはずだと思うのである。理があれば、支持は必ず拡大する。

逆に、それができないのであれば、小沢一郎の主張に理はなかったことになる。「マスゴミ偏向報道」のせいでも何でもなく、小沢一郎の主張には、人を説得するだけの「理」がなかったということになるのである。