kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

菅直人首相の所信表明演説から「最小不幸社会」が消えたことを懸念する、朝日新聞・福田宏樹記者の好記事

 最近感心しない記事ばかりが目立つ朝日新聞だが、今朝(2日)の同紙4面に掲載された福田宏樹記者による菅直人首相の所信表明演説に対する論評は良い記事だった。

 福田記者は菅首相の金看板「最小不幸社会」が所信表明演説から消えた、と指摘する。この言葉が不評で、最小だの不幸だの後ろ向きだ、幸福を最大にするのが政治じゃないか、などと言われるが、そうだろうか、と疑問を投げかけている。

 その通りだ。「最小不幸社会」という言葉から私がイメージするのは所得再分配の強化や社会保障の充実であって、これこそ政治の要諦だ。少なくともスローガンはまっとうだし、小沢一郎が掲げた「国民の生活が第一」とも整合している。むしろ「最大幸福社会」の方にこそ新自由主義的なイメージがあり、自民党谷垣禎一総裁が菅首相の「最小不幸社会」にいちゃもんをつけた時、「保守本流」にあるまじきセンスのなさだなあと思ってしまった。

 菅直人は、2005年の民主党代表選でも「最小不幸社会」を掲げて前原誠司と争ったが、この時、貧しさから這い上がった前原誠司の演説が民主党議員の胸を打ち、演説を聴いて菅支持から前原支持へと切り替えた議員が何名か出たために、土壇場で前原誠司が逆転したといわれている。要するに、民主党議員は「頑張った者が報われる社会」と「最小不幸社会」との比較で前者を選んだのである。今年6月の民主党代表選でも「最小不幸社会」を掲げた菅直人に対抗した樽床伸二も、「頑張った者が報われる社会」の実現をアピールしていたが、これは小泉純一郎竹中平蔵が好むフレーズであることを忘れてはならない。

 福田記者の論説記事に話を戻すと、福田記者は菅直人の下記の言葉に感銘を受けたという。

「美意識のような個人的選考*1に属する『価値』の実現を目標とすべきでないというのが、私の政治に対する基本的哲学だ」


 これを福田記者は、安倍晋三の「美しい国へ」と対比させ、(価値観を上から押しつけるのではなく=筆者註)価値観の多様性を認め合う成熟した社会を国民に求める菅直人の宣言は、歴代自民党政権との大きな違い、立派な対立軸であったし、今もそうだと指摘する。この指摘には感心した。

 福田記者はさらに書く。

政策以前に、権力を扱う作法について菅民主党は明らかに(自民党とは)違う志向を見せていた。憲法に国民の義務を書き込めという本末転倒な議論が横行するなか、最小不幸社会は、日本の政治と社会のあり方をめぐる本質的な問題提起だと私には思えた。


 しかし、その菅直人は6月の消費税増税発言でつまずき、参院選にも惨敗した。福田記者はこれを、自民党の様子をにらみつつ消費税を持ち出した菅直人に大衆が失望したのだと書く。

参院選惨敗は、「菅氏が言い出した消費税」ではなく、「消費税を言い出した菅氏」がもたらしたに違いない。

というのは実に良い指摘で、私の実感とピタリ合う。

 そして、「最小不幸社会」の言葉が消えた1日の所信表明演説には、菅直人の持ち味が感じられないと福田記者は言う。

 福田記者はあえて明記していないが、私がそこから読み取ったニュアンスは、従来菅直人が持っていた社民主義志向がきれいさっぱり消え去って、小泉自民党と同じ新自由主義路線へと舵を切るおそれである。私はそれを感じているし、福田記者もそれを感じ取っているに違いないと私は思う。はっきりそう書かないのは、おそらく朝日新聞社の社論が新自由主義寄りであって、福田記者の意見がそれと合わないからではないか。

 福田記者は尖閣沖衝突事件についても触れている。

(前略)現政権の頼りない様子も斟酌すべきところはあって、総員いきり立つよりむしろ良いと私は思う。

 菅氏は先の参院選の演説で最小不幸社会に触れ、「戦争になるのを止める」「戦争を起こさない」と繰り返していた。戦争こそ政治権力が国民から引きはがすべき最も大きな不幸だからである。ふざけるな、の応酬では政治がその任を果たすことはあり得ない。最小不幸社会とは、ここでも高度な政治技術と社会の成熟を要求している。


 結びの文章も良い。

 菅氏自身は、この演説を「先送り一掃演説」だと言っている。大切なものまで一掃してしまわなければいいが、と思わせる臨時国会の幕開けだった。


 私は福田記者の主張すべてに賛成するわけではないけれども、朝日新聞にもこんな印象的な記事が書ける記者がまだいたのか、と少し見直した。船橋洋一・大主筆様よりよほど良い記事ではないか。

*1:原文ママ。「選好」の誤変換だろうか?