kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

戦犯同士の罪のなすり合い? 山田耕筰と音楽評論家・山根銀二が演じた醜態

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101002/1285985886 より。

wackunnpapa 音楽, 歴史 理解できるが同意できない。古関裕而が戦犯なら,山田耕筰の方が余程ですよ,はい。 / 「アイウエオの歌」はアニメ映画「桃太郎 空の神兵」のあれかな? 2010/10/02

AmahaYui 同情するつもりはないけど。作詞家作曲家の中では、弾圧をおそれて泣く泣く作った人もいるのよね。ただ、首を傾げるのは、そういう人が戦後になってさらっと平和の曲を作って、他の作曲家を批判することがあるわけで 2010/10/02


なるほど、山田耕筰か。というわけで山田耕筰について調べてみた。その結果、すごいことがわかった。確かに古関裕而どころではない。

http://www.sakuramo.to/kuuseki/118.html

 台湾の作家呂赫若(1914〜50)について論じている垂水千恵は、耕筰のことを今更説明するまでもない人物であるが、と断った上でつぎのようにのべている。

 「日本初の交響曲、歌劇の作曲、日本歌劇協会、日本交響楽協会設立など、日本の近代音楽の基礎を作った人物といえよう。しかし、1932年の満州国建国の際には「大満州国国歌」を作曲するなど、だんだん軍部との距離を狭めていく。もちろん、戦局の影響を受けたのは山田一人ではない。1937年の日中戦争の全面化はレコード検閲の強化、時局歌の制定、などの形で音楽界全体に影響を及ぼした。ただ、その中でも一際精力的な活躍を見せたのが、山田であり、楽壇を新体制にあわせて再編、組織化していこうという動きの中で、警視庁と密接な関係を持つ演奏家協会を設立、会長に収まったり(1940年7月)、ナチスのKDFに範を取った演奏家協会音楽挺身隊を結成、隊長に就任したり(1941年9月)して、着実に権力を掌中にしていっている」(『台湾の「大東亜戦争」』。214ページ)


 恵泉女学園大学の学生である森脇佐喜子は『山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』(1994)という長い題名の著書の中で、彼に関心を持った経緯をつぎのようにのべている。

(前略)山田耕筰の作品目録を見てみると、妙に違和感のある題名が目に付く。「カチヌケニッポン」「立てや非常時」「米英撃滅の歌」……。「ああ山田耕筰も戦争中にはこうした曲を書かされたのだな」と、最初のうちはあまり気にもとめずページをめくっていたが、どうもおかしい。余りにもそうした曲が多いのである。一体どのくらいあるのだろうと気になって、目録からそれらしいタイトルのものを年代も考慮に入れながら書き抜いてみた。すると697曲の声楽曲中、実に107曲もが戦争に関わる歌であった。(中略)戦争中の彼は、進んで軍服を着て軍刀(日本刀)を身につけていた。「音楽挺身隊」という戦争協力の団体を自らつくり、兵士の慰問や軍需工場に訪問と、熱心に活動していたのである。作曲家という職業を最大限に生かして、流行歌を、唱歌を、あらゆる戦争讃美の曲を作り、戦争に協力していたのだった。


山田耕筰自身の文章も引用されている。

音楽の総てを戦いに捧げん     山田耕筰


 山本元帥の壮烈なる戦死、アッツ島将士の勇敢なる玉砕、一億国民は感奮し魂の底から憤怒に燃えて必勝の誓いを固めている。
 楽壇諸君の努力については私もよく認めているけれども此の峻烈な戦局の下にあってはなお一層の反省を加え、勇猛心を振るい起こさねばならぬと信じる。楽壇から平時的な生活態度や微温的な思想傾向を除き去り、楽壇を全く戦争目的のために統一し、心を一にして邁進することが急務であると痛感するのである。
 音楽は戦力増強の糧である。今は音楽を消閑消費の面に用いてはならない。国民をして皇国に生まれた光栄を自覚せしめ、勇気を振るい起こし、協力団結の精神を培い、耐乏の意志を強め、戦いのために、戦時産業のために、不撓不屈の気力を養うことが、音楽に課せられた重要な任務である。平時的な音楽は葬られるのが当然である。
 顧みて楽壇人の生活態度はどうであろう。戦いをよそに芸術を弄ぶような考えがまだ残っているのではないか。産業戦士の中に飛び込んで真の戦時音楽を産業戦士とともに体験するというような烈しい気迫は欠けてはいないか。おさらい的な演奏会や社交的な演奏会や皇民的意識のはっきりしない演奏会が今なお街頭の立て看板に見られるのではないか。勿論楽壇の大勢は決戦意識の昂揚と戦力増強の面に向かって動いている。しかしたとえ少数でもまだ呑気な者や利己的な者が存在していることは楽壇の恥辱である。
 戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬと思う。皇国の光となるような永久的な文化の建設が必要なことはいうまでもないが、目前の戦争に勝ち抜いてこそ永久的な文化も考えられる。「国破れて文化あり」では仕様がない。いや国が破れたら文化も一緒に潰れてしまう。古代ギリシャの文化は古代ギリシャと共に滅び、古代ローマの文化は古代ローマと共に滅びた。日本が世界無比の古代文化を今日に伝えているのは、畏くも万世一系の皇室のこと、国家の尊厳が一ごうもおかされることなく三千年の光輝ある歴史を重ね来ったからである。日本の文化は皇国と共に栄えたのであって、皇国と切り離したら日本の文化が有るべき筈は無いのだ。今我々は此の大戦争を通じ曠古の天業を翼賛史奉っている。此の大戦争にかちぬかなければ日本の文化はない。
 我々が今日まで築き上げて来た日本の音楽は今日の戦局にこそ其の全力を捧げ、以て皇国の光輝を発揮しなければならないのだ。
 連合艦隊司令長官は最前線に進まれ御楯となって散り給うた。山崎部隊長以下二千数百の勇士は北海の絶島に十倍の敵と奮戦し全員国に殉じられた。楽壇の一人一人は山本元帥の心を心とし、一命を国に捧げる覚悟を示さねばならぬ。その覚悟を音楽の実践によって現わさねばならぬ。個人の生活などに何の思慮を費やす事があろうか。我々は戦時下の正しき皇民道に向かって誠心誠意邁進し、皇民たるに恥づる所なき力強い音楽活動を必死の努力で展開して報国の誠を効したいと思う。
(『音楽之友』1943・7月号)


この山田耕筰を、戦後間もなく「戦犯」として非難した人物が、音楽評論家の山根銀二だった。山根銀二 - Wikipedia にはこうある。

1961年、東京世界音楽祭の開催に反対し『われわれの音楽祭はどうあるべきか』を『讀賣新聞』に発表。同音楽祭が社会主義国の音楽家の出演を締め出す方針となっていることを批判した内容であった。1962年、労音代表団の団長として中華人民共和国を訪問。同年、第2回チャイコフスキー・コンクールのチェロ部門審査員としてソヴィエト連邦を訪問。1965年、音楽評論社を設立し、雑誌『音楽』を創刊。日本演奏連盟設立に尽力し、同連盟の相談役に就任。1966年、第3回チャイコフスキー・コンクールのチェロ部門審査員としてソヴィエト連邦を訪問。1972年、日本文化人代表団の団長として朝鮮民主主義人民共和国を訪問。


これを見る限り、山根はバリバリの左翼だ。だが、山根から「戦犯」と名指しされた山田耕筰の反応は、「お前が言うな」的なものだったらしい。実際、前述のリンク先によると、山根は、戦時中にこんな文章を書いていた。

『決戦楽曲』制作の意義     山根銀二


 悽愴苛烈な決戦は尚連続してをり、敵米英は不遜な野望を逞しうし、この尊厳な本土の空襲の機を覗っている。銃後国民は前線将士百錬の精強に絶対の信頼を置くとともに銃後に於ける鉄壁の構えをより一層整えなければならぬ。そして敵の空襲をうけた場合にも我々は断乎として必勝信念を堅持し、民心の動向を指導しなければならぬ。
 音楽者の使命には多々あろう。或いは一隣組員として防空に馳せ、或いは各種学校教職員として訓育に当たり、或いは又生産現場の音楽指導員として挺身する等。しかし我々には更に音楽者としての任務がある。特に空襲下に於ける行動は極めて重要である。音楽が他のあらゆる芸能に比し、国民の感情に直接訴えかけこれを慰撫激励する力の強いことを考える時、これが素材たる楽曲の内容と、その取り扱いに充分慎重を期さなければならないのである。
 まず内容の点から見ると国民の士気を鼓舞し、不屈の闘志を養うべく、健全明朗、勇壮、活発、静謐、軽快等の言葉で現せるようなものが必要である。此等の表現は既に多くの人が口にし、又その具体的な内容に就いても論じられてはいる。しかし従来果たして真にその美しい形容語に合致する作品が多くあったろうか? 確かにそれに当て嵌まる相当すぐれたものも若干あったが、それは質量共に未だ充分ではない。我々はもっと前進しなければならぬのだ。
 我々は忠誠心の溢れた愛国歌曲を生み出さねば居れぬ止みがたい熱情を堅持している。作品は作曲家の自らなる表現である。しかし今日に於いてはただに個人・作曲家のみの責任に於いて愛国歌曲を要求するに留まらず、それは演奏家・評論家等一切の音楽者の共同責任でなければならないと思う。かくして生まれた愛国楽曲も、最も効果ある方法によって国民に与えるものでなければ、所期の目的を達成し得ないであろう。爰に於いて移動音楽・放送・音盤等は勿論、各種の音楽機関を総動員し、真に必要な方面に、しかも最も有効に洩れなく供給し、国民の心に潜む愛国の血潮を湧き立たせ、戦力の根基に培う事が要請されるのである。それがためには全音楽人の奮起は絶対要件である。音楽者全部ががっちり組んで即刻挺身しようではないか。
 今回、日本音楽協会が、特に空襲下の国民を慰撫激励するために、超非常時用決戦楽曲の制作を企図し、本年初頭以来作曲部会員を動員し、計18曲(内12 曲は当選曲、6曲は編曲委嘱)を制定したのは斯かる趣旨に基づいている。これは音楽挺身隊の整備拡充と共に、空襲対策の一端であり、今後尚此の方向に向かって色々の企画をたてる予定である。
(筆者は日本音楽文化協会常務理事)
(『音楽文化』1944年5月号)


なるほど、これでは山根銀二も山田耕筰と同じ穴の狢だ。こんな人間が、戦後転向して山田耕筰を批判しても説得力はない。そして、かつて軍国日本に捧げたと同じ情熱を、共産主義諸国に捧げたわけだ。70年代のクラシック音楽評論界において、「社会主義リアリズム」を礼賛する教条主義的な左翼が主導権を握っていたことは私も知っていたが*1、山根もその典型的な人物だったのだろう。

ところで、山田耕筰には石原慎太郎との絡みもあった。とはいっても右翼同士気が合ったわけではなく、論争があったらしいのだ。これをエッセイで紹介したのは故吉行淳之介で、その文章を引用したウェブページから孫引きする。

http://symnet.ishikawa-pu.ac.jp/Symnet2/Sym2-2.html

" 赤とんぼ" のメロディーの最初の部分が,シューマンのピアノコンチェルトの中に出てくるという話である.吉行淳之介の " 「赤とんぼ」騒動" (文芸春秋,第59巻9号78〜79頁,昭和56年8月1日)によると,シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ短調作品134」の中で,ピアノやフルートによって, " 夕やけ小やけの赤とんぼ"までのメロディーが18回も演奏されているらしい.また石原慎太郎が友人のドイツ人に,赤トンボの曲が「ドイツの古い民謡だ」といわれたということも記されている.石原がこれを随筆に書いたところ,当時存命中の山田耕筰から強い抗議があったという.実はこの随筆を読んだ加藤俊雄君(学長の子息)からこの話を昭和41年に聞いたことがあるが,この小文を書くに当って問い合わせたところ,出典は失念したとのことであった.石原慎太郎全集が出たら調べてみたいと考えている.なお吉行淳之介の前記随筆は, " 赤とんぼ騒動 わが文学生活一九八○−一九八一" (昭和56年11月5日,潮出版社)219〜222頁に納められている.


もとの石原の文章は出典不明らしいし、山田耕筰の「赤とんぼ」がシューマンの音楽からの盗作であるかどうかも不明だが、右翼の有名人同士、妙なところで接点があったものだ。

*1:たとえば加藤周一と親しいことで知られている吉田秀和も、「左」側から批判されていた。吉田は、ソ連が作曲活動に介入することを批判したが、断り書きをつけながらの慎重な文章だった。