kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

古賀政男も戦争に協力していた。そして現在最悪の好戦的音楽関係者は宇野功芳だ

昨日からシリーズになってしまった「戦争と音楽」のシリーズ。

まず、id:AmahaYuiさんのコメント*1を紹介する。

AmahaYui 2010/10/03 11:20

やれ、ブクマ見つかっていたんだ(^-^; 仕事先で見て携帯でこっそり貼ったんですが(^-^;

いやまぁ、古関のところにも出てきた
戦時歌謡を作る羽目になった」的な表現って
あのころの著名人はみんな免罪符として使っていて
「本当に泣く泣く作った」のか
「積極的にかかわった、けど戦後そんなこといえなーい」てのか
区別つかないなぁとふと思考したんですよね。

こればっかりは、一人ひとり調べてみないとなんともわからないし、もしかしたらこのようには分からないかもしれない。

仮に泣く泣く作って賛同しても
戦後に戦犯!まではいかなくても、
「あの人戦争賛美の曲つくってたよねー」とか
陰口叩かれるパターンもあったりする。

こういう意味では林柳波など、戦争にぶれなかった数少ない人だと思ってますが。
(♪おうまのおやこは なかよしこよし いつでも一緒に ぽっくりぽっくりあるく〜・・・・・の歌、戦時中に書かれたものってのが信じられないでしょう。
記憶違いでなければ、軍部から馬を使った戦意高揚の歌を書けといわれてこれをかいたというエピソードだったと思いましたが。)

どうしてもこの辺の作曲家はねぇorz
高齢者の音楽を追究する上ではずせないのでorz


Yuiさんが挙げられた林柳波(1892-1974)についても、ネット検索の結果、「ザクザク兵隊さん」、「戦争てまり歌」が見つかった*2。また、林柳波の童謡「ウミ」に、「戦争協力」の意味があるという説が、今年2月の朝日新聞に出ていたようだ。
http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201002040274.html

以下引用する。

問題視されるのは、第3節です。「ウミニ オフネヲ ウカバシテ、イッテ ミタイナ、ヨソノ クニ」という歌詞が、大日本帝国の海外進出への期待を、子どもたちに歌わせたのではないか、というのです。

(中略)

 林は、当時の多くの作詞家同様、軍歌も作りました。「あゝ我が戦友」(37年)というヒット曲もあります。文部省の教科書編集委員を務め、国策に協力する立場にありました。

 でも、現代の研究者たちは林の「戦争協力」説に慎重です。戦時中の児童教育の研究で知られる作家の山中恒さんは、「時代の流れを追ってゆくと、『ヨソノクニ』は南方を指しているようにもみえる。でも……」と言って、「ウタノホン」の教師用手引書を見せてくれました。いわば先生のためのアンチョコです。そこには、「ウミ」の第3節について「海国日本国民の憧憬と意気とを歌ったものである」との解説があります。「海事思想とは、南方雄飛の意味でしょうが、露骨に海外進出を強調しているわけではない。決め付けてしまうのはどうだろうか」と山中さんは話します。

 日本の近代音楽史を研究する戸ノ下達也さんも「国威発揚なら『日ガシズム』は変だ。むしろ子どもの感性や想像力を養う意識がみられる」と言います。


「戦争にぶれなかった数少ない人」でも、戦争に協力せざるを得なかったのは確かだろう。『日ガシズム』は、たとえばショスタコーヴィチのような人であれば、わざとこういう歌詞を潜ませて日本の負けを予言したという解釈の方がむしろ説得力があるほどだが、林柳波の場合はどうだったのだろうか。なお、私はこの記事から、少し前に当ブログでも紹介した、同じ朝日新聞の『be』に載った『島唄』の話*3を思い出した。

ところで、昨年9月に高知県の安芸を訪れた際、土佐くろしお鉄道の駅前に弘田龍太郎(1892-1952)の碑があって、「靴が鳴る」の歌が流れていたのを聞いて、Yuiさん(星影里沙さん*4)を思い出したことがあった。安芸といえば阪神タイガースのキャンプ地だが、弘田龍太郎の童謡の町でもある。駅ごとに高知県出身の漫画家・やなせたかし(1919-)が駅名にちなんでデザインしたキャラクターを設定している土佐くろしお鉄道では、安芸駅のキャラクターは「あき うたこ」さんになっている*5。列車に乗っていると、停車駅ごとにキャラクターの名前をアナウンスしていたものだ。安芸駅がタイガースより弘田龍太郎をウリにしているのは意外だったが、隣の駅が「球場前」で、この駅のキャラクターが、ボールが縦縞のユニフォームを着た「球場 ボール君」というのだった*6土佐くろしお鉄道にはタイガースカラーに染め上げられたタイガース列車*7が走っており、私が乗ったのもそれだった。しかも私が安芸を訪れた日にはなんと阪神と広島の二軍公式戦が安芸の球場で行われることになっていたらしく、朝の結構早い時間だったが、気の早い阪神ファンがちらほら現れ始めていた。私は何も、野球の二軍戦を見に行くために安芸に行ったわけではなかったので、球場をデジカメで撮るにとどめて、二軍戦の開始を待たずに球場を後にした。

話を本題に戻すと、弘田龍太郎の歌碑は、安芸駅前以外でも何か所かで見かけた。しかし、戦時歌謡に関する記述を目にした記憶はない。史実はどうだったのかと思って調べてみたが、やはり弘田龍太郎も戦時歌謡を作曲していた。サトウハチローが作詞した「お国のために」*8に曲をつけたほか、同じサトウハチローが作詞して古賀政男が作曲した大日本産業報国会制定歌「いさをを胸に」*9を編曲している。

弘田龍太郎については、さほど多くの資料は見つからないが、またしてもサトウハチローが現れたばかりか、なんと国民栄誉賞受賞者の古賀政男までもが現れた。

古賀政男の場合、古関裕而の場合とは異なり、古賀政男 - Wikipedia には戦時歌謡についてほとんど触れられていない。しかし、これは意図的に史実を隠蔽したもののようだ。

「古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その一」。「軍国の母」。: ブログ高知 には、

 二十四日、同じ人から作曲家の古賀政男さんは基本的に平和主義者で、第二次世界大戦中は売れっ子でありながら、戦時歌謡の類はほとんどつくらなかったんですよという話を聞きました。
 これも明らかに違います。

と書かれており、「軍国の母」、「馬」*10、「そうだその意気(国民総意の歌)」*11、「サヨンの鐘」*12、「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)*13、「カボチャの歌」*14、「月夜船」*15、「祖国の花」(サトウハチロー作詞)*16、「敵の炎」(サトウハチロー作詞)*17、「敵白旗掲げるまで」*18が例示されている。

さらに、服部良一に至っては、かつてWikipediaに「服部良一戦時歌謡を作らなかった」と書かれていたらしい*19。現在では、服部良一 - Wikipedia には下記のように書かれている。

よく「服部良一は軍歌(戦時歌謡)を1曲も作らなかった」と紹介されるが誤りである。これは服部本人が軍歌作曲に対し消極的であったことや、その類が不得手であったことなど様々な理由から、これといったヒット曲は無く、量も他の作曲家と比べると少ないことから、そう言われるようになった。


一方、古賀政男古関裕而戦時歌謡の売れっ子作曲家だった事実は動かしようがなく、古関の場合は「六甲おろし」や「闘魂こめて」の軍歌調とも合うため、いかにも軍歌をたくさん書きそうなイメージがあるし、事実その通りだったのだろう。

だが、それよりももっと問題なのは、古賀政男服部良一が戦争に協力したことがいつの間にかなかったことにされていたり*20、クラシックと大衆音楽の両方で活躍した山田耕筰や、戦後左翼に転向したクラシック音楽評論家の山根銀二らが戦争に深く関わったことだったと知った。見てきた人たちを悪質な順番に並べると、山田耕筰、山根銀二、古賀政男となろうか。

そういえば、私がクラシック音楽を聴くようになった70年代後半に存命だった人たちはどうだっただろうかと思って調べてみた。その結果、作曲家の諸井三郎(1903-1977)が「大東亜音楽文化建設の指標」という文章を書いていた*21らしいことがわかった。現代日本を代表する作曲家の武満徹(1930-1996)は敗戦当時まだ15歳だったし、同じく作曲家の柴田南雄(1916-1996)は理系から東大文学部に学士入学し、卒業したのは1943年。評論家の吉田秀和(1913-)は敗戦で官僚の職を辞し、戦後猛勉強して評論家になった。このあたりの人たちは、戦争責任とは無関係だが、同じ評論家でも野村光一(1895-1988)や少し古い世代の野村胡堂(1882-1963)らには重い戦争責任がありそうだ。

最後に、ある意味では彼らより悪質とも思える音楽評論家を見つけたので、ここに記しておきたい。一部クラシック音楽ファンに「信者」ともいうべき熱狂的なファンを持つ宇野功芳(1930-)である。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/music/100910/msc1009101540001-n2.htm

 「音楽や演奏の姿も時代とともに変わりますが、僕が今いちばんに考えているのは、日本人があまりにも変わってしまったということです。最も示したいことは、かつての日本人が持っていた高い精神性です。戦争を賛美するつもりは毛頭ありませんが、戦前、戦中の日本人は実に誇り高く、世界の中の日本のあるべき姿を見つめていました。戦時歌謡は音楽も歌詞も実に清廉で、これほど純粋な芸術は世界のどの時代にもなかったと思えるほどです


 ■日本人の誇りへの思い

 失いかけている日本人としての誇り、国や故郷を愛する純粋な気持ちを呼び覚まそうという思いは、合唱指揮者としての活動にも反映している。歌い継がねばならない美しい日本の歌をステージに響かせてきた。16日に取り上げる「おとぎ歌劇『ドンブラコ』」もその一つだ。

 「明治45年に作曲家の北村季晴(すえはる)が作詞、作曲し、日本初のオペラだといわれています。桃太郎の話を下敷きにしていますが、日露戦争の時代を反映してか、鬼はロシアの賛美歌のような合唱を披露します。圧倒的人気を得た作品で、宝塚歌劇団の前身の宝塚少女歌劇団の第1回公演の演目にもなっています。大団円で響くのは『君が代』。現在のようなゆっくりとしたテンポではなく軽快に演奏するように指示されていますが、それが実にすがすがしく、美しく、ここにもかつての日本人の矜持(きょうじ)を感じることができます」


これを読んで私は確信した。もし宇野功芳が戦時中に活躍した評論家であったなら、誰よりも熱心に戦争協力の旗を振ったに違いあるまいと。

私は30年以上前に初めて宇野の文章を読んだ時以来ずっと、宇野功芳が大嫌いだった。宇野ならこんなことを言いかねないと改めて思うとともに、少年時代の第一印象で宇野功芳を嫌ったのは正解だったと意を強くした次第である。