kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「低線量被曝」と「疎開・コミュニティ分解によるストレス」のリスクを比較する必要がある

最初に断っておくが、昨日来私は小佐古敏荘を批判しまくっているけれども、私は福島県内の小学校や幼稚園の校庭利用基準を20ミリシーベルトに決めたこと自体には反対だ。だが、朝日新聞の記事で最初にこの件を知った時、本気で反対するならむしろなぜ参与にとどまって政府の決定に影響力を与えようとしなかったのかという疑問を抱き、さらに毎日新聞で小佐古と小沢一派のつながりが指摘されているのを見て、この小佐古という人間を信用する気が全くなくなった。御用学者としての小佐古の名前だけは聞いたことがあったが、調べてみると次々と呆れんばかりの過去の行状が出てくる。そんな人間が「ヒューマニズム」などという言葉を使っているだけでムカムカした。

しかし、私が引っかかったのはそのことだけではない。福島の人たちにとっては、住んでいる土地の安全が脅かされているリスクのほかに、避難なり疎開は、コミュニティを喪失するというリスクがあるのは当然なのに、都会の人間の議論からはその観点がすっぽり抜け落ちていることだ。

この件について考えながら私が思い出していたのは、少し前に読んだ中国地方の限界集落の話だった。


限界集落

限界集落


東京の人間は限界集落に住む人たちについて、よく、都市部に出てこない方が悪い、みたいな言い方をする。再分配も重視するリフレ派の学者がそのような物言いをした例を朝日新聞で読んだことがあり、いかに再分配にも配慮しているといえども、やっぱり大都市に住んでいて新自由主義的な考え方がしみついているんだなあと思ったものだ*1

20ミリシーベルトに基準を緩和するというのは、コミュニティを維持する意味合いがあると私は解している。しかし、放射線はどんなに少量であっても人体に悪影響を与えること、それに大人と比較して子供は特に放射線の影響を強く受けることは紛れもない事実だから、小学校や幼稚園の校庭利用基準を20ミリシーベルトに引き上げることには、私は反対なのだ。

ただ、上記のように、単に放射線を浴びる以外の、コミュニティ喪失のリスクもある問題なので、「20ミリシーベルト」という数字だけが一人歩きして政局に利用される事態が我慢ならないというわけである。

上記のようなことをずっと考えていたのだが、ネットでもコミュニティ喪失について触れた意見は、本当にごく少なかった。そんな中で、
http://taro.org/2011/04/post-991.php につけられた「はてなブックマーク」のコメントが目を引いた。


http://b.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110430#bookmark-40508718

tikani_nemuru_M この決定のプロセスは批判されてよいが、決定そのものの評価は微妙だ。低線量被曝のリスクと、疎開・コミュニティ分解によるストレスのリスクではどちらが大きいか、まともに評価できる人はいないんじゃないのか? 2011/04/30


本当にその通りだと思う。河野太郎のブログに書かれている、「20ミリシーベルト」決定のプロセスは本当にひどいものだが、「疎開・コミュニティ分解によるストレスのリスク」は、絶対に考慮しなければならない。小学生や幼稚園児の場合、低線量被曝のリスクの方が大きいだろうと私は考えているが、小佐古敏荘や空本誠喜小沢一郎のように原発を推進してきた人間がこの件を政争の具として利用することには、強い違和感を持つ。

上記の理由で、私は小佐古敏荘らを決して許せないのである。

*1:もっとも、かくいう私も現在では東京に住んでいるのだが。