西岡武夫が急死した。死因は肺炎だったという。つい先日まで菅直人批判の急先鋒だっただけに驚いた。享年75。もっと歳をとっているかと思っていた。
私はこの男が昔から大嫌いだった。何も最近民主党右派の政治家として目立ったから嫌っていたのではなく、ずっと昔から「信用できない政治屋」だと思っていたのである。
この男の名前を知ったのはもう35年も前だ。自民党から新自由クラブが分立したとき、西岡はその結党に参加したのである。1976年6月のことだった。当時西岡は40歳。若くして国会議員になった西岡は、ご多分に漏れず世襲政治家だった。当時39歳の河野洋平も世襲政治家だったが、清新なイメージを振りまいた新自由クラブは世論に歓迎され、同年の衆院選では17議席を獲得して躍進した。
だが、どちらかというとリベラル色の強い河野洋平と、右翼の西岡は合わなかった。結党から3年後の1979年に西岡は新自由クラブを離党し、翌年自民党に復党したのである。私が西岡を嫌うようになったのはこの時以来だ。だから、もう32年間もずっとこの政治屋を嫌っていたことになる。
自民党に復党した西岡だが、83年の総選挙で落選し、86年の衆参同日選挙で返り咲いた。西岡は、右翼でありながらなぜか宮沢派に属したが、小沢一郎とのつながりを強めた西岡はのちに宮沢派を除名された。
自民党が下野した93年の選挙では、自民党公認で当選したものの、同年末に野党に転落した自民党を離党して新進党結成に参加した。ここでも西岡は「裏切り行為」を働いたわけだ。裏切りを重ねたその生き方は、鳩山邦夫の「裏切りの人生」*1を連想させる。
せっかく野党・自民党を離党したのに94年6月の政変で「自社さ政権」ができたために再び下野の憂き目を見た西岡は、98年に長崎県知事選に挑むも敗退。2000年には自由党公認で総選挙に挑むもまたも落選した。そんな西岡が国会議員に返り咲いたのは2001年の参院選であり、自由党の比例区公認候補として当選した。小沢一郎のおこぼれにあずかった形だ。
2003年の民由合併には難色を示したが、結局民主党に合流。民主党では、党内屈指の右翼議員として活躍した。
このように、評価できるところのほとんどない西岡の政治生活だったが、唯一評価できるのは、西岡が参議院の選挙制度を、全国を9ブロックに分けた比例区にするという「私案」を発表したことだ。これは、単純小選挙区制への指向性が極めて強い民主党にあって、異色の選挙制度改革案だった。
だが、この「私案」程度で西岡の業績全体を肯定的に語ることは私にはできない。昔から、時に政治ニュースを騒がせた人だったが、もたらした功績よりも流した害毒の方がずっと多かったように思われる。