kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

シャーロック・ホームズ短編第1作のヒロインの名は「アイリーン」か「アイリーネ」か「イレーネ」か

下記のサイトに2000件以上の「はてなブックマーク*1がついている。イギリスの作家、コナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズ全作品の邦訳を無料公開したサイトである。
コンプリート・シャーロック・ホームズ


シャーロック・ホームズの探偵譚といえば、小学生の頃に子供向けにリライトされた偕成社版の全22巻の全集で長編4、短編56の全作品を読んだ。最初に読んだのは『まだらの紐』だった。中学校に上がって、全集中もっとも声価の高い第1短編集『シャーロック・ホームズの冒険』のほか、『緋色の研究』、『四つの署名』の初期2長編などを延原謙訳の新潮文庫版で読み直したが、全集の全部は読まなかった。

ホームズはやはり短編の方が長編より面白く、それも初期の作品ほど良いという印象を持っている。第2短編集『シャーロック・ホームズの思い出』の最後で、ホームズは「悪の天才」モリアーティ教授と対決し、相討ちとなってともにスイスにあるライヘンバッハの滝の滝壺に落ちて死んだことになっていた。しかし、ホームズ物語の続編を求める読者の声に押されて、第2短編集から10年後、作者のコナン・ドイルはホームズを生き返らせたのだった*2。つまり、相討ちだったはずの対決を「ホームズの勝ち」に書き換えてしまった。一種の「歴史修正主義」だろうか。

10年ぶりの第3短編集『シャーロック・ホームズの帰還』にはそれなりに面白い作品が多いが、第4短編集『最後の挨拶』でホームズを引退させたあと、ドイル最晩年の第5短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』になるとかなり落ちるように思われる。この第5短編集の著作権は1991年まで生きていて、それで延原謙が翻訳した新潮文庫版などを除いて、長らく各社の文庫で『事件簿』だけが欠落していることが多かったようだ。

ネットで公開されている『コンプリート・シャーロック・ホームズ』を全部読もうとは思わないのだけれど、第1短編集『シャーロック・ホームズの冒険』の最初に収録されている作品、『ボヘミアの醜聞』を読んでみた。短編としては最初のホームズ物語である*3

読み始めて最初にあれっと思ったのが、短編のヒロインの名前が「イレーネ・アドラー」となっていたことだ。普通は「アイリーン・アドラー」と訳されるが、延原謙訳では「アイリーネ」となっている。そして今度は「イレーネ」だ。綴りは "Irene Adler"。果たして読みはいずれが正しいのかと思って、読むのを早々に中断してネット検索をかけてみた。

調べてみると、アメリカ英語では「アイリーン」と読むが、あるTwitter*4によって、イギリスではなんと「アイリーネ」または「アイリーニ」と読むらしいことがわかった。

アイリーン・アドラーの名前が、あいりーんじゃなくて、アイリーネだということに初めて気が付いた今朝。BBCラジオドラマでは、アイリーネと連呼されている。 確かに、<アイリーン>ってローマ字読みだな。


「ローマ字読み」だと「アイリーン」じゃなくて「イレネ」じゃないかと思うのだが、それは措いておく。私は、延原謙訳の「アイリーネ」という表記はおかしいのではないかと中学生の頃からずっと思っていたのだが、イギリス式発音だと「アイリーネ(ニ)」だったのだ。三十数年ぶりに疑問が解けた。

「コンプリート・シャーロック・ホームズ」が採用しているのはドイツ読みらしい。短編のタイトルは『ボヘミアの醜聞』であり、チェコとドイツの国境近くにあるボヘミアチェコ中部及び西部)のドイツ語圏の町、"Egria" の人から依頼された事件なので、ドイツ読みの「イレーネ」でも良いのだ。なお、"Egria" とはドイルの記憶違いらしく、正しくはドイツ語で "Eger"、チェコ語では "Cheb"(ヘプ)という町らしい*5

もっとも、ヒロインのアドラーは、

1858年ニュージャージーに生まれる。アルト歌手、スカラ座出演、ワルシャワ帝国オペラのプリマドンナ、オペラの舞台から引退、ロンドン在住

とのことだから、アメリカ生まれである。そう考えると「アイリーン」でも良いわけで、結局「アイリーン」、「アイリーネ」、「イレーネ」のいずれでも間違いではないことになる。

もう一つ。『コンプリート・シャーロック・ホームズ』には「プリマドンナ」のところに註がついていて、

主役の女性歌手。たいていはソプラノ歌手で、アルト歌手のプリマというのはまずありえない。

とある。そりゃそうだ、と思ってまたネット検索をかけてみると、ドイルの原作ではアドラーは "contralto"(コントラルト)だと書かれているらしいことがわかった。

私は、コントラルトとはおそらく普通のアルトよりもっと音域の低い女性歌手のことをいうのだろうと勝手に思い、さらにネット検索をかけたところ、実はそうではなさそうなことがわかった。なんと、「アルト」とはもともと「高い」という意味であり、イタリア語では「アルト」と「コントラルト」は同義らしいのだ*6。つまり、「コントラルト」とはテノールよりさらに高い音域という意味らしい。ここでも『コンプリート・シャーロック・ホームズ』の「アルト」という日本語訳は妥当だった。

男声で「カウンターテナー」(コントラテノール)というと、テノールよりさらに高い音域の男性歌手のことだし、「コントラバス」はチェロよりさらに低い音域の弦楽器だ。だから、「コントラルト」とはアルトよりさらに低い音域の女声のことだと思い込んだのだった。もっとも、「コントラ」といえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を含む第5編のタイトル「プロとコントラ」にあるように、もともとは「否定」の意のはずだろうと思うから、なぜ「アルト」と「コントラルト」が同義になるのか、そう考えるとさっぱりわからなくなってきた。

そうやって道草を食いながら『ボヘミアの醜聞』を読み終えたが、これは実に面白い一編だった。イレーネ・アドラーはソプラノではなくアルトでなければならなかった。こんなふうにあれこれ調べながら読めるのも、3連休初日の夜だからかもしれない。ホームズ物語の他の作品も読んでみたくなった。昔読んだ偕成社版の子供向け全集は、原作にずいぶんひどい改竄を加えたものだったらしいから*7、まだまだ私は「ホームズ探偵譚を全部読んだことがある」とはいえないのである。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/www.221b.jp/

*2:その2年前に長編『バスカヴィル家の犬』が書かれたが、ホームズが死ぬ前の物語という設定だった。

*3:その前に『緋色の研究』と『四つの署名』の2つの長編が書かれている。

*4:http://twitter.com/#!/bcSHfanjp/status/60269136755957760

*5:http://www.where-are-we-going.com/beyond_exams/annotated-works/2009/07/scandal-in-bohemia6/

*6:http://musicahaha.at.webry.info/200809/article_7.html

*7:但し、同じ偕成社から1980年代に新たに出版された中学生向けのホームズ全集は原作に忠実な翻訳とのこと