kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小沢一郎が何もしなかった2011年(3)減税真理教・橋下すり寄り編

シリーズ最終回。小沢一郎のTPP黙認や震災への無策・「脱原発」への妨害もひどかったけれども、来年以降にもっとも大きな災厄をもたらす可能性が高いのは、小沢が河村たかしとつるんだり橋下徹に秋波を送ったりしていることではないかと思う。

話はそれるが、昨年公開された どうもごく少数派 - dongfang99の日記 が、今になって「はてな」のホッテントリ*1になっていた。以下引用する。

 これは勝間和代氏も言っていたことだが、なぜか日本では携帯電話、牛丼、コンビニ、ファミレス、家電量販店などなど、ひとつの「売れている」分野に多くの企業が参入して過当競争になってしまう。やはり、こうなってしまう最大の理由は、日本の労働者が低賃金で懸命に働いてくれる、ということにある。つまり、よほど間違えなければ確実に売れる業種にターゲットを絞ったら、あとはひたすら人件費を下げて低価格で勝負していけば、利益が上がってしまう。結果として、経営者の側に経営の効率性を高め斬新な商品を開発しようというモチベーションが低下し(口では言うが)、低賃金労働者が増えれば消費も当然冷え込んでしまい、経済全体が停滞してしまう。

 そもそも福祉国家」というのは、別に市場原理の暴力に対抗するというヒューマニスティックなものなのではなく、まずもって市場経済の生産性・効率性の論理のなかで登場したものだった。つまり、労働者の待遇を引き上げることで、経営者が低賃金・低価格ではなく、正攻法に生産性の高さで勝負するようになり、さらに消費も活性化し、高い経済成長を実現するというわけである。最低賃金保障や失業給付といったものは、単に貧しい人がかわいそうというものではなく、何よりも低賃金労働者に依存して新しいものを何も生み出さない企業・産業に安楽死してもらうためであった。

 さらに一部の大企業には、さほど生産性が高くないのに中高年を中心に過剰に人員を抱え込んでいるところがある。なぜクビを切れないか、あるいはなぜクビきりに抵抗するのかと言えば、言うまでもなく家のローン、親の介護、子どもの教育費など生活費がかかるし、別の仕事が見つかる可能性が皆無だからである。この意味で、失業給付や職業訓練などの公的な社会保障を充実させることは、衰退産業から成長産業への、健全な労働市場の流動化を可能にするのであり、周知のようにこれを徹底して行ってきたのがスウェーデンである。

 福祉国家論者は市場原理への愚痴や悪口が枕詞になっていることが多く、「生産性」「効率性」という言葉だけで嫌な顔をするタイプが少なくないのだが、それでは「賃金を上げると競争力が落ちる」という批判に太刀打ちできない。福祉国家の考え方は、市場原理を尊重する経済成長の理論の一部として登場したはずだし、自分も完全にそう理解しているのだが、どうもそういう考え方はごく少数派のようである。

(追記)

 急にブックマークが増えて???なのだが、確かに「ごく少数派」というのは言い過ぎだったかもしれず、これに関しては訂正したい。

 ただ、「分厚い社会保障こそが市場を活性化させる」という主張を真正面から行っている人がそんなにいるかというと、やはりごく一部の例外を除いて見当たらない。市場派の鈴木亘氏も、民営化とワークフェアによる社会保障財政の抑制を主張している。「税と社会保障の一体改革」には、社会保障と経済成長を連携させる考え方が示されているが、財政の問題に比べると中心的なものとは言えず、読み方によっては社会保障の抑制策にも受け取ることができるという微妙なところがある。 

 やはり「分厚い社会保障こそが市場を活性化させる」というのは、あくまで「スウェーデン」の文脈で出てくる話で、日本の経済・財政の政策論で具体的な形で語られることは少ない。それも当然で、「スウェーデン」の話を聞けばだれもが「よくできている」と感心するのだが、高い税負担や公務員の増員、同一労働同一賃金の実現、労働組合の拡大強化など、一つ一つが世論の強い抵抗感を引き起こすようなものばかりで、結局つまみ食い的な「スウェーデン」讃歌ばかりになっている。


私はこの記事が書かれたのと同じ頃、「最低賃金も払えないような企業は市場から退出させるべき」と書いて「新自由主義者」呼ばわりの非難を受けたものだった。それまで私にゴマを擦っていたある北陸地方在住(当時)のコメンテーターは、陰謀論系小沢信者のコメント欄に居を移して、「kojitakenガー」と悪口のコメントを書くようになったが、それを当ダイアリーで暴いてやったら、その後そこにも現れなくなった。あえて名を秘すが、「フスキー」「マケイン」「マイケル」「お茶漬け爺さん」などと名乗っていた人間である。

昔の悪質なコメンテーターへの悪口はともかく、現在気になるのは小沢一郎及び小沢を信奉している人たちのビジョンである。「不況下の増税が景気の足を引っ張る」という主張はその通りだと思うが、将来的には負担増を目指さざるを得ない、現在は税負担の直間比率は北欧のような福祉国家とあまり変わらず負担率が低いことと経済状況を考慮して、まず直接税の税収を増やし、経済状況が良くなった時点で間接税も増税するというのが筋ではないかと私は考えている。しかし、河村や橋下を支持する人たちの中には、「金持ち増税」さえも否定する論者が少なくない。それに、かつて「小泉構造改革」を批判していたはずの人たちが乗っかっているというのが今年気になった図式である。彼らはたとえば古賀茂明を称賛したり高橋洋一Twitterリツイートしたりする。それだと「みんなの党」の支持者が目指す「小さな政府」の方向性と何も変わらないのである。

小沢一郎河村たかしとつるんでみたり、橋下徹に秋波を送っているのも、この方向性を持つ動きが今後トレンドになると思っているからだろう。「小沢信者」が流す風評とは裏腹に、小沢一郎ほど「空気」を読みたがる「風見鶏」はいない。2006年からの「国民の生活が第一」時代は「小泉・竹中構造改革」がもたらした「貧困」や「格差拡大」への反発がトレンドだったが、昨年あたりから「茶会(ティーパーティー)」的な流れがトレンドになってきた。すると、小沢一郎はさっそくそれに乗っかった。

小沢一郎はもともと(自民党時代にある大蔵官僚をブレーンとして以来)「小さな政府」が持論であり、「所得税と住民税の半減」と「消費税の増税」を主張してきた。たとえば民主党代表時代の2007年参院選の公約にも「消費税増税」を盛り込もうとしたが、当時の総理大臣・自民党総裁安倍晋三が「消費税増税」を打ち出そうとしているのを見た小沢は「消費税」を前面に出すのを止めた。小沢一郎にとって公約は政争のための道具に過ぎない。その後、「政権交代選挙」に勝つための策として「消費税増税」という年来の主張を小沢は凍結した。歴史に「たら」「れば」はないのだが、2009年に「西松事件」が起きず、同年の政権交代選挙によって「小沢一郎内閣」が発足していたなら、今頃小沢首相は公約を破って「消費税増税」を打ち出し、その「剛腕」でもって消費税増税の時期や増税幅ももう決まっていたのではないか。

しかし現実には、鳩山由紀夫菅直人野田佳彦と総理大臣が変わるたびに政策は自民党政権時代に接近していった。マスコミは河村たかしには見切りをつけたものの、河村よりさらに危険な橋下徹の人気をあおっている。このまま政界再編が起きずに総選挙になった場合、自民党が政権を奪回すると思うが、政策は前回の自民党政権時代や現在の「野ダメ」(野田佳彦)政権と全然変わらないから、発足直後だけ一時的に50%を超えた支持率があっという間に20%台に落ち、毎年「○○降ろし」が起きることが何年も繰り返される。そして「強力な指導者」を待望する空気がますます強まる。

私は、2012年には総選挙はないと見る。「野ダメ」が衆議院を解散しようとしても「野田さんを羽交い締めにしてでも解散させない」と叫ぶ民主党衆院議員が次々と現れ、野田は麻生太郎同様解散権を事実上封じられると考えており、9月の民主党代表選、自民党総裁選で両党の党首がともに交代し、それをきっかけに政界再編劇が起きると予想している。だが、その場合でも「強力な指導者」とやらの出番が早まるだけだ。そして、その「強力な指導者」はもはや小沢一郎ではない。

今年は「裏」で河村たかし橋下徹を支援しただけで、表向きは何もしなかった小沢一郎だが、日本の衰退につながる「災いの種」を撒き続けていたと私はみなしている。少し前には、何十年かぶりで「高福祉高負担」を口にできる空気が生まれていたが、いまやそんなものはすっかり消え去った。世の「リベラル・左派」がいつまでも小沢一郎に固着することが、日本を「福祉国家への道」からますます遠ざけている。