kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

故津田恒美投手が野球殿堂入り

広島カープの「炎のストッパー津田恒美野球殿堂入りした。

同時に広島の200勝投手、北別府学も殿堂入り。それで思い出したのだが、節目節目の津田のリリーフ登板で北別府が先発していた。

まず、1986年に広島がリーグ優勝を決めたヤクルト戦(神宮球場)。残り2試合でマジックを「1」としていた広島の先発はエース北別府。9回表終了時点でスコアは8対3だったが、北別府は胴上げのマウンドを津田に譲った。

そして同年、広島が日本シリーズ制覇で王手をかけて迎えた第5戦(西武球場)で、津田は西武の投手・工藤公康にサヨナラ安打を打たれ、この試合から数えて広島は4連敗して優勝を逃した。この試合の先発も北別府だった。

さらに、津田最後の登板となった1991年4月14日の読売戦(広島市民球場)も、先発は北別府。この試合のテレビ中継を見ていたが、打たれた津田の表情がいつもと違った。なにか見る者に不吉な予感を抱かせるものだったのだ。

読売のクロマティ原辰徳にサヨナラや同点のホームランを打たれたかと思うと、その原がファウルした時に手首を骨折させるほどの豪速球を投げる。津田は1982〜83年に、左の川口和久とともに売り出したが、川口が故障も少なくコンスタントな成績を残したのに対し、津田は山あり谷ありだった。故障の期間も不調の期間も長かった。しかし、ひとたび輝きを見せた時の津田は、他の投手たちの追随を許さなかった。川口も「記録より記憶に残る」部類の投手だったが、津田は川口の比ではない。津田ほど私に強い印象を残した投手は、他に江夏豊野茂英雄くらいしか思いつかない。200勝投手・北別府も、津田と比較すると印象が薄い。現に、今日の報道でも「津田」の名前ばかりが強調されていた。

1991年に津田の病名が「水頭症」と報じられた時、実はもっとたちの悪い病気なのではないかと悪い予感がした。そして、その2年あまりのち、確かオールスター戦第1戦が行なわれた日だったと思うが、その日の「日刊スポーツ」の見出しが今も忘れられない。「津田が死んだ」という大見出しだった。