kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「西山事件」を拡大させ「原発推進派」の過去に頬かむりする横路孝弘

テレビの影響力というのはやはりすさまじい。

先週、TBSテレビのドラマ『運命の人』第2回が放送された。沖縄密約に絡む「西山事件」を描いた山崎豊子原作の小説をドラマ化したものだ。

私は以前から沖縄密約の件に関心があり、西山氏の著書を2冊、並行して行なわれていた核密約に関する若泉敬の著書や若泉の評伝などを読んだが、小説にはあまり関心がなく、山崎豊子の小説の存在も、実は今回ドラマが宣伝されて初めて知った。澤地久枝のルポも題名だけは以前から知っているものの未読だ。

で、ドラマの第2回で強烈な印象を残したのが、番組の最後で「取材源の秘匿」について釘を刺されていたはずの社進党若手議員・横溝宏が国会で、主人公・弓成亮太から借用した電信文のコピーをふりかざして政府を追及している場面だった。それを見た弓成が、あれではニュースソース(外務省の女性事務官)が割れてしまうと動転する場面で番組は終わった。

弓成亮太のモデルは西山太吉、横溝宏のモデルは横路孝弘である。ネット検索をかけると、下記のTwitterが見つかった。


http://twitter.com/#!/utti314/statuses/31241374820999168

@utti314
utti
横路孝弘の思慮不足が西山事件を招いたんだと思ったらアタマにくるな。


私もそう思った。同様の感想を持った人も多いだろう。

もっとも、上記がどこまで史実に基づくものなのかは予断を持たずに判断しなければならない。それについては今後ちょっと調べてみようと思っているが、とりあえず当たりをつけるためにネット検索をかけてみた。すると、2006年に書かれた下記のブログ記事が見つかった。当時民主党を揺るがせた「偽メール事件」を取り上げた記事だが、その中で横路孝弘への言及がある。


ダメ政党「民主党」の伝統 - 音次郎の夏炉冬扇

毎日新聞を辞して故郷の九州に帰り、実家の農園を手伝うことになった西山氏は、後に最高裁まで上告したが、棄却され有罪が確定した。何よりもアイデンティティであった「ペン」を取り上げられ、本人曰く「生ける屍」のような余生を過ごさなければならなかった。
一方、彼に機密外交文書である電信文を渡した女性のH事務官は、裁判で毎日新聞側の弁護士が病身の夫を、執拗にヒモ呼ばわりしたことにより離婚を余儀なくされ、その後は沈黙を守ったまま、ひとり孤独な人生を歩むことになった。

この2人を地獄の底に突き落としておきながら、今も民主党衆議院議員の椅子に座っている政治家がいる。今はすっかり影が薄くなり、というよりここ10年以上、全く存在感を発揮していない、元プリンス横路孝弘その人である。

小説でも出てくるが、今もなお自らの正義を疑わない西山氏だが、生涯最大の痛恨事として、はっきりと自らのミスを自覚しているのが、1972年当時、日本社会党の青年代議士だった横路孝弘に問題の電信文を渡したことだった。沖縄返還の密約の確証を握りながら、情報源の秘匿という新聞記者としての基本原則を守って、エビデンスを示さずに書いた何本かの記事は、世間に何のインパクトも与えず黙殺された。そのことに焦りを感じた西山氏は、社会党に国会で爆弾を落としてもらうことを企図して、くれぐれも情報源が特定されぬように念押しして、コピーの原本を横路議員に渡した。

しかし、国会で佐藤栄作首相や福田赳夫外相を厳しく追及した後の、横路議員のあまりにも不用意な取り扱いにより、この電文の入手経路が政府に特定されてしまった。ここでその後の不幸な展開が決まった。横路議員は当時の朝日新聞のインタビューで「国家(権力側)がそこまでやると思わなかった」という脳天気な談話を残している。

「床屋に飾られた髪型写真のように、きちんと七三に分けられた髪は黒々とし、顔には小皺一つみられなかった」

「自らは泥をかぶらない二世エリート政治家」

「まったく言いよどむことのない物言いには、能弁である分だけ思想的葛藤をほとんど経験したことのない人間特有の深みのなさを、むしろ感じた」

「自己の内面との対話を通じてではなく、まさに勉強によって獲得した“チャート式質疑応答集”にしたがって回答を出すような態度」

「インタビュー中、この人の言葉は一見質問に答えているようで、質問者の真意とは本質的にからんでこない」

「無謬の光の中をなんの挫折もなく歩んできた秀才」

「感受性の神経がそっくり一本抜けているのではないかと思われるほどのストレス知らずの性格」


これは前原・鳩山以下、前掲の民主党中堅若手議員に対するイメージ調査のフリーアンサーではない。つい錯覚してしまうかもしれないが、上記は、1994年、横路孝弘が3期12年の北海道知事の任期を終えようかという時期に書かれた記事から抜粋したもの。中央政界復帰の機会を窺っていた横路孝弘に、一部から待望論が上がっていた頃だった。佐野眞一が「文芸春秋」でレポートしたこの横路孝弘論(ちくま文庫「人を覗にいく」収録)はなかなか興味深い。氏は前述の西山事件に関しても、横路本人にインタビューした上で、こう書いている。

 今、あの事件を振り返って、西山さんとHさん(筆者イニシャルに改変)のお二人に何か言いたいことがありますか、という質問に、横路はまったく言いよどむことなく、こう答えた。
「いや、Hさんていわれてもね、直接アレしたわけではないんで。西山さんについても事前にも事後にもお目にかかる機会をもてなかったもんですから、それは残念に思ってますけどね。私も若かったということです。」
 身体障害者や高齢者が地域で普通に暮らせるノーマライゼーション運動を、と高らかにうたい上げている男の、これが、人生の落伍者と烙印を押された二人に対する答えだった。横路の答弁には、自分以外の他人に対する想像力の欠如が随所に感じられた。


横路孝弘民主党のルーツと言うに異論がある向きもあるだろう。変遷があって、たまたま現在、党の国会議員ではあるが、民主党日本社会党ではもちろんない。
ただ、野党第一党の青年代議士だった34年前の横路と、今の民主党ホープと称される議員達に通底するものがあるような気がしてならない。


やはり横路孝弘は「西山事件」を拡大させた張本人だった可能性が高いようだ。この記事を読んでいろんなことを思い出した。一つは、北海道知事時代の横路孝弘の悪行である。さらにネット検索をかけると、下記の記事が見つかった。


明るみに出ない原発労働者の真実(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)

 チェルノブイリ原発事故のあと、北海道内では反原発運動が勢いを増した。

 当時、北海道知事だった横路孝弘氏は社会党に属していたが、「勝手連」と呼ばれる市民運動の力を背景に83年に初当選した。「勝手連」に結集した人々の多くは泊(とまり)原発の稼働に反対しており、社会党も反原発の立場を取っていたことから、横路知事による建設計画中止の決断が期待された。しかし、横路知事は行政の継続を理由に、自民党系の堂垣内尚弘前知事が進めていた道内初の原発計画を今後も推進すると発表した。


その横路孝弘の東電原発事故後の言動は下記。


http://www.zaikaisapporo.co.jp/kigyou/intervew/104.shtml

インタビュー掲載号・2011年11月
日本はチェルノブイリからまったく学んでいない

横道孝弘衆議院議長


 横路孝弘衆院議長は9月上旬、チェルノブイリ原発を視察した。そこには原発事故対応で教訓とすべき事例が数多く存在した。だが、原発安全神話に凝り固まっていた日本は、チェルノブイリから何も学んでこなかったという。
(以下略)


「横道」はもちろん「横路」のtypo原発を推進した過去を棚に上げてしゃあしゃあと語る無恥から直ちに思い出したのは、横路以上に原発推進に邁進した過去を持ちながら、「脱原発」に目覚めた少女アイドルに手紙を送るパフォーマンスを行なった小沢一郎である。その小沢が民主党入りした時に手を組んだ相手が横路孝弘だった。今にして思えば、民主党の「原発推進派」同士(2003年の時点における)が野合したともいえる。「護憲」の横路孝弘と「改憲」の小沢一郎が「解釈改憲」で手を打った。その後小沢は憲法の明文改定は言わなくなったものの、集団的自衛権の政府解釈について「見直すべきだ」との姿勢は今も変えていない。2009年の総選挙前に行なわれた毎日新聞の「えらぼーと」にもその旨回答している。

横路については、北海道知事時代に当時朝日新聞本多勝一が手厳しく批判していたことも思い出される。本多は、横路の環境破壊への加担と原発推進を批判していた。その後朝日を退社して『週刊金曜日』に書くようになってからも、確か2002年の民主党代表選の時だったと思うが、本多は右派の候補者ともども横路をこき下ろし、菅直人か、さもなくば若手が良いと書いていたように記憶する。もっともその後本多勝一小沢一郎と意気投合することになるのだが(笑)。

私は横路のうさんくささについてはこれまでも意識はしていたもののほとんど書いてこなかった。しかし、やはり横路孝弘という男は松下政経塾組や小沢一郎に決してひけを取らない「民主党のガン」だったのではないかと改めて思い始めている。