kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

民主党のふざけた「衆院比例定数80削減」にはようやく反対論が高まってきたものの・・・

今朝のTBSテレビ『サンデーモーニング』で、またまた鳩山由紀夫の御用コメンテーター・寺島実郎が「政治家は自ら身を切れ」という名目で国会議員定数削減を求める主張をしていた。しかし、昨今ではこの手の主張は国民の支持を失ってきているようだ。特に、民主党の「衆院の比例定数を80削減せよ」という主張は、もしその主張通りに削減した場合、民主党はたいしてダメージを受けず、公明党みんなの党共産党など小政党へのダメージが大きいことをテレビ局のニュース番組が大きく報じていることもあって、国民の支持をたいして得られていないのではないか。

新聞も民主党の「衆院比例定数80減」に反対の意思表示をしているところが多い。民主党寄りといわれる朝日も最近の社説で反対していたが、朝日は90年代の「政治改革」自体は肯定しているため、論調の歯切れは悪かった。地方紙はもっとストレートである。「身を切る姿勢」は泥沼の道 - dongfang99の日記 に引用されている愛媛新聞の社説には、思わず快哉を叫んだ。


http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201201247833.html

国会議員定数削減 民意を削る愚策は許されない


 野田佳彦首相が国会議員の定数削減に並々ならぬ意欲をみせている。持論の消費税引き上げの前提条件として、まず政治家が範を示そうとの腹づもりだ。公務員給与削減と合わせて「身を削る改革」の最優位と位置づけている。
 各種世論調査をみても「増税の前に無駄の削減を」と考える意見が大勢のようだ。首相の思い通りに事が運べば、世は増税やむなしの流れに傾くかもしれない。
 だが、ひとたび政治的な条件設定がなされると、それが達成されるか、されないかに興味が移ってしまう。そもそも定数削減は増税の前提としてふさわしいのかどうかを置き去りにしてはなるまい。
 民主党の案が解せない。衆院小選挙区定数の「0増5減」と、比例代表定数を80削減する案では、大政党有利が目に見えている。1票の格差是正に伴う微調整と国会の合理化を、ないまぜにした議論はあまりにも粗雑すぎる。
 落ち目の政権は必ずといっていいほど定数削減を口にするものだ。これほど合法的に政敵を退場させられる手だてはない。失職を恐れる現職は政権や党に擦り寄る。政権党に不利な制度改正にならないよう工作もできる。真の目的は政権の求心力の回復であって無駄削減ではない。野田政権とて例外ではなかろう。
 定数削減は主権者である国民の代表機関が小さくなることを意味する。代表が少ないほど為政者は楽になる。政治家が身を削るどころか、民意を削る危うさが潜んでいる。
 地方選出議員を減らすなら地方の自治権拡大の議論が伴ってしかるべきだ。しかし現政権には、そんな分権的視点さえも欠落している。
 民主主義の根幹にかかわる問題は、行政改革と同列で語るものではない。これまでも小欄は、人口当たりの国会議員数を国際比較すると、むしろ日本は少ない部類に入ると指摘し、慎重で丁寧な議論が欠かせないと訴えてきた。
 お金がないときは、お金を節約するのが道理だろう。国会議員の給与に当たる歳費は年間2100万円に上り、世界最高水準といわれる。数々の特権を温存したままで議員の数を減らしていけばどうなるか。民主主義の体を借りた少数者による独裁だ。
 本気で身を削るというならば、議員歳費や政党助成金の減額を優先するべきである。だが、岡田克也副総理が歳費や助成金の削減に言及したとたん、民主党輿石東幹事長はそれをきっぱり否定した。やはり覚悟のほどは疑わしいと言わざるを得ない。
 自らの代表を減らすという明らかな不利益を、国民が支持してしまうのはなぜか。国会議員の多くが無駄と思われている現状にこそ危機感を持たなくてはならない。


胸のすくような正論である。なお、社説末尾にある議員歳費や政党助成金政党交付金)の減額については、朝日も1月23日付社説*1で主張しており、その中で政党交付金について、

もともと企業・団体献金の弊害をなくそうとして税金を渡す制度にしたのだ。その禁止がいつまでもかけ声倒れである以上、削減されても文句は言えまい。

と書いている。この企業・団体献金の禁止こそ、民主党が2009年総選挙のマニフェストに掲げていながら小沢一郎が率先して破った公約である。


なお、前記『dongfang99の日記』の記事のタイトルに端的に表現されている「『身を切る姿勢』は泥沼の道」という主張は本当にその通りだと思うが、民主党の手前勝手な「比例定数80減」はさほど国民に支持されていないものの、公務員の人数や給与の削減は国民世論の圧倒的なマジョリティーになってしまっていることには絶望を感じる。記事の追記に書かれている、

90年代以来メディアの露出が頻繁で、少なからず現実の政治に大きな影響を与えてきたと思われる、功なり名なりを遂げてきた高齢世代のジャーナリストたちが、小沢一郎や鳩山元首相を「わかりやすい」と持ち上げてきた過去を何も反省することなく、民主党政権を一方的に批判し、「既得権」を歯切れよく攻撃するばかりの政治家を相変わらず持ち上げている

というのは、小泉純一郎の「郵政解散・総選挙」の頃から見られた現象であり、2005年には小泉、2009年には鳩山・小沢、2012年の現在は橋下を同じ一人の人物が持ち上げてきた例も見出されるのではないか。