kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

東京新聞の一面トップは「核燃サイクル 政府、慎重論無視し推進」。但し1991年の話。時の自民党幹事長は小沢一郎(笑)

東京新聞(2/10)の一面トップ記事は下記。自民党政権時代、1991年の話である。


http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012021090070722.html

核燃サイクル 政府、慎重論無視し推進


 使用済み核燃料を再処理して核兵器に転用可能なプルトニウムを取り出す核燃料サイクル計画をめぐり、通商産業省(現経済産業省)と旧科学技術庁(現文部科学省)の幹部らが一九九一年、日本の核武装に対する国際社会の懸念や、膨大な費用がかかることなどを理由に慎重な姿勢を示していた。本紙が入手した内部資料から分かった。 

 当時は九五年の高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)ナトリウム漏れ事故前。政府が核燃料サイクルの研究開発を推進していた時期に、原子力政策の担当者が異論や疑問を抱えていたことになり、計画の無責任ぶりが浮かび上がった。

 内部資料は原子力政策の重鎮で、科技庁原子力局長などを歴任した故・島村武久さんが八五〜九四年に開いた非公式の研究会議事録。当時、原子力に関わった政治家や現役官僚、経営者、学者らの証言を掲載している。文科省が二〇〇八年に編集し、一部の関係者に配布した。

 九一年夏の会合に出席した通産省資源エネルギー庁技術課長(当時)の谷口富裕さん(68)は、核燃サイクルを「全体的展望なり戦略に欠けていて、経済的に引き合わない」などと批判。米ソ冷戦の終結直後という当時の国際情勢下で、プルトニウムの大量保有につながる再処理は「最近、各国が日本に(兵器転用への)警戒心を高めている中、(計画自体が)うまくいくわけがないのでは、という心配をしている」と話した。

 九一年六月の会合では、講師役を務めた科技庁核燃料課長(当時)の坂田東一さん(63)は、核燃サイクルの方向性を議論した政府の原子力委員会の専門部会を「リサイクルありき」と指摘。「(核燃サイクルの是非は)一回議論しかかったが、そこまで行くと収束できない」と、問題があることを知りながら、推進に回った事実を証言した。

 一方、電力業界も九四年夏の会合で、旧日本原燃サービス(現日本原燃)の元社長豊田正敏さん(88)が「資源の乏しい国で(プルトニウムは)ぜひ使わなきゃいけないと言うが、一割二割のところしか節約できない」と、核燃サイクルの採算性を疑問視していた。

 現在、東京工業大特任教授の谷口さんは本紙の取材に「当時は計画の進め方が性急すぎた」とした上で「適切な時間軸と国際的な視点が足りない」と話した。


 <核燃料サイクル> 通常の軽水炉原発で燃やしたウランの使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、再利用する仕組み。政府、電力業界は「資源小国・日本の切り札」として期待するが、中核となる高速増殖炉は経済コストが高く、技術的な問題も多いことから主要先進国の米、英、仏、独は1990年代後半までに撤退している。福島第一原発事故を受け、日本でももんじゅを含めた核燃料サイクルの見直し論議が高まり、政府は今夏をめどに是非を判断する。


東京新聞 2012年2月10日 07時08分)


普通、通産省(現経産省)と科学技術庁(現文科省)、それに電力業界といえば、「原子力ムラ」の総本山とされるが、両省庁の幹部も電力業界も「慎重な姿勢」を見せていたのになぜ無謀な「核燃料サイクル」が推進されたのか。

浮かび上がるのが、「実は『政治主導』ではなかったか」という疑惑である。1991年といえば海部政権の頃で、時の自民党幹事長は小沢一郎。小沢は東京都知事選に敗れた責任などをとってこの年に幹事長職を辞したが、それにもかかわらず海部政権から宮沢政権に交代する際に悪名高い「小沢面接」を行なった。いわば小沢一郎が権力の「絶頂期」にあった年だ。

そして、この1991年に行なわれた青森県知事選は、まさに東京新聞が報じている「核燃サイクル」が選挙の争点となって、保守陣営が分裂選挙を行なった。この時小沢一郎は「核燃サイクル」推進派を推し、現地入りして地元の政財界人を締めあげて、下馬評では不利と見られていた「推進派」候補を逆転当選させてしまったのだった。

それを考えると、ますます「核燃サイクル推進は『政治主導』だったのではないか」という疑念が強まるのである。