kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ジョージ・オーウェル『一九八四年』を28年ぶりに再読

この本が話題になった1984年以来、28年ぶりに再読した。


一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)


28年前に読んだのは下記の旧訳だが、痛みがひどくなっていたので数年前に処分した。取っておけば新訳と比較できて良かったのにと思う。


1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)


私は読んだ小説のストーリーを覚えておくのが苦手なので、この小説の「二重思考」だの「ニュースピーク」だの「テレスクリーン」だの「ビッグブラザー」だのは覚えていたが、概略のあらすじは覚えていなかった。だが、再読してみて、かなり細部にわたって、初めて読んだ1984年当時に意表を突かれて印象に残った個所の記憶が甦った。細部の記憶は結構残っているのにあらすじをきれいさっぱり忘れていたとは不思議なものだ。

1984年当時にも予言的な小説だと思ったが、28年後の今日の方がよりリアリティを感じさせる。このあたりが傑作の傑作たるゆえん。なにしろ1984年にはインターネットもなかったし橋下徹もいなかった。橋下については、大阪府知事時代の2008年の下記の一件を挙げておく。


asahi.com(朝日新聞社):橋下知事、職員の仕事ぶり「隠し撮り」 国際児童文学館 - 橋下知事の日々

橋下知事、職員の仕事ぶり「隠し撮り」 国際児童文学館


 大阪府橋下徹知事は6日、府が財団法人に運営させている国際児童文学館吹田市)で、職員の働きぶりや展示の工夫などをチェックするためにビデオの隠し撮りをしていたことを報道陣に明らかにした。府の財政再建案には文学館の廃止が盛り込まれており、知事は「あれだけ(存廃を)大議論したのに努力の形跡が何も見られない。府議会が求めればビデオを見せたい」と語った。

 知事によると、私設秘書にビデオカメラを持たせて8月中の2日間、存廃の論議が進む複数の公の施設を「覆面リサーチ」したという。文学館以外にどこを調査したのかは明かさなかった。

 文学館のビデオを見た感想として、「マンガばかりが並んでいるから『マンガ図書館』に名前を変えるべきだ」「職員にやる気がない」と厳しく批判した。

 財政再建案では、09年度中に文学館を府立中央図書館(東大阪市)へ移転させ、財団法人の存廃についても結論を出す。知事はこの日に視察した中央図書館については「レイアウトなどを大変工夫している。やっぱり人が集まる施設でないと努力しない」と語り、文学館移転のメリットを改めて強調した。

朝日新聞デジタル 2008年9月6日19時44分)


ビックブラザー橋下知事が職員隠し撮り: 1984 blog


私自身も少し前に取り上げた。

きまぐれな日々 「思想統制」を始めた「2012年のビッグブラザー」橋下徹


橋下の件はこれくらいにする。

3部構成のこの小説を再読して印象に残ったのは、第2部の主人公ウィンストンとヒロイン・ジュリアとのラブストーリーと突如の暗転、そして暗い暗い第3部だった。突飛な連想かもしれないが、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』に構成が似てるな、と思ったのだった。1984年に読んだ時には『トリスタン』はまだ知らなかった。ネット検索をかけてみたが、同様の感想を記した例には出会わなかった。その代わり、作曲家でもあるらしい指揮者のロリン・マゼールが『1984年』をオペラ化していたらしいことを知った。但し、マゼールは2幕もののオペラにした。残念ながら評判はさんざんだったようだ。

トリスタンとイゾルデが逢瀬で死を語り合ったように、ウィンストンとジュリアは「ぼくたちはもう死んでいる」、「わたしたちはもう死んでいる」と語り合う。その時、「君たちはもう死んでいる」という声が響く*1。この科白は、既に第1部の前半で、「お前はすでに死んでいる」というウィンストンのモノローグとして提示されており*2、そのくだりを読んだ時、武論尊原作・原哲夫作画の劇画『北斗の拳』(1983〜88年)みたいだな、そういやあの漫画がブレイクしたのも1984年だったなと思ったのだったが、それがクライマックスで再現したのだからショッキングだった。『北斗の拳』の科白との偶然の類似はともかく、なかなか小説の作りとしてよくできているなと感心した。


小説には、こんなくだりも出てくる*3

われわれは精神を支配しているから、物質を支配しているのだ。現実は頭蓋の内部にある。君も徐々にわかってくるだろう、ウィンストン。われわれに出来ないことは何一つない。不可視にだってなれるし、空中浮遊もできる ― 何だって出来るのだ。やりたいと思えば、わたしはしゃぼん玉のようにこの床から浮かぶこともできる。


タイトルを『1995年』にしても通用しそうだな、と思った。小説のタイトル『1984年』は、単に書かれた年である1948年の下二桁の数字をひっくり返したものに過ぎないのである。

1995年どころか、橋下徹が熱狂的な支持を得たり、東電原発事故を経験してなお、原子力委員会が既に破綻が明らかな核燃サイクルの継続を画策して原発推進側だけを集めた秘密会合を開いたり、民自公がわずか4日の審議で原子力基本法に「安全保障目的」を書き加えたりする現在、2012年にこそ、オーウェルの『1984年』のディストピアはよりあからさまに現出している。

1984年に読んだ時にも予言的な作品だと思ったけれども、今回読んで感じたほどの生々しさを当時は感じなかった。今にして思うと日本の「1984年」は良い時代だったのかもしれない。その後の28年の歩みに愕然とする。


[追記]

書き上げてから気づいたのだが、この小説を再読して、もっとも今日的だと感じた部分を書き落としていた。それは、作中作であるエマニュエル・ゴールドスタインの著作「寡頭制集散主義の理論と実践」に開陳されている、「新自由主義論」とでもいうべき文章。これに関してはある程度時間をかけなければまとめられないので、稿を改めて書きたい。

*1:本書340頁

*2:本書46頁

*3:本書410頁