kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

狂信者に理性を説かれる(笑)

「小沢信者」の「風太」、末期症状を示す(呆) - kojitakenの日記 の続き。


きまぐれな日々 「橋下との連携」を待望する小沢一郎の「新党」に未来なし のコメント欄より「風太」のコメント*1

古寺さん、もっと理性的に政治をみつめましょう。
この国はその全体構造をみないと、部分部分だけを見てもそこに横たわる問題の本質は見えませんよ。
戦後60数年経って、やっとこの体制も綻びを見せ始め、霞が関と財界とマスコミの作り上げた偽りの世界の実態が見え始めてきているではありませんか。
そもそも私が指摘した小沢さんに関する一連の出来事をあなたはどう受け止めているのですか。
小沢さんが民主党代表に就任してからの一連の出来事は、どうみてもあまりにもみえみえのものであったはずです。
西松建設問題から始まって水谷建設問題と政治資金収支報告書の記述ズレと検察審査会への偽造調書。
そして政治とカネの問題による一連のたぶん世界でも例のない長期に渡るマスコミによるバッシングです。
どうしてここまで小沢さんは叩かれるのですか?
小沢さんがたとえ汚い政治家だとしても、そんな政治家はいままでも掃いて捨てるほど大勢いたはずです。
でも小沢さんは叩かれ続けている。
しかもあれだけ特捜部が調べ尽くしても何も出てこなかったのです。
それでも朝日などは社説を上げて小沢非難に終始している。
この異様さを異様さと受け止められないでいるかぎり、この国の異常な体制は見えてこないのですよ。


私はね、橋下市長を優れたリーダーなどと決して述べてはいませんよ。
橋下市長は野心みえみえの人物であり、国民受けする為に地方公務員を叩いているだけです。
もっとも大阪の公務員は本当に酷い連中が揃っていますからね。(苦笑)
だから彼のポーズは見事に大阪の市民の支持を受ける事には成功したわけです。
ただ私が国民の支援を受けたリーダーと述べたのは、形の上でとはいえ彼は一応は選挙で選ばれたリーダーであることには変わりが無いのです。
問題は選ばれたリーダー、それも人気のあるリーダーは体制にとっては危険この上ない存在だということです。
だから橋下市長が実態はどうあれ、また維新八策などで自分の危険性の無さをアピールしていても最後は引きずりおろされるのです。


そこんところを少し説明すれば、霞が関は権力集団ですがあくまで国民の選挙で選ばれているわけではありません。
ただ(事実上)自分たちで作った法により力を維持し続けているだけです。
だから国民の支持を受けた政治家が戦略をもって本気で変革をしようとすれば、霞が関の力の源泉である法改正をすれば変革は充分可能なのです。
だから彼らは人気のある政治家、戦略を持つ意思の強い政治家を警戒するのです。
たとえ橋下市長が街金の顧問弁護士上がりのタレントに過ぎなくてもなのです。


私が橋下市長とその周辺が狙われていると聞いたのはポストの記事からではありません。
ポストは別の記事は読みましたがその記事は読んでいません。
私は友人からの情報と、あとは雑誌「選択」の記事でそのように述べたのです。
ちなみに選択は明らかな反小沢路線です。(苦笑)
古寺さん思いこみは駄目ですよ、誤解の元ですから。
あとテレビと霞が関は敵対関係になど勿論ありません。
だったらどうして橋下をテレビ各局は持ちあげたのか、それは前にも申し上げたように小沢さんの体制変革のお株を奪う為ですよ。
そしてそのようになっているではありませんか。
この国の国民はテレビによってかなり誘導されてしまいますからね、だから小沢さんも橋下市長を否定など出来ないのです。
わかりますか?だって橋下市長は小沢さんと同じ体制変革者とイメージ付けられているのですからね、その部分を否定すれば自己否定です。


ついに小沢さんらは民主党の変節を受けて脱党したわけですね。
それに対しての朝日の社説が酷かった。
曰く実現も出来ないようなマニフェストを掲げておいて、それが実現できないゆえに増税路線に変更した野田総理を批判していると。
本当に笑えましたよ、これこそがこの日本という体制下でリベラルを演じてきた朝日の本性です。
あのマニフェストは予算の組み替えをしなければ実現は出来ませんよ。
それを全くさせないように小沢さんらを縛り付けておいて、それでよく言うわです。
まあマスコミも政治家もこの国ではただの役者に過ぎませんからね、当たり前と言ったら当たり前の対応でしょう。
こうして小沢さんらはせっかく作り上げた民主党を追われる事になるわけです。
そしてもはや小沢一郎の総理の芽は無くなりました。
だから危険な橋下市長も、今度は勘違いして暴走しないように一定の足かせを付けておく必要がある。
それが一連の国税の動きにつながるのです。


古寺さん、どうしてこんな簡単な構図もあなたには見えないのですか?
あなたはこの一連の動きを殆ど無視をして、ただなんでもかんでも小沢が悪いと結び付けているように見えます。
私が小沢さんに一定の評価をしてその行動に期待感を寄せるととたんに信者という決めつけ方をする。
古寺さんは影響力のある思慮深いブロガ―としてみていましたが、最近の古寺さんはまるで思考が停止したかのようにみえます。
私にはそれが理解できません。
別に裏情報など無くても、普通に国際関係の中における日本の置かれた立場や、その中での霞が関の動き。
そして小沢一郎という政治家により予定調和でしかなかった政治の世界の八百長もすべてみえてきたではありませんか。
もうこの国の問題点は明々白々ですよ。


にもかかわらずあなたはこの国にさじを投げてしまった。
それは古寺さんがこの国を動かしているのが国民の信託を受けた政治家だと思い込んでいるからだと思います。
本当に政治家が政治をしているのならば少しは理解できますが、そうではないのですよ。
この国は政治家が動かしているのではない!
もしそうならばなぜ鳩山総理の命令を霞が関の官僚達は無視したのですか。
いやそれどころかアメリカの高官に鳩山の言う事を聞くなと注進しているではありませんか。
この基地問題霞が関外務省などが中心に決めてしまったことです。
それをひっくり返されたくないからアメリカ相手ににこのような売国行為までするのですよ。
私がみるところ、この国ではアメリカや霞が関の逆鱗に触れるような事をしようとしている政治家はいてもすべて排除されてきました。
だからまずはその体制・仕組みを変えないとならないのです。
そして変える意思を持つ政治家を我々は推していかないとならないのですよ。
それが小沢さんで無くても、変革の意思と戦略を持ち国民主権を目指す政治家ならば私は誰でも支持します。
でもなかなかいないのが辛いところですが。
それだけ霞が関と財界とマスコミが作る体制の壁は高く厚く強靭なのです。
そして殆どの政治家はこの壁の前に怯むのです。
でもこれを越えて行かないとこの国の未来は無く、本当に諦めるしかありません。


古寺さん、あなたに最後に言う事は、あなたは例えば政治家の資質の批評はよくしますが、あなたにはこの国を良くする為の方法論が見えてこないのです。
ただ小沢が悪い、鳩山が悪い、野田が悪いでは何も先に進みませんよ。
昔の社会党共産党の様に、ただ野党を演じていれは済む時代ではないのです。
これからは我々国民も政治家を使う立場として、政治家もそして行政(霞が関)も司法もみていかないとならないのです。
そして時には組織されない抗議行動もして、そしてインチキを垂れ流すマスコミも拒否(解約)して、テレビもくだらないのは見ないで意思表示をしていく。
あなたに一番欠けている点は主役は我々国民であるという意識です。
それがないから古寺さんからは公僕である政治家を使うという視点がみえてこないのです。
いいですか、たとえ小沢さんがある点では考えが合わなくても、今は体制を変えるという点で使えると思うならば彼にやらせてみればいいのです。
まずは国民に選ばれた政治家が政治を行う体制の実現ですよ。
すでに決まっている政策を追認する役割だけの政治家など、国民の立場からすれば政治家でも何でもない無用の存在です。
そしてまともな民主政治が実現すれば、情報が国民に共有されるようになれば、この国は黙っていてもよくなります。
それこそ私が願う民主的な政治が実現すると思っています。


今はまだそれ以前の段階なのです。
まずは我々国民自身の意識改革です。
我々は民主主義の国の国民なのです。
主役は我々国民一人ひとりなのです。


長文失礼しました。


2012.07.10 01:07 風太


なんか狂人に諭されてしまったようだが、引用文中赤字ボールドにした部分は、腹を抱えて笑ってしまった。

最初の赤字ボールドの部分はさておき、あとの方の赤字ボールドの部分にはぶっ飛んだ。「小沢さんも橋下市長を否定など出来ない。だって橋下市長は小沢さんと同じ体制変革者とイメージ付けられているのですからね、その部分を否定すれば自己否定です。」というのは、キリスト教徒になぞらえれば、彼が「イエス・キリスト文鮮明麻原彰晃を否定できない。なぜなら、文や麻原は『救世主』とイメージづけられているから。イエスがそれを否定したら自己否定になる」と言っているようなものだ。

こんな主張は、さしもの「小沢信者」の中でも異端中の異端だろう。「風太」が異端審問にかけられやしないかと、他人事ながらつい心配してしまう(笑)。

それに、「風太」は「橋下市長は小沢さんと同じ体制変革者とイメージ付けられている」というのだが、「小沢一郎を体制変革者とイメージ付けしたのは誰?」と突っ込みたくなる。

史実を書いておくと、1993年の「政治改革」の局面で、それまでの「金竹小」の一角が突如として「改革者」と位置づけられた。そのあまりの激変に、私はあっけにとられたものだ。当時、テレビ朝日で『サンデープロジェクト』や『朝まで生テレビ』を司会していた田原総一朗が「政治改革=正義」とばかりに人々に刷り込みを行っていたのだった。

そう、小沢一郎を「改革者」に仕立て上げたのもまたマスメディアだったのだ。

ジョージ・オーウェルの『1984年』のディストピアにおいても、現代日本の右翼の「歴史修正主義者」たちにとっても、ともに過去は可変だが、「小沢信者」にとっても、1980年代末から1993年にかけてのマスメディアの報道の変化も「黒歴史」にされているに違いない。小沢一郎は生まれながらにして「体制変革者」だった。それが真実だ(笑)