kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

佐野眞一の「ハシシタ」の件だが、事実を不可視化する方が有害だ

佐野眞一が『週刊朝日』のスタッフとともに連載を開始した「ハシシタ 奴の正体」の件で、橋下徹が反撃に出た。


http://www.asahi.com/politics/update/1017/OSK201210170090.html

本社など取材、橋下氏が拒否 週刊朝日の連載めぐり


 橋下徹大阪市長は17日、朝日新聞出版が発行した「週刊朝日」10月26日号に掲載された橋下氏に関する連載記事「ハシシタ 奴の本性」の第1回について、「言論の自由は保障されるべきだが、一線を越えている」などと批判。そのうえで朝日新聞グループの見解が示されなければ、朝日新聞社朝日放送など関連メディアから記者会見などで質問されても、回答を拒否すると述べた。

 橋下氏は報道陣に対し、ノンフィクション作家の佐野眞一氏らが執筆した週刊朝日の記事について、橋下氏の家族関係の記述が中心テーマになっていると主張。「政策論争はせずに、僕のルーツを暴き出すことが目的とはっきり言明している。血脈主義ないしは身分制に通じる本当に極めて恐ろしい考え方だ」と非難した。

 朝日新聞出版は2008年4月に朝日新聞社から独立した別会社。

 朝日新聞出版の井手隆司管理部長は、橋下氏の発言を受けて「週刊朝日は、当社が発行する週刊誌であり、朝日新聞とは別媒体です。同誌を含め、当社の刊行物は当社が責任を持って独自に編集しています。今回の記事は、公人である橋下徹氏の人物像を描くのが目的です」とのコメントを出した。

朝日新聞デジタル 2012年10月17日20時22分)


この件で、佐野眞一と『週刊朝日』は「行き過ぎ」だ、とする意見を多く目にするが、私はそれには全く賛成しない。

昨年秋、大阪ダブル選挙の直前に『週刊文春』と『週刊新潮』の記事を立ち読みした時には、単なる差別的視点しか感じなかったので、私はこれらを批判した。しかし、今回は違う。佐野眞一の連載記事の第1回を読んで、私は納得させられた。私は佐野を支持する。

ところで、一昨日(16日)夜、それまで新聞広告も何も見ておらず、いきなり本屋で『週刊朝日』を見た時、記事のタイトルと著者名に驚いた。『週刊朝日』と佐野眞一と橋下という取り合わせがミスマッチで、えっ、佐野眞一が『週刊朝日』に橋下のノンフィクションを書くの? と思った。

私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、1993年の筒井康隆の「断筆」騒動である。あの時、朝日新聞本田雅和という記者は、先頭に立って筒井康隆の「てんかん患者に対する差別」を糾弾した。もちろん、『週刊朝日』を現在のような朝日新聞出版ではなく朝日新聞社が出していた頃から、『週刊朝日』は朝日新聞本体の「進歩的」(死語)とされていた路線に満足しない、保守的な層のニーズにこたえる週刊誌であって、朝日新聞とはずいぶん論調が違っていた。1980年に朝日新聞が「ソ連は脅威か」という連載をしていた頃、『週刊朝日』巻末のコラムで朝日新聞編集委員の故百目鬼恭三郎がこの連載を批判したことがあった。当時このコラムは「東」(東京出身)の百目鬼と、「西」(大阪出身)の故谷沢永一が交代で執筆し、「おきゃがれ あほかいな」という副題がついていたが、この東西の両論者とも相当に、というより激しく「右」に偏った文章を書いていたのだった。今でも、朝日新聞と『週刊朝日』の論調が全然違うことは常識だろう。

だから、今回橋下が週刊朝日朝日新聞出版)のみならず、朝日新聞本体と、あろうことかABC朝日放送の取材まで拒否する姿勢をとったことに関して、「朝日」とひとくくりに受け止める人が多いことに大いに違和感を持った。佐野眞一の新連載「ハシシタ」などは、むしろ「朝日新聞的良識」とは対極にあるアウトロー路線だとしか私には思えないのである。私に言わせればこの新連載はきわめて「反朝日」的である。

佐野眞一といえば『小泉純一郎 血脈の王朝』という本を2004年に文藝春秋から出しているが、だからといって小泉純一郎が月刊『文藝春秋』や『週刊文春』の取材を拒否したという話は聞いたことがない。また、橋下と似た出自を持つ野中広務魚住昭に月刊『現代』で出自についていろいろ書かれた時、野中が魚住にクレームをつけたことを魚住自身が書いていたが、だからといって野中が講談社の取材を拒否したという話も聞いたことがない。

今回の橋下のリアクションから連想したのは、70年代の部落解放同盟である。私は兵庫県で子供時代を送ったが、兵庫(他に広島もそうだったらしいが)の「同和教育」は明らかに行き過ぎだった。あれは、まだものの考え方の固まっていない小学生に対する洗脳にほかならなかった。それをうすうす感じたためか、私は「石川青年を返せ!」という「狭山事件」のビデオを見せられても、素直に納得はできなかった。また、当時部落解放同盟は、何かというと「差別表現」を見つけ出しては「つるし上げ」「言葉狩り」などを行った。この解放同盟の行き過ぎは、共産党から厳しい批判を受け、私にはそちらの方が正論と思われたが、その共産党系のライターたちにしても、ひところ『別冊宝島』として出た同和利権のムックにおける「狭山事件」の記述の中には、(今では無実であることが明らかになっていると佐野眞一も書いた)石川一雄氏に対する不当な差別を助長するような文章が見られた。だがそれも結局、差別表現を見つけては目くじらを立てて「つるし上げ」を行っていたかつての解放同盟が、もともとは同じ立場にいたはずの彼らに対する批判者(の一部)を、逆方向に行きすぎた「差別を助長する」側へと押しやったといえるのではないか。「つるし上げ」によって現実を不可視化した結果がこれだ。橋下が「取材拒否」を行って連載を封じてしまおうとしているのも、同じ効果をもたらすだけではないかと思う。

そもそも、今、橋下徹の出自が詳らかになることが原因で、橋下が人気を失って失脚することなどあり得ないだろう。橋下の出自をあげつらって悪口を言いそうな人間など、麻生太郎以外に私には思い浮かばない。橋下の出自を明らかにすることが差別を助長して、それを隠すことで差別をなくせるなどとは、ナンセンスもいいところだ。むしろ事実を隠して不可視化する方がよっぽど差別を助長して有害だとしか私には思えない。少なくともかつての解放同盟の愚挙を思い出すと、それ以外の結論にはたどり着けない。すべてを白日の下にさらす方がよほど差別をなくすことにつながるのではないか。たとえば私が「狭山事件」について納得できる説明に行き当たったのは、「同和教育」を受けてから38年経った今年になって、鎌田慧の『狭山事件の真実』を読んだ時だった。小学生の時に受けた狭山事件の「同和教育」ビデオは、この事件を敬遠したくなる気持ちを私に起こさせただけだったのである。

佐野眞一は、大学卒業後、一時ヤクザ資本系のタウン誌のライターをやっていたこともあり、そのせいか最近でも沖縄ヤクザを取材して興味深い記事を書いてきた人だ。外交官としてエリートコースをたどった(?)天木直人孫崎享とは全く違う。「ハシシタ 奴の正体」が部落差別を助長するものになる可能性は皆無だと私は信じるし、その記事によって橋下人気が息を吹き返すという想定にも、リアリティを感じない。

むしろ、小泉純一郎野中広務が全くやらなかった取材拒否という橋下の挙動の方が、よほど「橋下を頂点とする新たな階層構造」を作り出すリスクが大きいと思う。朝日新聞出版との関係が遠いABC朝日放送の取材まで拒否しようとは、常軌を逸している。つい数か月前、橋下が大阪市職員の「思想統制」を行おうとした事実を、われわれは忘れてはなるまい。そもそも、同じ「差別と闘ってきた」政治家といっても野中広務橋下徹は正反対のベクトルを持つと言って良い人間であって、差別のない社会を目指してきたであろう野中とは対照的に、橋下は、自らを差別してきた社会に対して復讐してやろうと考える人間である。

歴史には、ヒトラーという橋下とよく似た人間がドイツを破滅させた前例もある。橋下が大衆を扇動するメカニズムを明らかにするためにも佐野眞一と『週刊朝日』の仕事は必要だ。橋下の圧力になど屈することなく、連載を続けてほしいと強く願う。


[追記](2012.10.18 21:45)

記事を誤読している読者がいるようなのでお断りしておくが、私が「朝日新聞的良識」と書いたのはもちろん皮肉であり、「そんな朝日新聞的偽善などくそ食らえ」という意味だ。そうでなければ、私が「反朝日」的と評した佐野眞一と『週刊朝日』の記事を「支持する」はずがあるまい。そんなことも読み取れないのか。もちろん私は1993年に筒井康隆が起こした断筆騒動の時には筒井を支持し、「差別用語」批判(というより「言葉狩り」)を行った朝日新聞記者の本田雅和など支持しなかった>id:vanfem

それから、この記事のリリースは2012年10月18日午前2時54分だ。14時の記者会見で橋下が何を言おうが、そんなことは記事に反映されていないのは当然だ。そもそも、記事にタイムスタンプを表示してる。それくらい見てからコメントしろ>id:tennteke