kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

風太さん、来年の参院選は「日本未来の党」から立候補お願いね(笑)

このところ赤丸急上昇(死語)なのが、われらが風太(advance777)さんだ。

何を隠そう、数日前から私は、かの方が当ダイアリーにお寄せになるコメントは読んでいない。しかし、当ダイアリーの読者の方々が書かれる、風太さんに対する反論だけはしっかり読んでいる。

そして、こんなエントリも。


無垢なる者は - Living, Loving, Thinking, Again

(前略=風太さんのコメントなど)

かつて左翼において日本帝国主義が復活したのかどうかという論争があった。新左翼の主流派は日本帝国主義の復活・自立を主張し、毛沢東主義者や日本共産党は日本は米国による反殖民地的存在であると主張した。前者からは


日帝打倒!


というスローガンが導き出され、後者からは


反米愛国


というスローガンが導き出されたわけだ。


上のような(最近よく見かける)〈日本=米国の属国〉論を読みつつ思うことは、議論が数十年も逆戻りしちゃってるんじゃないかということだ。

〈日本=米国の属国〉論の倫理的な帰結はどうなのだろうか。〈日本=米国の属国〉論を使うことによって実に容易く〈無垢(innocent)な日本〉を構築することができる。何しろ日本に起こっている禍々しいことは全て(邪悪な)米国及び米国の手先たる邪悪な日本人(売国奴)のせいなのであり、売国奴ではない無垢な日本人たる〈私〉はそうした禍々しきことに対して責任はなく、無罪(innocent)である。ここには〈私〉の〈加害可能性〉、(意図するしないに拘わらず)〈私〉の存在や振る舞いが他者や世界を損ねてしまう可能性に対する自覚或いはそれに対する戦きが発生する余地はない。つまり親鸞が言う意味での「善人」ばかりうじゃうじゃいて、「悪人」はいないのだ。こうした〈私〉には否定性(限定)という契機がなく、そのため本来ならば〈私〉の輪郭も定まらない筈なのだが、だからこそ却って〈私〉を無垢(無罪)な犠牲者として構築し・輪郭づけるために、悪しきサディスティックな主人としての米国が追い求められることになる。つまり〈日本=米国の属国〉論は(その意図に反して?)〈私〉(日本)の米国に対する(主観的な)〈従属〉を強化してしまう。またそれは〈私〉(日本)を米国との(擬似的)鏡像関係に閉じ込めてしまうことだ。そこで抑圧されてしまうもの、それは米国以外の他者であり、日本をも米国をも超越している筈の世界であろう。一言で言えば、〈日本=米国の属国〉論は日本人たる〈私〉を人格的な未熟者に留めてしまう。何しろ〈私〉が大人になる一歩は鏡像関係を脱中心化して〈世界〉へと踏み出していくことだからだ。

こう考えてみると、〈日本=米国の属国〉論の人と歴史修正主義との親和性というのも納得できる話だ。無垢(innocent)な日本人たる〈私〉の過去も無罪(innocent)なものでなければならないということになるからだ。

自己イノセント化によって或る種のontological securityを確保したいという欲望は勿論現代日本人だけに限ったことではないだろう。以前ピーター・バーガーが(たしか『犠牲のピラミッド』で)「従属理論」が第三世界を如何に道徳的に堕落させたかということを論じていた。最初読んだときは、保守主義者の意地悪だと思っていたのだが、この議論はかなり普遍的な射程を持つものだったのだ。


上記の記事は、私の周囲で評判になっている。

一読して私が思い出したのは、戦後日本の総理大臣を「アメリカと勇敢に戦った政治家」と「アメリカに屈従した政治家」に二分して、前者に属すると筆者が主張する岸信介佐藤栄作鳩山由紀夫、(総理大臣経験者じゃないけど)小沢一郎らを持ち上げる孫崎享トンデモ本、否、歴史的名著を「小沢信者」たちが絶賛していることであって、この流れを遡れば反小泉純一郎論者たちが絶賛した関岡英之の『拒否できない日本』(文春新書, 2004年)があり、さらに遡れば某有名ブログ主も共感したという盛田昭夫石原慎太郎の『「NO」といえる日本』(光文社, 1989年)のブームに行き着くのではないか。

「〈日本=米国の属国〉論の人と歴史修正主義との親和性」といえば、関岡英之が『拒否できない日本』で持ち上げていた人物として思い出されるのが小林興起らの極右政治家であり、その小林が信奉しているのがほかならぬ石原慎太郎であって、石原こそ「歴史修正主義」の権化であることは言を俟たないだろう。

私は、風太(advance777)さんこそ来年の参院選日本未来の党が捲土重来を期して擁立すべき救国の人材(あるいは憂国の士)だと思っているのだが、風太(advance777)さんには上記記事に関するご高説を賜りたいものだと強く願う今日この頃である。