kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「小沢一郎 追い詰められた改革者」(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』より)

小沢一郎について、そろそろ一区切りつけておこうと思う。もっとも同じようなことを過去何度か書いたかもしれない。


あれほどネット界の一部で猛威を振るった「小沢信者」も衆院選惨敗という現実を目の当たりにしたあとはさっぱりで、リチャード・コシミズが「不正選挙」キャンペーンをやって「勝ち組」小沢信者がその尻馬に乗って騒ごうとしたものの、当然のことながら生活の党の森裕子に冷たくあしらわれてしまった。「身内」のはずの森裕子に拒絶された「勝ち組」の一部は、森裕子に対する恨み言をブログに書いたが、「小沢信者」仲間にさえ相手にされなかった。

今はもう「現実を直視しろ」と言って「勝ち組」と意見を異にしたごく少数の(「負け組」の)「小沢信者」が奮闘しているだけだ。そんな情勢だから、あの陰謀論系小沢信者のたまり場「阿修羅」掲示板でも、そのコメント欄を見ると、相も変わらぬ小沢一郎の狂信者と、かつて同じように小沢を狂信していながら期待を裏切られて怒り狂っている批判派の罵り合いが展開されている。

私自身としては、そういう有象無象の「小沢信者」もさることながら、2007年に安倍晋三が政権を投げ出した時、「水に落ちた犬は叩かない」とかなんとか言って安倍晋三の批判をぱったり止めて城内実の応援に専念し、「安倍晋三議員は城内実さんの『お師匠さん』なんかじゃない」とか「城内実さんは『9条護憲派』だ」などと妄言を連発して、ことに後者など当の城内実・現自民党衆議院議員にとっても迷惑この上ない話じゃなかったかと思うのだが、結局2009年の衆院選後しばらくして特定の政治家に肩入れする発言を全くしなくなったは良いが、かつて自らが発した狂いに狂った言葉の数々がその後明白になった事実によってことごとく否定されたにもかかわらず、それらを全く総括することなく現在に至っている。

句点なしで長々と特定の人物について書いたが、上記のような卑劣きわまりない人間の責任こそ強く問われるべきだと思うのだ。


さて小沢一郎については下記のような寸評がある。

「日本の政治評論家の多くは、小沢の時代はすでに終わったと考えている。だが、もし彼らの見方が正しいとしても、「小沢は、冷戦モデルからの脱皮にむけた日本の努力の新局面を切り拓く主要な役割を担った政治家として評価されるべきだ」。「彼は日本が直面する問題を明確に指摘しただけでなく、分裂を策して古巣の自民党と袂をわかち、三八年間に及んだ自民党支配を連立政権の樹立をもって打ち破った立役者」である。個人としての政治的将来はともかく、小沢は「日本を変革させるというアイデアをめぐる具体的な枠組みと流れを形成した人物として」評価されるべきだろう。」


上記は、『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号に掲載された「小沢一郎 追い詰められた改革者」(著者は『タイム』誌東京支局長のエドワード・W・デズモンド)からの引用だが(下記URL)、初出は『フォーリン・アフェアーズ』1995年11月号と明記されている。つまり自社さ政権の村山富市首相時代に書かれた記事である。
http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/200909/0909_1.htm


記事の最後に

※メディア、およびブロガーの方へ※
公開論文の放送、記事、ブログ等での引用については、「フォーリン・アフェアーズ・リポート●●年●月号の『<論文タイトル>』)によれば」、とクレジットを必ず入れてください。長文の引用については、全体の2割程度なら許容範囲です。この場合も間違いなくクレジットの明記をお願いいたします。

と書かれているので、以下上記リンク先の記事をつまみ食いして引用することにする。

 長期にわたって国会議員のポストにあり、政界の黒幕的存在である小沢一郎は、二年前に『日本改造計画』という本を出版したが、その主な目的は、世界でより大きな役割を果たすことへの日本側のためらいを払拭することにあった。当時、自民党の指導者の一人だった小沢は、ワシントンからの度重なる要請にもかかわらず、湾岸戦争で米国主導型の多国籍軍を現地で直接的に支援するのを頑なに拒否する日本政府の姿勢に苛立ちを感じていた。彼はこの対応ぶりを、日本の敗北――「決定を下さぬ政治」(politics of indecision)が支配的で、政治に明確な中枢が存在しないことによってもたらされた敗北――と呼んだ。日本の政治家たちが、指針や方向性を欠いた戦後システムを見直さないかぎり、この国もまた「富だけで国家を維持できるという信念を抱き、結局は衰退の道をたどった」古代カルタゴと同じ道をたどることになる、と小沢は指摘した。

(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号掲載「小沢一郎 追い詰められた改革者」より)

これが事実なのだが、2012年7月の「阿修羅」掲示板には、「湾岸戦争当時、小沢一郎自衛隊派遣に反対した」という事実と真逆のことをコメント欄に書いた「小沢信者」がいた(笑)

また、「決定を下さぬ政治」というのは、昨年来自民党朝日新聞を含むマスコミが民主党政権を批判するのに用いた文言である。彼らは、小沢一郎が20年前に愛用していた言葉を用いて自民党の政権奪還をもたらした。

 現在小沢は窮地に立たされているし、おそらくは彼は今後もずっと、窮地に立たされた改革者のままかもしれない。一九九一年の重い心臓発作は小沢の行動を依然として制約しているし、(旧)自民党のインサイダーを毛嫌いするマスコミが小沢を批判しつづけているため、彼の人気もいまや手痛い打撃を受けている。羽田政権の戦略立案を担った小沢だったが、九四年の六月に一連の戦略上のミスを犯して羽田政権は短命に終わり、結局は村山政権が誕生、小沢はその結果、初めて政治的主流からはずれ、野に下ることになる。彼は、決してまとまりがいいとはいえない元自民党議員で構成される新生党(その後、新進党)の統一を懸命に試みているが、議員の多くは復党を求める自民党側の申し出を前に動揺している。少なくともこの七月に実施された参議院選挙前まで――新進党が強力な集票力を見せつける以前――日本の政治評論家の大半は、小沢の時代はすでに終わったと考え、次の衆議院選挙でも自民党が勝利を収めるとみていた。

(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号掲載「小沢一郎 追い詰められた改革者」より)

1995年の参院選では自民党は伸びず、村山富市首相が属する社会党は壊滅的な惨敗を喫して新進党が躍進したのだが、今年の参院選においては、当時の社会党に相当する議席を蚕食される政党は、いうまでもなく2007年の参院選で大勝した民主党だろう。だがその議席を食うのは間違っても生活の党ではない。それは小沢一郎参院選での民主党との共闘を主張していることからも明らかであり、民主が持っている議席は自民と維新の怪の食い合いになる。

 日本の日刊紙、とくに、リベラルな立場をとる全国紙の『朝日新聞』は、先に指摘したようないきさつから小沢を深く疑っており、小沢の強固なリーダーシップの呼びかけの裏には、反動的でナショナリスティックな思惑が隠されているのではないかと疑っている。事実、『朝日新聞』のこうした懸念は、強固なリーダーシップに対する日本社会の懸念をある程度反映している部分がある。いまだに日本では、強固なリーダーシップを求める議論が起きれば、分散化した弱い権力こそが、一九三〇年代の行き過ぎを回避するための最善の策だという思考を逆に引き出してしまうのだ。  小沢のいうナショナリズムに曖昧な部分があるため、彼の主張は懸念をもってとらえられている。たとえば、彼に近い政治家たちは、日本の第二次世界大戦期の行動については、どちらかといえば公的に謝罪する姿勢をとっている。これに対して小沢は、補償問題については現実的な観点からの対応の必要性を強調するものの、先の大戦に関して道徳的な痛みを十分に感じているわけではない。昨年のインタビューで彼は次のように語っている。「(他のアジア諸国の)観点からみれば、日本は彼らを侵略したということになるだろうし、彼らがそう考えるのはむしろ自然だろう。正義とは、たとえ神がそうは考えなくても、多くの人がそれを正義と考える場合に使用される言葉だ。したがって、日本は正義の戦争を闘ったわけではない」と。

 こうして小沢は、友人たちの中の謝罪派とは一定の距離を置いている。アウトサイダーの目には、彼は明らかに「政治家」で、それもおそらくは、安定した国際秩序の枠内で国益を追求するビスマルク流の権謀術数的な政治家と映るだろう。小沢は、ブッシュ大統領が標榜した「新世界秩序」を肯定的にとらえ、日本が世界の安定のために、外交的、軍事的によりいっそうの役割を果たせるように、それを制約している憲法九条の伝統的解釈を放棄させたいと望んでいる。

(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号掲載「小沢一郎 追い詰められた改革者」より)

小沢は、「集団的自衛権の政府解釈を変更すべきか」という問いには、必ず「変更すべきだ」と答える。それはこの記事が書かれた1995年も昨年(2012年)の衆院選直前も同じで、一点のブレもない。

 他の自民党議員同様に、彼は選挙システムが問題の元凶だと考えた。中選挙区制で選挙が行なわれているために、社会党の当選者が多くなり、これによって、実際には多様な要素をもつ各保守勢力が、権力を維持するために(自民党のもとに)連合するという現象が起きる。一九五〇年代、小沢の父をはじめとする一部の自民党議員は、選挙制度小選挙区制に改正しようと試みたが、これが実現していれば、社会党議席は減少し、自民党が二つに割れていた可能性もあった。小沢の父とその支持者たちは、この二つの保守勢力が相互に権力を競い合い、一方で、米国に押しつけられた憲法の問題箇所の修正などの重要な問題をめぐって協調できるのではないかと考えたのだ。しかし、社会党はこれにうまく抵抗し、その結果、冷戦期を通じて自民党支配が続き、小沢がしたりげに指摘するように、非建設的な野党・社会党は、おおむね自民党の手のひらのなかで飼われることになる。

(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号掲載「小沢一郎 追い詰められた改革者」より)

要するに小沢一郎社会党を弱体化させるために小選挙区制を導入した。そしてその狙いは成功した。このような冷厳な事実があるにもかかわらず、小沢一郎の別働隊と化すという倒錯の極致のような迷走の結果消滅寸前に追い込まれている福島瑞穂党首率いる社民党は、自ら進んで自殺への道を歩む、それこそ絶滅が危惧される珍種と評する他はない。

 八八年、日本の公共事業市場を米国企業に開放させることを目的とした日米交渉を小沢は妥結に導いたが、以来、彼は米国の貿易交渉者にとって貴重な友人である。モトローラ社のビジネスを日本市場で立ち上げるのを助け、大幅な価格の引き下げを実現した携帯電話市場をめぐる昨年の合意の影の立役者もまた小沢だった。最近の自動車交渉にしても、(もし小沢が交渉していれば)次期自民党総裁の呼び声の高い橋本龍太郎通産大臣が行なったような、二国間関係を損ないかねないスタンドプレーはみせなかったはずだ。小沢なら、米国車の日本市場でのシェアを保証することを回避しつつも、米国との取り決めを目立たぬように妥結へと導く、地味な努力を重ねていただろう。  米国の重要な同盟者である小沢は、自民党の旧指導層のように米国のイニシアティブに対する盲目的な追随者ではなく、(問題があると感じた場合には)はっきりと物をいい、ときには批判さえする。もっとも小沢は、日米同盟の存在が、日本が他のアジア諸国に引き続き受け入れられるかどうかの鍵をにぎっていると見ているし、もっと最近では、しだいに愛国主義的となり、脅威となりつつある中国に備えるためにも、日本はカウンター・バランスとしての米国を必要としていると強調している。この意味で小沢は、前自民党議員の石原慎太郎が火付け役となり、保守派勢力の一部で支持されている「アジア・ファースト」(アジア重視)論には反対している。小沢は、日本はワシントンに対してアジアで力強い役割を担うように働きかける一方で、日本も、これまでよりも建設的で、なおかつ一定の距離をおいて批判もするという役割を担っていくべきだと考えている。いずれにせよ、今後日本は、米国のアジアからの撤退という将来のシナリオに備えて、安全保障面での自主路線を強化していくだろう。

 外交・防衛政策面で日本を「普通の」国家にしようとする小沢の試みに対して、自民党ハト派はこれを牽制しようとするだろう。自民党(前)総裁の河野洋平に代表されるハト派の指導者たちは、実務面での変化は受け入れるだろうが、憲法の再解釈、防衛予算の実質増、国連戦闘部隊への自衛隊のコミットメントなどに関しては一線を画す態度をとるだろう。こうしたハト派の立場は世論の支持を得ている。実際、日本の世論は、危険が迫っていても無視して行動を起こさないという戦後のエートスからの離脱となると、ひどく保守的になる傾向がある。

(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2009年9月号掲載「小沢一郎 追い詰められた改革者」より)

このあたりになると、1995年当時と現在では状況が全く異なる。「自民党ハト派」なるものが絶滅してしまったからだ。いまや世論の支持も極右政治家である日本の首相・安倍晋三にある。ただ、現在の安倍晋三政権のあり方は、1993年に終わった宮沢喜一政権などと比較して、はるかに小沢一郎の理想に近いと思われる。安倍晋三はTPPでアメリカに対して呆れるばかりの譲歩をしたようだが、それは二十余年前の日米構造協議における小沢一郎とて同じだった。