21日の秘密保護法反対デモ、全国で行われ、平日にもかかわらず多くの人たちが参加されたとのこと。私はこの日から昨日(22日)にかけてが今月の仕事のピークだったので参加できなかったが、参加された方々お疲れさまでした。惜しむらくはもっと早くから反対運動が盛り上がれば良かったものを。
これまで安倍晋三をずっと甘やかしてきた田原総一朗だの岸井成格だのが旗を振っての、自称「ジャーナリスト」、いやその話は今日はやめておこう。まだ疲れが残っている。ほぼ毎日ウェブ日記を更新する暇は持っている人間が書くのはいささかおこがましいけれども、勤労感謝の日に便乗して旅行と鉄道に関する娯楽ネタでお茶を濁しておく。
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奇しくも2013年の現在、1950年頃、そして1965年頃の鉄道の旅が描かれている3冊だった。内田百間(「間」は正しくは門構えに月)は、その前にちくま文庫版の『阿房列車』を読んだ。これには新潮文庫版でいうと『第一阿房列車』の全篇と同『第二阿房列車』からの2篇が収録されているが、『第三阿房列車』はちくま文庫版とは重ならない。
上記の3冊に共通して出てくるのが房総半島の旅。現在の『割引切符でめぐる...』は多くのコースのうちの1つという程度の扱いだが、内田百間は、当時存在した一等車を使って東京から九州や四国や山陰に行った大がかりな旅行記に混ざって、なぜか三等車を使って東京から千葉に出たあと、最初は総武本線と成田線で千葉−成東−銚子−成田−千葉、次いで内房線(百間が旅した当時の呼称は「房総西線」)と外房線(同「房総東線」)を用いて千葉−木更津−安房鴨川−大原−千葉という2つの楕円を描く「房総鼻眼鏡」の旅行記を書いており、全篇の中でも異彩を放っている。内田百間が弟子格の国鉄職員「ヒマラヤ山系」(平山三郎)氏とともに房総を旅したのは、今から60年前の1953年12月20日から23日にかけてだったらしい。なんとこれだけの旅に4日もかけている。それどころか当初の予定ではもう1泊するつもりだったが、最後の稲毛で旅館の接客の悪さに音を上げ、急遽宿泊をキャンセルして電車で東京に帰った百間は「電車は速い」と感心しているのである。当時の汽車がいかに遅かったかがうかがわれる。
それから十数年後、1965年から68年にかけて雑誌に連載された松本清張の推理小説『Dの複合』に、やはり東京から丹後の木津温泉、あるいは伯耆の三朝温泉への大がかりな旅に混ざって、なぜか館山への旅が出てくる。但し、こちらは旅行記ではなく完全なフィクション。
内田百間は岡山、松本清張は小倉と、ともに西日本から上京した2人の作家にとって、千葉とは「近くて遠い」存在ではなかったかと想像するが、実は私にとっても同じである。私は三朝温泉に泊まったことはないが*1、三朝温泉近辺には3度も行った。また、丹後の木津温泉には行ったことはないが、高松から瀬戸大橋線、山陽本線、播但線、山陰本線経由で、内田百間が
この辺りは、年代ははっきりしないが多分三十年ぐらい前*2に通ったことがある。その時、どこかのトンネルを出た途端に、偶然車窓から見た余部の鉄橋の恐ろしさが後後まで悪夢のように忘れられない。(『第三阿房列車』所収「菅田庵の狐 松江阿房列車」新潮文庫版131頁)
と書いた余部*3で途中下車し、さらに山陰線で鳥取に出たあと、因美線、津山線、瀬戸大橋線で高松に戻ったことがある。この時には帰りの因美線と津山線で内田百間の九州旅行記ばりの激しい雷雨に追われ、津山線で岡山到着を目前にしてついに落雷のために電車がストップしてしまい、JRが手配したタクシーで岡山に逃げ帰る経験もした。また、上郡から智頭急行経由で智頭に行き、やはり因美線と津山線で岡山に戻ったこともあった。あのあたりには旅情をかき立てるものがある。しかし、その後上京してから千葉に行ったことはほとんどない。今年は一度QVCマリンフィールド(千葉マリンスタジアム)に、千葉ロッテとヤクルトのプロ野球交流戦を見に行っただけである。
両作家の作品に刺激されて、たまには房総半島の列車旅でしてみたいものだと思った今日この頃なのであった。