kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

早乙女勝元『東京大空襲』(岩波新書)を読む

少し前に半藤一利の『隅田川の向う側 - 私の昭和史』(ちくま文庫)を読んで*1隅田川東岸の「江東ゼロメートル地帯」における東京大空襲のすさまじさに絶句したが、この東京大空襲をタイトルにした下記1971年発行の岩波新書の記述は、半藤本どころの騒ぎではなかった。一気に読み上げたが、激しい衝撃を受けた。著者の早乙女勝元氏は半藤一利氏より2歳年下の1932年生まれで、半藤氏と同じく向島区(現墨田区)に住んでいた。



その凄絶さは、とてもではないけれどもここにその内容を転記するのも気が滅入るほどだ。そこで、ネットで見つけたレビューの助けを借りることにする。


2012-06-15 - odd_hatchの読書ノート より。

(前略)東京大空襲は、いくつかの文献に書かれてきた(永井荷風断腸亭日乗」、堀田義衛「方丈記私記」、中島健蔵「昭和時代」など)。しかし全体状況は把握できなかった。上記のように被害者が口をつぐんだのもあるが、時の政府が調査を怠ったことにも原因がある(この本によると、ハンブルグ空襲など連合軍の空襲を経験したドイツは、すぐに大規模調査を行い、被害の総量と原因分析の膨大な資料を残したという)。

 著者は、江東区の住人で当時13歳。3月13日(ママ)からの空襲を経験した。この記録が残されていないことに憤りを感じて、東京大空襲の記録を集める活動を開始する。本書はたぶんその第一弾にあたる。係累をたどることで数十名の経験者に対談を申し入れたが、ほとんどの人に断られ、承諾した13人の証言を組み合わせて、3月10日の空襲の模様を再現する。

 作戦はこうだ。おとりの2機のB29を東京上空に飛ばし、なにもしないまま房総半島を通して退避させることで、警戒を緩める。その直後に300機とも400機ともいえる大編隊で侵入する。まず、円形に空爆し炎の壁を作り、閉じ込められた人の逃げ場をなくす。そして円の内部を風上から順次、爆弾を落としていく。多くの人は窒息死、圧迫死、二酸化炭素一酸化炭素の中毒、厳冬の川に逃げ込んだ末のショック死、溺死などを遂げる。たくさんの焼夷弾は人の体を炭化するほどの燃焼力を持っていた。この夜の死者は8万人にもなるという。本書には何枚かの写真が掲載されているが、それは当日および翌日にかけて撮影されたものだ。被害の大きさと悲惨さに目を背けたくなるが、見なければならない。

(『odd_hatchの読書ノート』2012年6月15日付エントリより)

時の日本国政府東京大空襲の被害状況をろくすっぽ調査しなかったとは驚くべき話だが、戦争当時の日本はそのような無能な指導者が無謀な戦争に突き進んだのである。


http://japanese.hix05.com/History/showa/showa028.saotome.html より。

(前略)3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、使者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

これは空襲をした当事者の調査結果だが、空襲を受けた当事者である日本国の政府は、被害の実態についてまともな調査を行っていない。これはハンブルグなどに深刻な空襲を受けたドイツ政府が、被害の実態について詳細な調査を行っていることと比べて、信じられないほどの無作為ぶりである。だいたい、政府は国民に対してこの空襲の被害の実態をまともに知らしていない。3月10日の正午に大本営がラヂオを通じて次のような発表をしただけだ。

「本3月10日零時過より2時40分の間B29約130機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
「右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省首馬寮は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり
「現在までに判明せる戦果次の如し
「撃墜15機 損害を与へたるもの約50機」

空襲の規模を過小に見積もり、ありもしない戦果を誇示する、その一方で宮内省のことばかりを心配し、膨大な数の被害者については歯牙にもかけない、日本政府のスタンスが文面から透けてみえるというものだ。

こんなわけだから、日本政府は、死んだ人には敬意を払わず、被害を受けた人々の救済にも無関心だった。そんなわけで、この空襲の事は戦後も公に触れられることは殆どなく、歴史の闇に埋もれようとしていたところを、早乙女さんたちが立ち上がって、記録の運動を繰り広げたというわけなのだ。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。

(『日本語と日本文化 壺齋閑話』〜「早乙女勝元東京大空襲』より)

「空襲の規模を過小に見積もり、ありもしない戦果を誇示する、その一方で宮内省のことばかりを心配し」とあるが、政府ばかりではなく戦争の旗を振っていた新聞も同じで、本には大空襲を報じる朝日新聞記事が引用されている。その見出しは「B29百三十機、昨暁帝都市街を盲爆、約五十機に損害、十五機を撃墜す」とあり、記事は「わが本土決戦への戦力の蓄積はかかる敵の空襲によつて阻止せらるものではなく、かへつて敵のこの暴挙に対し滅敵の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう」と結ばれていたという。

また引用文中で赤字ボールドにした、東京大空襲の責任者カーチス・ルメイに対して佐藤栄作政権が勲一等旭日大綬章を授与した件は、最初に引用した『odd_hatchの読書ノート』も記事の冒頭で触れている。以下再び引用する。

 サイパン島などを陥落したのち、アメリカ海軍は空爆の指揮官をルメイ将軍に変えた。その結果、軍事施設をピンポイントで狙う作戦が変更され、無差別爆撃になった。東京への昭和20年1月と2月のテスト空襲で十分な成果を得られると判断したため、3月10日、14日、4月13日、17日、5月23日、25日と大規模空襲を行った。東京の生産力は作戦開始前の50%以下になったと判断したので、目標はほかの都市に移った。そしてこの作戦を立案したルメイ将軍は昭和39年にこの国の政府から勲章をもらった(戦後、自衛隊の育成に貢献したという理由で)。

現在、再び戦争への道を驀進している安倍晋三だが、祖父・岸信介が閣僚を務めたこともある戦時中の日本政府*2はかくも無能であった。また、ジェノサイドとしかいいようがない東京大空襲の事実上の大戦犯であるカーチス・ルメイ勲一等旭日大綬章が授与されたのは、安倍晋三の大叔父・佐藤栄作が総理大臣になった直後の1964年12月であった。

このような岸信介佐藤栄作兄弟を「アメリカに敢然と立ち向かった『自主独立派』の政治家」として激賞するトンデモ本『戦後史の正体』を書き、小沢一郎の支持者(信者)たちに多大な影響を与えた孫崎享なる人間もいる。孫崎とは安倍晋三に批判的な人々を懐柔するための安倍晋三のスパイではないかと陰謀論の一つもかましたくなるほどである。

孫崎のトンデモ本なんかを読む暇があるなら、40年以上前に書かれたこの早乙女勝元著『東京大空襲』を読め。そう言いたくなる一冊である。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130923/1379906576

*2:岸信介は東条内閣の閣僚だった1944年に東条に造反して内閣を内部から崩壊させたが、そのことは岸信介を戦争責任から何ら免除するものではない。