kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

星野智幸氏の論考「『宗教国家』日本」(朝日)

今年は職場で政治に関する問題が話題に上ることがほとんどなかった。私の周囲に多いのは、民主党の「政権交代」を歓迎した人たちである。小沢一郎の支持者もいたが、昨年退職した。もっとも2010年の民主党代表選に敗れたあたりから小沢一郎から心が離れていったのか、小沢の話題を持ち出さなくなっていた。それはともかく、政治の話題が出なくなったのは、安倍政権の成立に意気消沈した人たちが多いからである。

しかし、これは平均的な日本人の姿ではない。かなり特異な集団である。前の職場ではそうではなかった。そこでも政治の話はほとんど出なかったが、ごくたまに口を開くと、保守的な思考がみてとれた。だが、当時は「政権交代」熱が高まっていた頃であり、その流れに抗するような発言が聞かれることはなかった。

今朝(12/25)の朝日新聞オピニオン面に掲載された、作家・星野智幸氏の寄稿「『宗教国家』日本」を読んだ。旧友に20年ぶり、30年ぶりに会った筆者の観察によると、かつて政治に無関心で政治の話など全くしなかった彼らが、今では声高に韓国を、そして中国を詰り、日本はもっと国防に力を入れろと言い、特攻隊や戦没者への感謝を口にするのだという。

筆者は、ナショナリズムは信奉者に「日本人である」というアイデンティティーを与えてくれると書いている。これから直ちに思い出されたのは、少し前にネットで見かけた、アイデンティティーが「国民」「市民」「人民」「日本人」である人たちは云々という笑い話である。アイデンティティーが「国民」であるのは中庸な人で、購読紙は読売新聞、「市民」であるのは「リベラル」というのかどうか、やや左寄りの人で、購読紙は朝日か毎日、「人民」であるのは左翼で、などなどと続き、アイデンティティーが「日本人」であるのはネトウヨで、購読紙は産経新聞であるというくだりで笑いをとるというものだったように記憶する。ネトウヨのサイトによく見られる「日の丸」アイコンへの言及もあったかもしれない。サイトのリンクを見つけることができなかったので記憶に頼って書いている。

その笑い話の対象だった人たちが、今や主流になってしまったのかもしれない。

筆者は「『日本人』信仰」と書き、記事のタイトルは「『宗教国家』日本」となっている。その種の集団に強く働く「同調圧力」について筆者は書く。

 今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけではなく、もっと巨大な単位で、「日本人であれ」と要求してくる。「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない。我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し孤立し攻撃のターゲットになり自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、その中に溶け込んで安心を得た方が、どれほど楽なことか。
朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)

この指摘自体は目新しいものではない。しかし、筆者が指摘した傾向が強まっていることは否定できないだろう。これはもちろん日本の国力、ことに経済力の退潮と密接に関わっている。以前、2004年に亡くなった経済学者の森嶋通夫氏が、前世紀末に書いた晩年の著書で、日本の国力の低下とともに、韓国や中国などの周辺国を敵視する人々が増えるであろうことを予測していたことを当日記で紹介したと思うが、森嶋氏が遺した予言がみごとに的中した形だ。

救いがないのは、安倍政権を批判する人たちの間にも、「同調圧力」の異常に強いサークルを作りたがる傾向があることだ。「小沢信者」の集団などその最たるものであり、その異常さは、国政選挙における日本未来の党だの生活の党だのの惨敗を、「不正選挙のせいだ」「集票マシン『ムサシ』(以下略)」などといった妄言で言い繕おうとする妄言・妄動からも明らかであろう。幸いにも彼らの「教団」は消滅寸前だが、「日本人」信仰は膨れ上がるばかりである。

星野智幸氏の寄稿の結びの部分を引用する。

 「日本人」信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティーだろう。

 もちろん、このように有権者が自ら主体を放棄した社会では、民主主義を維持するのは難しい。民主主義は、自分のことは自分で決定するという権利と責任を、原則とした制度だから。だが、進んで「日本人」信仰を求め、緩やかに洗脳されているこの社会は、その権利と責任の孤独に耐えられなくなりつつある。自由を失うという代償を払ってでも、信仰と洗脳がもたらす安心に浸っていたいのだ。それがたんなる依存症の中毒状態であることは、言うまでもない。みんなでいっせいに依存状態に陥っているために、自覚できないだけである。

 この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけでは不十分だ。それをどこかで求め受け入れてしまう、この社会一人ひとりのメンタリティーを転換する必要がある。難しくはない。まず、自分の中にある依存性を各々が見つめればよいだけだから。

朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)

正直言って、この最後のセンテンスには物足りなさが残る。一人一人が自分を見つめるだけではなお不十分である。集団に「同調圧力」が生じる場合、必ずそれを強めようと画策する人間がいるわけで、そういう不逞の輩と闘争し、それを打倒する必要があると思うのである。星野智幸氏が書くほど、ことは簡単ではないと私は思う。