kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

田原総一朗『原子力戦争』を読む

私が田原総一朗の名前を知ったのは、本屋でマスコミ関係の本を立ち読みするようになった1978年頃だった。当時田原はそれまで勤めていた東京12チャンネル(現テレビ東京)を辞めてからさほど間がなかった。当時の田原は比較的リベラルなスタンスをとっていた。その田原がブラウン管(死語)の権力者となっていくのは、昭和末期の1987年にテレビ朝日の『朝まで生テレビ!』の司会者を務めるようになってからである。1989年には同じテレ朝で『サンデープロジェクト』の司会も始めた。その権力の絶頂期は1993年前後の「政治改革」の頃であって、当時私は仕事が忙しくて平日はテレビも見る暇もほとんどなかったのだが、サンプロにおける「政治改革」の議論のある種「宗教的」ともいえる異様な熱気は覚えている。当時の宮澤喜一首相を辞任に追い込んだのも田原であった。田原自身、細川護煕政権が「『久米(宏)・田原政権』という呼び方までされた」と述懐している*1。この頃は小沢一郎の全盛期でもあったが、小沢がその「剛腕」によって導入した衆議院選挙の「小選挙区制」は、その後の日本の政治をダメにした元凶であった。

例によって小沢一郎の悪口に話がそれたが、『原子力戦争』は田原がメディアの権力者になる前、まだ東京12チャンネルのディレクターをやっていた頃に書いた本である。もっとも私はこの本が田原の退社につながったいきさつはおろか、本の存在自体、3年前の東日本大震災と東電福島第一原発事故が起きる前には知らなかった。この本は1976年に筑摩書房から出て、1981年に講談社文庫に入っていたのだが、ともに絶版になっていたのだった。東電原発事故後の2011年6月にちくま文庫に入ったことは知っていたが、私は基本的に田原総一朗が大嫌いなので今まで読まずにきた。ところが、今年1月4日に都心のさる本屋で、ふらふらと買ってしまったのだった。少し前にほぼ同時期(1979年)に書かれた堀江邦夫の『原発ジプシー』(講談社文庫版では『原発労働記』)を読んだ余勢だったのかもしれない。

余談だが、この本を買った翌日に、私が嫌悪して止まない「天敵」の一人である九州の某医者が書いている「人気ブログ」(残念ながら当日記の数倍のアクセス数がある)にこの本を取り上げた記事が載っていたことを、当記事を書くためのネット検索によって知った。奴にしては珍しくトンデモ記事ではなかったが、全くの無内容の記事だった。とはいえ、奴に後れを取るとは不覚であった。

さて、ようやくこの本の中身について書く。


原子力戦争 (ちくま文庫)

原子力戦争 (ちくま文庫)


まず書いておかないといけないのは、この本はフィクションの体裁をとっていることだ。それは原発問題に言及することが、長年マスコミ業界の「タブー」になっていたからだろう。どこまでが事実に基づいていて、どこからが全くの創作なのかは、読者の想像に任される。もっとも、実在の人物をモデルにした登場人物には、本名をもじったネーミングがなされている場合もあるので、容易に想像がつくものもあれば、全く読み取れないものもある。なにしろ40年近く前の本だから、想像がつかない方が圧倒的に多かった。

私は野次馬だから、ネットで『原子力戦争』のモデルになった人物についての謎解きをしている記事はないかと探したのだが、ほとんど見つからなかった。ただ、本書に「岩松忠男」として登場する人物が、東電原発事故後の2011年7月15日に亡くなった元双葉町長の岩本忠夫氏であることは容易に突き止められた。

一例として、本書がちくま文庫で再刊される少し前に書かれたブログ記事を紹介しておく。

「原子力戦争」あるいは、田原総一郎 | さすらいの「Angry old man」(2011年4月15日)

田原総一郎は、ドキュメンタリー映画を志す者たちの希望の星だった。
岩波映画を経て、東京12チャンネルのディレクター、劇映画の監督・・・・・、
彼は、一世代前の土本典明や小川伸介のような記録映画作家とは異なって、テレビというマスコミの中で、ドキュメンタリーの手法を使って自己表現をすることを確立したディレクターであった。

ドキュメンタリー映画を志す者、誰もが、いつかは田原総一郎のようにテレビの世界で、自己のアイデンティティを表現できるドキュメンタリーを作ることを目指した。

30年以上前のことである。

田原は、東京12チャンネルのディレクターでありながら、筑摩書房の月刊誌「展望」に原発をテーマにしたノンフィクションを連載していた。

題名は、「原子力戦争」。

或る時、「原子力戦争」の連載が中止となった。突然のことであった。田原は、ある雑誌のインタビューで当時の事情を、こう話している。「原子力戦争というテーマで月刊誌に連載して、この連載の記事で、原発のPRを担当している大手広告代理店を怒らせちゃってね。連載を辞めるか、会社を辞めるか、と迫られて、僕は会社を辞めた。」

大手広告代理店とは、電通のことなのか。

原子力戦争」を連載中、田原のもとに一通の内部告発文書が届いた。関西電力、の燃料棒折損事故についてである。告発文は、美浜1号炉で折損した燃料棒から燃料ペレットが原子炉容器内に飛散、秘密裏にこのペレットを回収し燃料棒を交換したというものであった。

当時、社会党の代議士だった石野久男は、この事故について国会で追求した。

通産省は、調査すると言って明言を避け、関西電力は「そな事実はない」と言って事故を隠し続けた。石野の執拗な追及を受け、3年以上もたって、ようやく通産省関西電力は事故の事実を認めた。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b080005.htm

当時から、電力会社の原発事故隠しは日常化されていのだ。

1976年、「原子力戦争」は、単行本として筑摩書房から出版される

内容は、原子力そのものの恐ろしさと、それにまつわる人間たちのエゴと欲をドキュメンタリー形式で書いた小説である。

テーマは、実際に起きた原発事故、関西電力美浜原発の燃料棒事故と東京電力福島原発の火災事故。原発推進派の政治家、官僚、電力会社、地元有力者と事実を追求する田原総一郎と思しきテレビ局のディレクター大槻との戦いが描かれている

田原は、「原子力戦争」の中で、原発の危険性を訴え、今回の事故を予測していた。また、綿密な取材をもとに利権や政治家、官僚、学者、電力会社との癒着なども鋭く暴いている。

この本の中に、双葉町原発反対派岩松忠男という男が出てくる。双葉町は、今回事故のあった福島第一原発がある町である。

定かでないが、岩松忠男は岩本忠夫がモデルだとも言われる。

岩本忠男は、元社会党県会議員。福島県原発王国の基礎を作った木村守江知事の方針に反対し、反原発の旗手として戦っていた男である。

岩本忠男は、県会議員に落選した後、双葉町の町長になる。そして、突然、原発推進派に転向した。

なぜ転向したのだろう・・・・、
金・・・、権力・・・・、
いずれにしても、悲しい話だ。

岩本忠男は、双葉町町長当時、あるPR誌にこんな事を書いていた。
双葉町は、原子力発電所との共生をしてきた。共生していくということだけではなくて、運命共同体という姿になっていると実は思っています。ですから、いかなる時 にも原子力には期待をしています。「大きな賭け」をしている、「間違ってはならない賭け」を、これからも続けていきたいと思っております。原子力発電は私の誇りです。」
と。

「Plutonium」原発関係のPR誌
http://www.cnfc.or.jp/pdf/Plutonium42J.pdf


岩本が言うように、正しく双葉町は、原子力発電所運命共同体であった。その結果、双葉町は、放射能汚染という危険極まりない事態に陥り、最悪な結果を迎えることとなった。

岩本の誇りは、地に落ちた。それどころか、双葉町の住民たちは、先祖代々から住んでいたこの地に、二度と留まる事が出来なくなってしまった。

東京電力をはじめとした電力各社、国家、学者は、原発は、「安全だ、安全だ」と言い続けてきた。しかし、安全ではなかった。

もともと安全は、嘘だったのだ。

なぜ、人は嘘をつくのだろう。嘘をついて得をする人がいるからだろうか。

福島県原発がある地域には、東電が作った地域情報連絡会議という組織があるという。この組織は、CIA並みのきびしい情報管理をおこなっていたと言われる。

東電のいう安全=無事故とは、「事故をなくすことではない。事故が起きてもそれを闇に葬り去って、外部に公表しないことだ。」と田原は「原子力戦争」の中で言う。

原子力戦争」を書いた当時の田原総一郎は、真実を追求する情熱とその取材力は称賛に値するものがあった。

しかしながら、「原子力戦争」は、テレビの討論会で、革新的で、真実を追求する如く見せながら、予定調和的に権力の望む方向に議論を導く今の田原総一郎からは全く想像もつかない本なのだ。

かつて、ドキュメンタリー映画を目指す者たちの星だった田原総一郎は、大きく変わってしまった。

なぜだろう・・・・、

原発は、人を死に至らしめるだけでなく、関わった人の良心までをも変えてしまう危険なものだからなのだろうか・・・。

1976年、「原子力戦争」は筑摩書房から出版された。その後、講談社から文庫化されたが、今では絶版となっている。

(『さすらいの「Angry old man」』2011年4月15日付エントリ「『原子力戦争』あるいは、田原総一郎」)

岩松忠男こと岩本忠夫の名前は、私も彼の生前から知っており、亡くなった時の訃報記事も覚えている。社会党所属の反原発派だったのがある時寝返り、原発推進派の双葉町長になった人だ。

Wikipediaを参照すると、

田原総一朗が1975年に発表した『原子力戦争』では双葉地方原発反対同盟とその代表の岩本を仮名にした「岩松忠男」が登場し、原子力発電推進派から金権選挙により県議選で落選させたことを誇らしげに語る場面が掲載され、最初は「私はその意味を寝返らせた」と誤解する場面がある*2。皮肉にも10年後、岩本は本当に寝返って町長として当選を果たすことになる。

とあるが、さらに皮肉なことに、著者の田原総一朗までもが寝返って、今では原発推進派として活躍しているのである。

なお、岩本忠夫に関しては下記記事が詳しい。

他にモデルと推測される人物として高木仁三郎がいる。本書に「高林登」として登場する人物のモデルは高木仁三郎ではないか。描写には高木仁三郎とは一致しない部分もあるが、そこはフィクションにするために変更したものであろう。実際、著者が本書の巻末に取材協力者としてあげている中に高木仁三郎の名前があるし、高木仁三郎が晩年に書いた『市民科学者として生きる』(岩波新書,1999)にも、田原総一朗の取材に協力したくだりが出てくる。


市民科学者として生きる (岩波新書)

市民科学者として生きる (岩波新書)


以下、『市民科学者として生きる』から引用する。

 そんななかで、(原子力資料情報室を)始めてすぐに印象的な出来事に遭遇した。一九七六年の春頃だったろうか。当時、東京12チャンネル(現在テレビ東京)のディレクターだった田原総一朗氏が訪れてきた。彼は当時雑誌「展望」に「原子力戦争」というドキュメンタリーな小説を連載していたが、その彼に届いた匿名の手紙を携えてきた。それは内部告発の手紙で、その内容は一九七三年初めに、関西電力美浜一号炉で大規模な燃料棒折損事故があった。それを関西電力三菱重工は、一部幹部社員だけを使って、まったく秘密裡に処理していた、というのである。

 事故の詳細は省くが、折損した部分から燃料ペレットが原子炉容器内に飛散し、ごく少数の人だけでペレットを回収し、また破損燃料棒を取り出した、というようなひどい事故の状況と事故隠しの実態が伝わってきた。事実なら原発の安全性の根幹に関わる大事件である。田原氏は、この問題を彼の連載が単行本として出版されるに際して、特別報告の形で取り上げようとし、その告発の信憑性について、私の意見をたずねて来たのである。

 私は商業原発の工学的側面について知らないことが多かったので、必死になって勉強した。そして当時事故が起こっていたことの傍証的なもの(不自然な燃料交換のパターンとか、美浜一号炉の排水による海草の汚染が告発の手紙にあった事故の後で上昇していることなど)を確かめることができたので、私も確信を持つことができ、田原氏にもそう説明した。彼は、同年七月に出版された『原子力戦争』(筑摩書房)の末尾に、この告発に基づいた推理のレポートを書き、この問題は、石野久男代議士(当時社会党)によって、国会で追及された。通産省は、“調査中”として逃げに終始し、関西電力は「そんな事実はない」として、徹底的な事実隠しをはかった。

 しかし、一九七六年一二月の総選挙で、不利が伝えられた石野氏が再選を果すと、通産省も自らこの事故の事実を認める発表をした。しかし、電気事業法に定める報告徴収の義務違反は時効が三年なので、発生から三年以上過ぎているこの事故(一九七三年三月の発生と考えられる)の秘匿に関して、関西電力はなんの法的な処罰も受けないというのだった。

 ほぼ最初から最後まで、この事件の顛末に付き合ったことで、私は多くを学んだ。その多くは驚きの連続で、思えば私が会社にいた頃は、隠蔽の体質はあったものの、商業原発など始まっておらず、呑気なものだった。関西電力三菱重工が一体となったきわめて組織的な事故隠しと、それを知りながらシラを切り通そうとする通産省、そして時効という狡猾な逃げ道。それらは、私の想像をはるかに越えた、悪らつな国民無視と安全感覚の欠如を浮き彫りにした。ほとんどの場合、私は怒りの感情で動くことはなかったが、この時は心からの憤りの気持を持った。

高木仁三郎『市民科学者として生きる』(岩波新書,1999)150-152頁)


また、『原子力戦争』には、かつての社会党の呆れるばかりのぶざまさも記録されている。

原発推進派のメーカーの技術系の登場人物が、主人公の大槻(田原総一朗自身がモデル)に見せた二通の書類。一通は経団連内の日ソ経済委員会発行の『原子力の問題点』という資料で、そこにはソ連原子力国家委員会第一副議長のイ・モロホフ博士が原発安全論をブチ上げているもの。そして、もう一通に関する部分を『原子力戦争』から引用する。

 もう一通は、モロホフ博士を団長とする原子力視察団が一九七四年一月に来日したときの、社会党議員たちとのやりとりのコピー。場所は東京プリンスホテル社会党側は三宅正一、石野久男の二代議士となっている。

 社会党「日本の原子炉の安全性については確信が持てない。ソ連では、都市の近くに原子力発電所があるというが、それは安全性に確信があるからなのか」
 モロホフ「そうした懸念がなければ科学者は改善の意欲を失うだろう。しかし科学技術の歴史をふり返ってみると、原子力ほど安全について慎重な配慮をされたものはない」

 この間、社会党側の日本の原子力開発についての批判的な発言に対して、モロホフ団長は、原子力は火力など在来のプラントに比べると百倍以上もクリーンであること、さらに、日本の原子炉は五重の防壁のさらに外側をコンクリートの格納容器でおおっているが、ソ連では、格納容器はなく、むき出しのままだと答えて、社会党議員たちを困惑させている。

 社会党「日本では安全性を理解するための資料が公開されていない」
 モロホフソ連では発電所の設計など資料は発表しない。それは一般国民には意味のないことである」
 社会党「資本主義社会の技術開発は独占資本のためのもので、ソ連のように全人民の所有物として、全人民のために建設しているのではない。原子力開発について社会主義国と独占資本主義国とを同一視するのは誤りである」
 モロホフ「われわれはいま、専門家、技術者として原子力の安全性について確信を持っているのであって、政治体制の違いについて話しているのではない」

田原総一朗原子力戦争』(ちくま文庫, 2011)139-140頁)

原発プラントの構造に関する著者の混乱した記述は措くとして、上記引用文の呆れ返るほかないソ連科学者のボスと日本社会党の政治家とのやりとりを読んでいると、チェルノブイリ原発事故(1986年)もソヴィエト連邦の崩壊(1991年)も、そして現在見る社会党(現社民党)の滅亡寸前の姿も、すべて歴史の必然だったことがよく理解できる。社会党は、原発にはっきり反対する姿勢を打ち出した日本で最初の政党であった。路線転換は1972年頃だったはずだ。引用文の石野久男氏は、『原子力戦争』の告発に基づいて政府(三木武夫政権)を追及した人でもある。そこまでは良かった。しかし、彼らは「社会主義国の核はきれいな核」という、当時の左翼がはまりがちだった陥穽にみごとにはまってしまった。つまり、原発の本質には肉薄できなかったのである。

もちろん、チェルノブイリ原発事故(やソ連社会党の崩壊)と同様、東電原発事故も起こるべくして起きた。現在の日本は、惰性(慣性)力で続く原発推進政策と、東電原発事故によって生じた新たな慣性力ともいえる「脱原発」を追求する流れとが拮抗するようになった。来月投開票される東京都知事選が、地方選でありながら「脱原発」が争点になるのは歴史的必然だろう。

ところで、『原子力戦争』に登場する市民科学者・高林登は、作中でこんなことを言っている。

「どうもたてまえだけで迫力のない原稿ばかりだな。それから見ると、この野郎っとカリカリするけど、イザヤ・ベンダサン山本七平渡部昇一なんて奴らの文章のほうがはるかに面白い。迫力があるし、本気だよな」

 校了間近の印刷所から高林登が電話でぼやいてきた。「なんていうか、奴らのほうが危機感がみなぎっているんだな」

 高林は八月号に原発特集を組んだのだが、「反対する筆者のほうがほんとうは原発の恐さを感じていないみたい」だという。

田原総一朗原子力戦争』(ちくま文庫,2011)203-204頁)

それから38年後、渡部昇一都知事選で田母神俊雄の応援団に名を連ねている。山本七平は1991年に死んだが、没後すぐに「山本七平賞」なるものが創設され、その受賞歴を誇る保守人士の孫崎享は、何を思ったか「リベラル・左派」の陣営、特に小沢一郎に近い人たちに入り込み、稀代のトンデモ本『戦後史の正体』を上梓して、岸信介佐藤栄作を「アメリカに敢然と立ち向かった『自主独立派』」と称賛し、頭の悪い「リベラル」たちをもののみごとに「洗脳」してしまった。孫崎は、元外務官僚であるにもかかわらず情報収拾能力は極めてお粗末で、今回も小沢一郎細川護煕を推すという情報をつかみ損なったとみえ、やむなく(?)宇都宮健児応援の旗を振っていたが、細川護煕出馬説が浮上すると慌てふためいて「『脱原発』候補の一本化」を言い出すていたらくである*3。ともかく、この程度の人間も含めて、渡部昇一山本七平の影響力は現在も健在である。それどころか何度も書くけれども問題作『原子力戦争』を書いた田原総一朗も、今やすっかり「向こう側」の人間になった。

さて、田原総一朗が事実をつかんで告発したのは関西電力の事故隠しだったが、本編の小説の方でもっぱら取り上げているのは「TCIA」の暗躍である。東京電力による反対派潰しの陰惨さには目を背けたくなるが、田原は「小説」形式にしていることもあって、結構思い切った描写をしている。そして、反対派潰しに暗躍したメーカーの技術者出身の人間を、通産官僚が追い落とすくだりに至っては背筋が凍るほどだ。

私がある東電OBの人から聞いたところによると、東電という会社は社員の思想信条のチェックがうるさいらしく、ちょっとでも社の方針に批判的なことを言おうものなら、「君は朝日新聞の読者かね」と言われたとのこと。私は若い頃大手メーカーに勤務していたのだが、独身寮で新聞を取っている者のうち朝日が占めるシェアは6割以上で、次いで日経が多く、読売や産経をとっている人間などほとんどいなかった。読売は2,3人、産経にいたっては確か1人だけであった。それを思い出して、東電というのはやはり異常な企業なんだなあと改めて思ったものである。

私は東電原発事故以前から原発に反対していたが、その理由は、一つは被曝労働の問題であり、もう一つは放射性廃棄物の問題であった(私もまた「安全神話」に絡め取られており、東電原発事故のような深刻な事故が起きようとは全く予想していなかった)。その被曝労働に関連する話だが、『原子力戦争』に、岩松忠男(前述のように故岩本忠夫元双葉町長がモデル)が東電の下請け企業の従業員夫婦に小頭児が生まれたという情報を得た話が出てくる。また、同じく東電の下請け従業員の白血病死の話も出てくる。従業員自らが線量計の数字を誤魔化して被曝の記録をなかったことにする話も出てくる。これらは、堀江邦夫の『原発ジプシー』でもおなじみの話であり、本が書かれたのも同時期である。私はこうした被曝労働の話を聞き知っていたから、以前から原発に反対していたのだった。

但し、昨年12月23日付記事*4にも書いたように、講談社文庫版の堀江邦夫『原発労働記』からは、東電福島第一原発で働いていた従業員夫婦に奇形児が生まれた、との作業員の噂話がカットされている。私は現代書館版と講談社文庫版を突き合わせたことがあるから知っているけれども、講談社文庫版しか読まない人は、それを知らないまま終わってしまう。だから原作の改変はやはり問題であり、原発という非人間的な「絶対悪」の延命に手を貸すだけの愚行であろう。


原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録


原発労働記 (講談社文庫)

原発労働記 (講談社文庫)


ちくま文庫版『原子力戦争』には、巻末に下記の但し書きがある。

*本書中に、今日から見ると差別的あるいは差別的ととられかねない表現があります。しかし本書の論理展開上、また歴史的背景を考慮し、表現の削除、訂正は行わず、原文どおりといたしました。

これが文庫本編集のあるべき姿であろう。かつては本屋で大きなスペースを占めていた「講談社文庫」が近年ふるわない一方、「ちくま文庫」には意欲的なラインアップが目立ち、私が後者を買い求める機会も多い。