kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

後世の評価に委ねるほかないが……

数日前にも書いたように、私はここ3,4年ほど耳の調子に問題があって、以前のようにはクラシック音楽を聴かなくなっているし、本当にヲタク的に音楽を聴いていたのは10年くらい前までであって、最近の話題にはとんと疎くなっている。だから正直言って知らなかったのだが、吉松隆氏という作曲家は、調性音楽を書く人らしい。もちろんそれが良いとも悪いとも私は言わない*1

佐村河内守」名義の新垣隆の音楽がその吉松氏の琴線に触れたのは事実らしい。


しつこくS氏騒動・交響曲編: 隠響堂日記 より。

あの「交響曲」も、数日前まで流布していた「耳の聞こえない天才が書いた奇跡のシンフォニー」という仰々しい表紙は抹消されたものの、この騒動の落としどころによっては数年後に「S/Nコンビの共同作業が生み出した日本初の本格的ロマン派シンフォニー」くらいの表紙でコンサートのレパートリーになってる可能性はゼロではないように思える。

それは後世の評価に委ねるほかない。コナン・ドイルシャーロック・ホームズ探偵譚のように、作者本人が本来書きたい作品ではなかったのに、人気を得て後世にも評価されている例はある。佐村河内名義の新垣隆交響曲も、本当に良いものであれば、「騒動の落としどころ」がどうあれ後世に残るだろう。また、残らなかった場合、それは「騒動の落としどころ」が悪かったせいではないと思う。もちろん「後世の評価」というのも年代によって変化するものだけれども。

もっとも現時点では、ほんの数日前まで「天才」として祭り上げた偶像を「ペテン師」まで蹴落とすことにみんな必死だ。実際、私も交響曲が売れ出してから以降の彼の「人間としての行動(暴走)」にはぶん殴ってやりたい衝動を覚える。折角生まれた可愛い作品をドブに捨てかねない結果を生み、彼の音楽をバックアップした多くの音楽家たちの善意を踏みにじったからだ。
(実は、CDが出る直前…推薦のコメントを録画すると言うときになって…担当者から「タイトルはHIROSHIMAになります」と言われて吃驚し「それはやめた方がいい」と進言したことがある。そして「作曲家同士で対談しよう」と申し込んだのだが、「彼はそういうことはしないそうです」とあっさり却下されてしまった。今になってみれば「そういうことか」と思い当たるが、あの時にぶん殴ってでも止めるべきだったか・凸(ーーメ

「あの時こうしておけば」という経験は誰にでもあることであって、有名作曲家といえど例外ではなかったということかもしれない。

しかし、一方作曲家としての目から見ると、彼の実像がいかがわしい卑小な男であればあるほど、そして共作者が気の弱い無力な人であればあるほど、この2人の間に生まれた「1時間以上にわたってなぜか人の耳を引きつけ、18万の人を虚構のロマン世界に誘い込んだ音楽」の誕生の秘密には(困ったことに)改めて「嫉妬」を覚えざるをえないのもまた事実なのである。

最後の文章が作曲家の真情であることは、ウェブ日記に日々下品な文章を書き連ねている私にも十分伝わってくるのだった。

*1:ショスタコーヴィチだって、もともとはソ連政府の強制による制約があったせいもあるだろうけれど、最晩年の交響曲第15番にも「イ長調」という主調がある。それどころかショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲は、第15番までしか完成できなかったけれど、24の調性で書く構想を作曲家は持っていたのではないかと想像している。