東京新聞(2/28)夕刊の1面トップはこの訃報記事だった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014022802000242.html
童謡「ぞうさん」などで知られ、戦後を代表する童謡詩人のまど・みちお(本名石田道雄=いしだ・みちお)さんが二十八日午前九時九分、老衰のため東京都稲城市の病院で死去した。百四歳。山口県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男石田京(たかし)氏。
小学生時代に台湾に渡った。台北工業学校土木科を卒業し、台湾総督府に勤務。児童誌に投稿した童謡が北原白秋に特選とされ、童謡を作り始めた。
応召してシンガポールで敗戦を迎え、復員後に上京。児童誌「チャイルドブック」の編集をしながら童謡や詩を発表。「ぞうさん」は團伊玖磨さんが曲を付け、一九五二年にラジオ放送されて人気に。
六八年、第一詩集「てんぷらぴりぴり」で野間児童文芸賞。「まど・みちお全詩集」(九二年)は九三年の芸術選奨文部大臣賞。九四年には日本人初の国際アンデルセン賞に。「やぎさんゆうびん」「一ねんせいになったら」「ふしぎなポケット」などの童謡を残した。
集大成といえる「まど・みちお全詩集」には、太平洋戦争時に書いた戦争協力詩二編も収め、そのあとがきをざんげに費やして自身の非力さを終始責めた。
◆「たったひとつの存在尊い」
童謡「ぞうさん」には、人間の子どもに対するメッセージが込められていた。「『鼻が長い』と言われればからかわれたと思うのが普通ですが、この子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴らしい。人の言うことに惑わされて、自分の肝心な部分を見失ってしまうのは残念です」
二〇〇九年、百歳を迎え新作詩集「のぼりくだりの…」などを出版し、創作意欲衰えぬまどさんを取材した。節くれ立った指、ほおに深く刻まれたしわ。入院先の談話室に車いすで現れたまどさんの、樹齢千年の巨木のような存在感に圧倒された。耳が遠く、認知症も進んだまどさんとのやりとりは、はた目にはかなりとんちんかんだったかもしれない。だが、その言葉はどれも私の想像をはるかに超え、ものごとの神髄を突いていた。
「世の中にいきるものはすべて、たったひとつの存在です。そのものが、そのものであるということ。それだけで、ありがたく、うれしく、尊いことです」
「池の水面をアメンボが動くと、アメンボの周りに輪が広がります。不思議だなあと思います。あんなに小さいものが、あんなに大きな水を動かすなんて」
「ぼくはタタミイワシを毎朝パクパク食べるのに、腕にとまった蚊はかわいそうで殺せない。矛盾だらけです。生きものの命を食べずに生きている生きものはいませんが、食べない生きものまで殺すのは人間だけです」
私は用意してきた質問を封印し、ひたすらまどさんの口から発せられる言霊をひと言も聞き漏らすまいと、耳をすました。
「生きていると必ず、毎日、新しく見つけるものがあります」。詩作への意欲は、年を重ねてますます旺盛になった。原動力は世の中への「不満」。「遠くのものにも、近くのものにも。政治家に、警察の人に、学校の先生に。金もうけ、いんちき。無学の私も言わずにおれない現状です。戦争もなくなりません」。百年生きて書くことがなくなるどころか、今だから書かねばという強い姿勢。もっともっと生きて書いてほしかった。 (井上圭子)
(東京新聞 2014年2月28日 夕刊)
高齢の詩人が亡くなった、と聞くと、戦争中はどういう詩を書いていたのかと反射的に思ってしまうが、まど・みちお氏は1992年に自己批判していた。
下記は、まど氏の「戦争詩」に関する朝日新聞の2010年の記事。
http://book.asahi.com/clip/TKY201011060180.html
まどさん 新たな戦争詩 1942年の作品、中島利郎教授が発見
〈この戦争は石に囓(かじ)りついても勝たねばならないのだよ〉――詩人まど・みちおさんの「戦争詩」が新たに見つかった。妻に語りかける形で、聖戦完遂をめざす高揚感を静かに歌いあげている。戦時下に戦意高揚のための作品を書いた詩人の大半が戦後、口を閉ざしたまま世を去ったなかで、かつて全詩集で2編の戦争詩を公表して謝罪したまどさんは、この16日で101歳になる。
この「妻」という詩は、1942年12月発行の月刊誌「台湾時報」に掲載された。当時33歳のまどさんは台北州庁に勤めながら、詩や童謡を書いていた。岐阜聖徳(しょうとく)学園大の中島利郎(としを)教授(台湾文学)が見つけ、同大外国語学部編『ポスト/コロニアルの諸相』(彩流社)で今春公表した。
「妻」は、夫の力強い語りかけと、妻の静かな反応で始まる。
この戦争は
石に囓りついても勝たねばならないのだよといへば
お前は しづかに
私のかほを見まもり
ふかい信頼のまなざしで
うなづきかへす
夫は、2人の間で日常かわされる〈でんぐ熱や 石鹸(せっけん)や 貯金や 姙娠(にんしん)や 近所附合(づきあい)やの話〉を打ち切れ、と言うつもりだったわけではない。その思いが妻に伝わり、詩はこう結ばれている。
お前はうなづきかへす―
夫婦よりも
夫婦よりも
更にたかい血のふるさとにおいての
ああ
味方を 味方を得たやうに
「妻」とセットの散文「近感雑記」で、まどさんは〈この國(くに)をあげてのたたかひのさ中の日本の子供たちに、あたらしいうたを、……際限なく注いでやらねばならない〉と主張した。さらに、〈小供(こども)たちを放つておいて、なんの皇民化であらうか〉と、台湾の子供たちの皇民化推進にも言及した。
中島さんは語る。「この戦争詩を公表したのは、決してまどさんを批判するためではありません。文学者の戦争責任は戦後、議論が十分に尽くされたとは到底言えません。最後の戦中文学者ともいえるまどさんがご存命のうちに公表すれば、この問題を考え直す最後の機会になると考えたのです」
92年に『まど・みちお全詩集』を出したとき、まどさんは「妻」と同時期の詩「朝」と「はるかな こだま」を収めた。後者の一節には〈今こそ君らも/君らの敵にむかえ/石にかじりついても/その敵をうちたおせ〉とある。
まどさんはこの2編を「戦争協力詩」と呼び、こう謝罪した。〈私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間です。……インチキぶりを世にさらすことで、私を恕(ゆる)して頂こうと考えました〉
全詩集を編んだ編集者の伊藤英治さんは、9月に東京都内で開かれた日本児童文学学会の例会で講演し、中島さんの呼びかけに真摯(しんし)に答えた。
「まどさんの業績に傷がつくから、中島さんの指摘は黙殺せよとの声もあった。私はむしろ感謝したい。責任は、全詩集ですべての戦争詩を集められなかった私にある。まどさんはもう巻きこみたくない。戦争詩がほかにないか、もう一度懸命に探す」。
会場からは「散文は高ぶって書いたとは思えず重たい事実だ」という発言があった。
■「弱い人間」以前謝罪
戦時中は三好達治や高村光太郎ら大半の詩人が戦争詩を書いた。メディアの責任もある。
萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を、朝日新聞の記者から〈強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず〉(丸山薫あて書簡)一晩で書いた。〈こんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生(うま)れて始めての事〉だったという。
戦争詩を書いた詩人のほとんどは戦後、作品を闇に葬り、口を閉ざした。書いた経緯を明かした詩人は高村光太郎や小野十三郎(とおざぶろう)、伊藤信吉らわずかで、まどさんほど強く自己批判した詩人はいない。鮎川信夫が半世紀前に指摘したように、問題は戦争詩を書いたか書かないかではなく、書いたことを隠したり弁解したりして反省がない点だった。
私が別の取材で96歳のまどさんに会ったとき、突然こう語り始めたことがある。
「私は臆病(おくびょう)な人間です。また戦争が起こったら、同じ失敗を繰り返す気がします。決して大きなことなど言えぬ、弱い人間なんだという目で、自分をいつも見ていたい」
命の尊さを表現する自分がなぜ戦争詩を書いたのか。100歳の詩人はおそらく今も後悔しつづけている。まどさんが危惧(きぐ)するような時代がもし再び訪れたとき、どうするのか。68年ぶりに日の目を見た戦争詩「妻」は、詩人に限らず、すべての表現者に、重い問いを投げかけている。(白石明彦)
(朝日新聞デジタル 2010年11月6日)
故人のご冥福お祈りする。