kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「ポール・クルーグマン『ピケティ・パニック』」(NYタイムズ)

ポール・クルーグマン「ピケティ・パニック」---格差問題の言及者に「マルクス主義」のレッテルを貼る保守派はこれにまっとうに対抗できるのか?(ポール・クルーグマン) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)(2014年5月19日)

The New York Times
ポール・クルーグマン「ピケティ・パニック」---格差問題の言及者に「マルクス主義」のレッテルを貼る保守派はこれにまっとうに対抗できるのか?


保守派が怯える『21世紀の資本論』

フランスの経済学者トマ・ピケティの近著『21世紀の資本論』は、正真正銘の一大現象だ。これまでもベストセラーになった経済書はあったが、ピケティ氏の貢献は他のベスセラーの経済書とは一線を画す、議論の根本を覆すような本格的なものと言える。そして保守派の人々は、すっかり怯えている。

そのため、アメリカン・エンタープライズ研究所のジェームス・ペトクーカスは「ナショナル・レビュー」誌の中で、ピケティ氏の理論をこのままにしておけば「学者の間に広がり、将来、すべての政策上の論争で繰り広げられる政治的な経済情勢を塗り替えることになる」ので論破しなければならないと警告している。

まあ、頑張ってやってみることだ。この論争に関して特筆すべきは、これまでのところ、右派の人々はピケティ氏の論文に対して実質的な反撃がまったくできていないという点だ。きちんと反撃するかわりに、反応はすべて中傷の類ばかりである。特にピケティ氏をはじめ、所得および富の格差を重要な問題と考える人に対しては、誰であれマルクス主義者のレッテルを貼る。

この中傷についてはあとでまた触れるとして、まず、彼の「資本論」がなぜそんなに大きなインパクトをもつかについて述べたい。

第一次世界大戦前の状況へ逆流する社会

格差が急速に広がっていることを指摘したのも、大半の国民所得の伸びが遅い状態とは対照的に上位の富裕層の所得が増大している実態を強調したのも、決してピケティ氏が初めての経済学者というわけではない。同僚とともにピケティ氏がわれわれの知識に多大な歴史的洞察を加え、いま、まさに「金ぴか時代」を生きているのだということを示したことは確かだ。しかし、かなり前からもうそのことは分かっていた。

ピケティ氏による「資本論」が真に新しいのは、その点ではない。巨大な富を稼ぎそれが当然とされる能力主義の世界に住んでいるのだとあくまで主張する、保守派神話のコアとなる部分を打破する手法こそが新しいのだ。

過去20年間、上位富裕層の所得の急増を政治の問題にしようという取り組みに対する保守派の反応には、2つの弁明が見られた。

1つは、実際ほど富裕層は豊かではなく、それ以外の人々もそれほどひどい状態ではないという、事実否認である。それがうまくいかなくなると、今度は、上位に見られる所得の急増は、彼らの仕事に対する報酬としては正当なものだと述べる。したがって、彼らを上位1パーセントや富裕層とは呼ばず「雇用の創出者」と呼ぶべきだという言い分だ。

しかし、彼らのような金持ちが、仕事ではなく所有する資産から所得の多くを生み出しているとしたら、どうしてそんな反論ができるのだろうか? しかもより多くの富を企業からではなく、相続からもたらされるようになっているとしたら、どうだろうか?

これらが根も葉もない質問ではないことをピケティ氏は示している。第一次世界大戦前の西欧社会は、実際に相続された富にもとづく一握りのグループによって支配されていた。そしてこの『21世紀の資本論』は私たちがふたたび同じような状況に向かっているという事実を、説得力をもって書き表している。

富の格差の言及者はみんなマルクス主義

それでは、富裕層に対する税率の引き上げを正当化するための診断として使われてしまいかねない、という恐れを抱く保守派の人々は、何をするだろうか?ピケティ氏を強力に論破するよう試みることも可能だが、今のところ、その兆候はまったく見られない。前述したように、その代わりに聞こえてくるのは中傷ばかりだ。

これは驚くことではない。私は20年以上にわたって格差の問題を論じてきたが、保守派の「専門家」が、これまで、自らの理論につまずかずに、これらの数字に対してうまく異議を唱えられた試しがない。どうしてか、まるで事実が根本的に彼らの側をサポートしていないかのようだ。

同時に、これまでの右派の標準的な作業手順は、自由市場ドグマのいかなる面で疑問を投げようとも、共産主義者呼ばわりをすることだった。ウィリアム・F. バックレイのような人々が、ケインズ経済理論の間違いを示さず、「集産主義者」と非難することによって阻止しようとした以来の伝統だ。

それにもかかわらず、ピケティ氏をマルクス主義者として非難する保守主義者の後が絶えないのには、やはり驚いてしまう。

比較して教養のあるペトクーカス氏ですら「資本論」を「ソフト・マルクス主義」と呼んでいる。そうなると、富の格差について言及しただけでマルクス主義者になるという以外、彼らの説は意味をなさないことになる(おそらく、そう思っているのだろう。最近、リック・サントラム上院議員共和党)は、アメリカには何しろ階級がないのだから、「中間層」というのは「マルクス主義的言葉」だとして非難した)。

累進課税スターリン時代の「悪」とみなす保守派

予想通り、ウォールストリート・ジャーナル紙の評論では、富の集中を制限する方法として累進課税を求めるピケティ氏の提唱から、なぜか突然スターリン主義の悪へと、とてつもない飛躍をした。ちなみに累進課税は、かつて主要な経済学者たちだけでなく、テディ・ルーズベルト共和党)を含む主流の政治家が提唱してきた、極めてアメリカ的な救済措置なのだ。

アメリカ寡頭政治の擁護者たちが、弁明のために首尾一貫した理論が得られないことに明らかに困惑しているからといって、彼らが政治的に逃走中というわけではない。それどころか、依然として金の力は大きい。実際にロバーツ・コート(※)のおかげもあり、その声は以前にも増して大きくなっている。

しかし、われわれが社会をどのように論じ、最終的に何をすべきかについてのアイデアが重要なことに変わりはない。そしてピケティ・パニックは、右派の人々のアイデアが尽き果てたことを現しているのだ。


(※)ジョージW.ブッシュ大統領の指名により2005年に任命された主席判事(最高裁長官に相当)ジョン・ロバーツが率いる2005年以降の合衆国最高裁判所

(翻訳:松村保孝)

累進課税スターリン時代の『悪』」なら、「無税国家」北朝鮮や「世界一格差の大きな」中国っていったい何?、と言いたくなるが、俗流経済右派エコノミストの言い分はアメリカも日本と変わらないようだ。日本でも数年前に新自由主義批判が強まった時期に、「草の根」のネット経済右派(ネトエコウヨ?)たちが、同様の、というよりさらに過激な言説を撒き散らしていたことが思い出される。もっとも、自民党安倍晋三)が政権をトリモロして以来、日本では新自由主義批判の声が弱まったので、ネット経済右派たちの「反批判」もそれに伴って目立たなくなったように思われる。日本で新自由主義批判が強まる数年前に、小泉純一郎が国会で「格差の何が悪いんですか」と啖呵を切ったことがあったが、その時代に逆戻りしたかのようだ。「脱原発」派をはじめとする「リベラル」の多くが小泉に尻尾を振るようになった今日この頃、ネット経済右派たちも張り合いがないことはなはだしいに違いない。

ところで、トマ・ピケティの『21世紀の資本論』の日本語版が出るのは2017年になるとの未確認情報がある。