一昨日(6/19)に予告した斎藤貴男批判を行う。
- 作者: 斎藤貴男
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2014/03/13
- メディア: 新書
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以下引用する。
こうして一冊まるごと安倍政権を批判しながら、筆者は安倍晋三という人物個人に対する、もしかしたら──あえて誤解を恐れずに表現すれば、そのメンタリティの少なくとも途中までは──共感にも近い複雑な感情を抱いてしまっていることを白状しなければならない。
この部分を読んで、私はカッとなって本を床に叩きつけたくなる衝動に駆られたのであった。というのは、私にとって安倍晋三は全的な拒絶の対象であり、安倍晋三という人間が初めて私の視野に入った時以来、この男に対しては嫌悪以外の感情を持ったことがなかったからである。例えば、安倍晋三が第1次内閣を投げ出して辞意を表明する際、涙目になっていたのを見た時にも、毫もこの男に同情せず、ただひたすら「ざまあみろ」としか思わなかった。
前にも書いたが、小泉純一郎や小沢一郎でさえ、ここまで私に全的な拒絶反応を起こさせることはない。安倍晋三と同程度に「全的な拒絶」の念を起こさせる政治家は、他に石原慎太郎と橋下徹しかいない*1。
しかし、斎藤貴男が上記のように書いたことは決して意外ではなかった。というのは、それに至るまでの部分でも、本を読んでいて、孫崎享を思い出させる論法が随所に見られたからだ。正直言って、本書を読んでいて、斎藤貴男がいつ孫崎に言及するかヒヤヒヤしていた。結局最後まで孫崎の名前は出てこなかったのだが、斎藤貴男の感性が孫崎に相通じるとは確かにいえると思う。
事実、斎藤貴男が安倍晋三に「複雑な感情を抱いてしまっていることを白状」したすぐあとの部分で、明神勲・北海道教育大名誉教授の吉田茂批判を引用し、次いで井上寿一・学習院大教授による麻生太郎(吉田茂の孫)と安倍晋三の比較論に言及する。井上教授によると、麻生太郎は「集団的自衛権の合憲化を否定し、憲法改正に消極的な姿勢を示」しているのだそうだ。ほんまかいなと思わせるが、少なくとも麻生太郎が安倍晋三(や安倍の先駆者たるかつての小沢一郎)のように集団的自衛権の政府解釈変更や改憲に猪突猛進しようとしなかったことは、2008年9月から1年足らずの麻生内閣の実績からも明らかだ。
斎藤貴男が吉田茂を忌み嫌うのは、明神名誉教授が言うところの「日本は二流の帝国主義であるということを自覚せよ」という吉田茂の思想信条にあるらしい。実際、吉田茂はその思想信条において岸信介と同程度に右翼反動的な政治家であったとは私も思う。しかし、吉田茂が岸信介より、さらには麻生太郎が安倍晋三よりそれぞれ辛うじてマシである/あったのは、自らの思想信条と現実に行う政治とを割り切って切り分けたところにあろうとも思うのである。一方、斎藤貴男や孫崎享にとっては「英米は一流国、日本は二流国」とする吉田茂の思想が「対米追従」として気に食わず、それが吉田茂よりも「英米と肩を並べる日本」を目指す岸信介(や安倍晋三)に親近感を抱く理由ではないか。
明神名誉教授の論考に、麻生太郎と安倍晋三とを比較した井上教授の論考を加え、これらを受けて、斎藤貴男はこう書く。
では井上氏の論考から三年半*2を経て、再び最高権力者の座に返り咲いた安倍首相の実践は、どう評価されるべきなのか。相変わらずの謳い文句や憲法改正への周年とは裏腹に、実質的には限りなく吉田氏の「二流の帝国主義論」に酷似してきてはいないか。
だとしても安倍首相の思想が必ずしも祖父譲りでないことの証明にはならない。もともとA級戦犯として逮捕された岸氏はGHQの意向で釈放され、首相の座にまで上り詰めて日米安保条約の改定を推進し、第三次吉田政権以降のいわゆる「逆コース」を確立させた立役者でもあった以上、専門家ならぬ身には彼を吉田氏と区別すること自体が難しい。
上記の引用文の前半だけ読むと、「だったら『一流の帝国主義論』だったら良いのかよ」と言いたくなる。実際、かつて岸信介が目指し、現在もアメリカに頭を押さえつけられながらも安倍晋三が本心では目指しているのが「一流の(大日本)帝国」であろう。
さすがに、著者もこれだけでは「誤解を招く」と思ったと見え、「(一流の帝国主義を目指した)岸信介も安倍晋三も、吉田茂と同じではないか」とばかりに前の段落を自ら部分的に否定している。しかし、それでもなお「だったら『一流の帝国主義論』だったら良いのかよ」という疑問に対する答えにはなっていないのである。少なくとも、岸信介を吉田茂と比較せずに岸信介その人として批判する視座は、これらの文章からは感じられない。
斎藤貴男が孫崎享のトンデモ本『戦後史の正体』を読んだかどうか私は知らないが、仮に読んでいなかったとしても、斎藤は孫崎のトンデモ本が作り出したある種の「空気」の悪影響を受けているのではないかと想像するのである。
これらの印象の悪い記述が続いたあと、本書の最後の方で小沢一郎の旧悪を暴いた箇所が出てくるが、それについては一昨日に書いた下記記事で言及した。このくだりがなければ、私は本書をもっとこっぴどく酷評したに違いない。
- 1999年、自自政権は「集団的自衛権行使容認」寸前まで行っていた - kojitakenの日記(2014年6月19日)
リベラル人士に人気の高い斎藤貴男が本記事に紹介したような文章を書いているようでは、安倍晋三の天下はまだまだ長く続くに違いないと長嘆息した。なぜって、「リベラル」の代表的論者とされるライターまでもがこんな論法に依拠している限り、日本が本当に「一流の帝国主義」を目指した時、日本国民はまたぞろ「挙国一致」しかねないと思ったからである。