kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

古関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書)を読む

昨日、下記の本を読み終えた。


平和憲法の深層 (ちくま新書)

平和憲法の深層 (ちくま新書)


この本は朝日新聞の記事でも時々書名が挙げられているのを見かける。著者の主張には一癖も二癖もあり、全面的に賛同できるとは言いかねず、違和感を持つ箇所もあるが、この本が面白いのは確かだ。特に宮沢俊義という、法学のアカデミズムの頂点とのイメージのある東大法学部教授の思想及び処世術に対する痛烈な批判(但し「右からの批判」ではなく「左からの批判」)は痛快だった。また、著者は「押しつけ憲法論」を明快に否定しているので、「押しつけ憲法論」に立つ孫崎享や矢部宏治にこの本の感想を聞きたいものだと思った。

今日も手抜きで、新自由主義者にして保守派である池田信夫(ノビー)とリベラル派の加藤哲郎の文章をそれぞれ引用する。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150430-00010007-agora-pol

問題は「押しつけ」ではない 『平和憲法の深層』 --- 池田 信夫

アゴ 4月30日(木)17時16分配信


平和憲法の深層 (ちくま新書)(http://goo.gl/NomCqx
古関 彰一
筑摩書房
★★★☆☆


憲法記念日が近づくと、毎年同じ論争が繰り返されるが、日本国憲法GHQの占領下で制定されたという意味で「押しつけ」だったことには疑問の余地がない。問題は、それが当時の日本国民の意に反する憲法だったのかということだ。

「押しつけ」論の論拠になっているのは、1946年2月に日本側の出した改正案(いわゆる松本案)がマッカーサーに一蹴され、彼の「3原則」をもとにしてGHQ民政局が1週間で憲法草案を書いたという経緯だが、このとき最大の焦点だったのは天皇の地位だった。

マッカーサー憲法制定を急いだのは、5月から始まる東京裁判昭和天皇の戦争責任を追及する声が強まっていたためだ。明治憲法に毛の生えたような改正案を出したら天皇の起訴もありうる、とマッカーサーは考え、そうなると「大騒乱が起こり、100万の軍隊を派遣する必要が生じるだろう」とアイゼンハワーに報告した。

第9条の平和主義には、日本側からも異論が出なかった。マッカーサーの3原則には「自己の安全を保持する戦争も放棄する」と明記されていた。日本側の中心となった宮沢俊義は国連を中心とする「平和国家」の理想を掲げ、吉田首相は「自衛戦争も放棄する」と国会で答弁した。いわゆる芦田修正論は、後になって考えたこじつけだ。

つまり押しつけられたのは象徴天皇制であり、第9条の平和主義ではなかったのだ。それは米ソが協調して日本やドイツを無力化してしまえば、もう世界大戦は起こらず、国連が国際紛争を調停するだろうという楽観論によるものだった。憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理想がうたい上げられている。

ところが憲法制定の直後から、冷戦が始まった。第9条の理想は、戦後わずか数年で崩れ去ったのだが、吉田茂は改正を拒否して日米同盟にただ乗りした。その後の自民党政権も改正できず、冷戦に対応できない「平和憲法」を変えられないまま冷戦が終わり、憲法は2周遅れになってしまった。

核兵器新興国にも拡散する一方、紛争の大部分はゲリラ戦やテロになり、民間軍事会社など「国家の交戦権」でコントロールできない紛争が増えた。これから憲法を改正するなら、こうした戦争の概念の変化を踏まえ、国連の警察機能の強化など主権国家の限界を超える改革が必要だろう。

本書は憲法制定の経緯については詳細に書いているが、時代遅れの平和憲法を美化する論調には賛成できない。


http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

◆2015.6.1 箱根の大涌谷が立入禁止のままで、鹿児島県の口永良部島ではマグマ水蒸気噴火、直後に小笠原沖大地震で全国に大きな揺れ、自然の悠久な営みの前では、今日の科学技術は無力です。そればかりではなく、故ウルリヒ・ベックの提示した「リスク社会」、近代の人類の営み、産業化によって新たに生みだされた危険・リスクの問題が重なっていることに、3・11フクシマ原発事故によって、小笠原沖大地震による交通網の大混乱、高層ビル上の足止め、エレベーター1万3千台の停止で、改めて気づかされます。自然災害への対処でさえ、リスクの増大は明らかなのに、自衛隊の海外派兵でも「リスクは変わらない」と言い張る首相や防衛大臣、戦争という最大のリスクへの国民総動員のための詭弁です。国会での「戦争法案」論議では、「戦後70年」の出発点であるポツダム宣言を「詳らかに読んだことはない」と公言する首相、野党の質問にヤジを飛ばす首相、「兵站」を「後方支援」といいかえ、「武器の使用」と「武力の行使」は違うと言い繕い、果ては「専守防衛」とは「海外派兵」を含むという日本語の混乱、オーウェル1984』のニュースピーク、「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」のオンパレードです。しかもこれは、言説・情報戦の枠内には留まりません。集団的自衛隊論議の発端となったのは、日本の自衛隊による「尖閣諸島」防衛を米軍が本当に一緒に守ってくれるのかという不安だったようです。しかし安倍内閣集団的自衛権閣議決定と新日米防衛ガイドラインを得た米国の方は、中国の南シナ海での岩礁埋め立てに対抗して、日本の自衛隊の関与の拡大を求めており、日本政府は応じる方向です。米中の軍事対立に早速日本が組み込まれ、日中戦争の悪夢につながりかねない状況です

◆ そんな国会議員の皆さんに、ぜひとも読んでもらいたいのは、古関彰一さんの新著『平和憲法の深層』(ちくま新書)。「敗戦」を「終戦」に、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えるだけでなく、日本国憲法制定時には、多くの新しい言葉と旧い言葉の意味転換がありました。古関さんは、そもそもなぜ日本国憲法が「平和憲法」と呼ばれるのかの原点を探求します。そして、第9条の「戦争の放棄」はGHQ起源で昭和天皇免責・象徴天皇制とのバーターでGHQ草案から入っていたが、「平和」の方は、日本政府案にもGHQ草案にもなく、第25条「生存権」と共に、国会での審議過程で日本側から挿入され、修正されたものであることを解き明かしていきます。第9条のもうひとつのバーターは沖縄で、沖縄米軍基地が永続化されることが、本土の「戦争放棄・戦力放棄」の裏側でした。その過程での鈴木安蔵憲法研究会案の役割、宮沢俊義ら東京帝大憲法研究委員会での議論、自衛権を認めたとする「芦田修正」の真相など、日本国憲法制定過程について綿密な検証が行われ、いわゆる「押しつけ憲法」論の誤りが、わかりやすく説かれています。これに、天皇側近のさまざまなマッカーサー工作や、GHQ内でのGS-G2関係などを重ねあわせれば、日本国民の関わった日本国憲法の画期性と、現国会で進行中の安全保障論議憲法討論の没歴史性・軽さが見えてきます。

(『加藤哲郎ネチズン・カレッジ』2015年6月1日)


私がもっとも面白いと思った宮沢俊義の思想と処世術に対する著者の批判は、紹介すると長くなるので、それはまたの機会があれば書きたいと思う。ここでは、自民党石破茂朝日新聞主筆若宮啓文をこき下ろした下記の文章を本から引用しておくにとどめる。

†芦田修正のいま

 この(芦田均の=引用者註)「自衛戦力合憲論」が、自衛隊合憲論の根拠規定になっているとよく誤解されるが、そうではなく自衛隊が創設された一九五四年に政府が行った解釈は、自衛隊憲法九条二項が禁じる「戦力」に該当せず、「必要最小限の実力」であり、従って自衛隊を合憲としているのである。なんとも「三百代言」だが、しかし長年にわたって則(のり)を超えられなかったのである。いまだに自衛隊は「実力」であり「戦力」ではない。

 こうした九条のもつ知的緊張関係は、長く間続いてきたように思っていたが、最近はそうでもなくボケボケのようである。

 民主党が政権につき、野(や)に下った自民党の「安全保障のスペシャリスト」石破茂防衛大臣は、民主党田中直紀防衛大臣に、「芦田修正の意味は?」と質し、答えられない田中に向かって、芦田修正とは自衛のための戦争を可能にし、自衛隊合憲の根拠になったのだ、と教え諭したという(「朝日新聞」二〇一二年二月三日付)。

スペシャリスト」とは、こんな程度の知識の持ち主かと思ってしまう。その数日後の読売新聞では、調査研究本部主任研究員の勝股秀通が「それは勘違いだ」と見事に反論している(「読売新聞」二〇一二年二月八日付)。一方、朝日新聞主筆は、石破見解をそのまま受け入れて、田中・石破の議論をこともあろうに「議論に耐えられぬ惨状」と論じた(「朝日新聞」二〇一二年二月五日付)。

 これぞなんとも、七〇年目の「平和国家の惨状」である。かの議会で政府の九条案を修正するよう「平和の理想」を唱えた芦田の姿など遠い世界に置き忘れ−−実際の「芦田修正」の事実も知らず−−自衛戦力合憲論を説く政治家・政治記者たち。これぞ平和憲法が音を立てて崩れゆく「惨状」なのだ。

(古関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書,2015)128-129頁)


ここで著者は「朝日新聞主筆」の実名を挙げていないが、記事の掲載時期から判断して、船橋洋一ではなく若宮啓文である。若宮は、同2012年の1月にも、かつて文春誌上に載った「グループ一九八四」なる保守派知識人の集団の主張に賛意を呈するなど、「リベラル」とされる新聞社の(船橋洋一のような保守派ではなく)「リベラル派」の主筆としてはあまりにもお粗末な点が多々あった。だから私は若宮氏に対して大いに不満を持ち、「世襲記者とはしょせんこの程度か」と軽侮の念を抱いていたのだった。その若宮啓文が、ここでも石破茂の応援団の役割を演じていたということだ。