kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

政治改革、石川真澄、そして小沢一郎

id:axfxzoさんは、私より一回りお若い方だったんですね。年上の方かと思ってました。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150613/1434154171#c1434217258

axfxzo 2015/06/14 02:40
オックスフォードから(選挙制度研究と日本政治を講義する仕事帰りという意味で)帰国した時、後輩記者たちから『守旧派』が帰ってきたと揶揄されたと、石川真澄さん、御本人から市ヶ谷キャンパスで聞いたのが、93年の9月のことだった。当時のあそこは、小選挙区制度の詐術を(息を吐くように嘘をつき、でありますな)撒き散らすマスコミから距離を置ける、知的な空間でもあった。
同じくこの制度に反対する金指さんも講座を持っていた(彼の講義は全学部生が取れたはず…私は単位抜きで真澄さんに会いに伺っていたが…)という、恵まれた環境にあった。一方で真澄さんいわく『福岡政行君を、影から操っているのが残念ながら、内田さんなんだけどねぇ』という、内田健三が、ゼミだけみたいな存在になっていたとも記憶する。
真澄さんは、よくソフトな語り口ながら怒っていた。特に、第八…などにも関わってくる羽田孜小沢一郎のパペット野郎)の『並立制こそ、選挙制度の極みである』という、おバカ丸出しの宣伝文句ぶりに対して…。
あの時代、紙面を大きく取ってコラムを書ける立場で、堂々と反対論陣を張り続けた記者は石川真澄さんくらいだった。
あの時代は、活字メディアしか頼るものがなかったので、PKO審議の時から飯代を節約してでも(笑)駅売り、コンビニで朝日(あの時代の朝日は、学ぶ記記事が多かった!)をはじめとする新聞を必ず複数購入して、ベタ記事に至るまで赤ペン点検していたものだった。だから長崎記者なんてものまで、脳裏に浮かんでしまうまで(笑)。
中学生時代から民意が正しく反映できる比例制度で問題なし。ただし、人が自由に選べない(拘束名簿式)ことに不満を抱いていた私だが、小沢一郎どものてめえ勝手な権力ゲームの産物とはいえ(不信任可決の時、NHKの中継で怒っていた鯨岡さんの気持ちはよーく、分かるけどね(笑))憎っき自民党が負けたことで、考えることに曇りが出ていたときの真澄さんによる『マスコミ論』レクチャーは、本当にありがたいものだった。
ドットの『連合政権考証』なんて本を紹介され、バイト先への通勤時間からコインランドリーに至るまで(笑)持っていて熟読していた学生時代をついつい思い出してしまった。
平成の大愚行という、東京新聞のあれは
確か佐藤さんではなかったか?
『イボガエルがイボが取れるといんちき薬を売るようなもんだ』と、庶民にも分かる例えまで用いて反対論陣を張り続けた…無論、イボガエルとは、小沢一郎その人である(笑)…國弘さんがよく、この話を紹介されていましたね。
因みに國弘さんは『選挙制度とは、ある意味で憲法なのである』という趣旨の指摘をされていた日仏会館関係者のフランス人憲法学者の話も、よく言われていましたな。
あれこれと駄文をかきちらしてしまったが、やはり、小沢一郎をどうしてリベラルなんてたち位置にありと主張する人々が支持できるのか?私には理解不可能ですな。
社民的なスタンスにも通じる『国民の生活が第一』なる路線変更をとったのも、小沢一郎らしいといえばらしいのだから。どの何とか…である。
小沢一郎の権力ゲームと、当時の小泉竹中路線への怒りとがマッチできたからの
、あの政権交代劇だっただけである。
その点では、小沢のあの価値観は、よほど前原何とかなどの民主党ボクチャン議員たちよりは、格上とは思う。ただ、だからといって小沢一郎をリベラルとか持ち上げるイワレ、ありますか?
やれ陸山会の騒動があ、とかネットの小沢一郎信者は文句を言うが、彼らには、
それはそれ、これはこれ!
歴史をよく点検してみろ!
と、冷や水をかけたくもなりますな。
ニッカンゲンダイにも、同じく!


1993年は私にとって人生最大の「躁状態」の年で、この年から翌94年にかけて、死ぬほど働いていました。文字通り「死ぬほど」であって、その後1995年に瀕死の大病を患いました。

なので、93年から94年にかけてはテレビのニュースもろくに見てなくて、購読していた(今もですが)朝日新聞と、日曜日にやっていた田原総一朗サンデープロジェクトが政治に関する主な情報源でした。その直前の佐川急便事件の頃に、朝日夕刊のコラム「素粒子」に「金竹小(コンチクショー)」の一人として叩きまくられていた小沢一郎が、いつの間に「改革の旗手」になってるのかと、目を白黒させていたものです。1993年の衆院選では野党(もちろん新生党ではない)に投票しましたが、変な小沢一派が伸びるよりは自民党が踏ん張ってくれた方が良いと思いながら開票速報を見た、つまり自民党の善戦を願った人生唯一の選挙でした。実際、自民党はわずか1議席しか減らさず、小沢らが旗を振った「政治改革」は有権者に必ずしも支持されていないことが選挙結果から明らかになりました。

私が石川真澄記者に注目したのは、福田赳夫内閣時代の1978年、私が高校生の頃です。選挙の得票のデータを根拠に論じるという、他の朝日の記者とは違ったスタイルの記事が斬新でした。以後、「(編集委員石川真澄)」とクレジットされた記事を愛読していたものです。

また、駅売りで買った新聞といえば、大学に入ってすぐの頃に大平正芳首相の訃報が掲載された新聞が思い出深いです。だから、6月12日という大平氏の命日を今も記憶しています。

政治改革の話に戻ると、ネットの「小沢信者」が「政治改革」の話をすることはほとんどありませんよね。

2010年末から翌11年の初め、つまり東日本大震災が起きる直前の菅政権時代に、当時ネットで付き合いのあったさる方とリアルで2回ほどお会いしてお話ししたのですが、彼ら「小沢信者」は小沢が20年前に何をやっていたかをおそらく何も知らないんだろうな、ということで意見が一致しました。小沢は「政治改革」に熱中する前には海部俊樹内閣時代に自民党幹事長を務めていましたが、その頃の小沢は手もつけられない右翼新自由主義者で、自民党内でも突出した「右派」の政治家でした。あの頃、小沢は自衛隊ペルシャ湾に送り出そうとあの手この手を繰り出したものです。ところが、最近「小沢信者」が彼らの巣窟である陰謀論掲示板に書いた文章を見て唖然としました。その人間は、なんと「小沢氏が自衛隊の海外派遣に抵抗した」などと、敵視的事実と正反対(当世風にいえば「真逆(まぎゃく)」)のことを書いていたのです。当人は自分の書いた文章が事実であると信じているのかもしれませんが、これぞ「歴史修正主義」そのものというほかありません。

結局小沢は、渋る海部俊樹を押し切って自衛隊の海外派遣を認める法案を国会に提出させたものの、法案は廃案となりました。小沢自身を含む右派勢力にとっては、そのことが「日本は金を出すが自衛隊を出さない」との国際的批判(というよりアメリカからの批判)を招いたとして、以後「集団的自衛権行使に関する政府解釈の変更」に血道を上げることになります。2012年の衆院選まで、小沢は衆院選の度に行われる毎日新聞えらぼーと」の集団的自衛権行使に関する設問に、毎回「政府解釈を変更すべきだ」と回答しています(2014年の衆院選の時の「えらぼーと」にはこの設問がありませんでした)。つまり集団的自衛権行使を容認すべきだとの小沢の信念は、今も変わっていないとみなさなければなりません。

そんな小沢であっても、前原誠司(や野田佳彦ら)よりはマシだと仰るのは、私もその通りだと思いますが、民主党政権というのは、小沢一郎菅直人という、互いに肌合いが全く合わず、また小沢や菅の単独ではたいした結果を出せない程度の2人の政治家が、互いに鼻をつまみながら協力し合って初めて、多少の成果を挙げる可能性があったかも知れないと思います。しかし、現実に起きたのは両者の全面対決であり、特に東日本大震災・東電原発事故の直後に小沢と鳩山由紀夫自民党を焚きつけてやらかした「菅政権不信任案提出騒ぎ」が民主党政権にとっては致命的でした。被災者そっちのけ。身内が何人も犠牲になった黄川田徹は、当時の小沢の態度に激怒して小沢から離れていきました。あんな馬鹿なことをやらかしておきながら、それでも「国民の生活が第一」というスローガンさえ掲げて菅や野田らを「抵抗勢力」に決めつければ国民は俺たちを支持してくれるはずだという「劣化版小泉カイカク」みたいな皮算用を弾いた小沢とは、なんと愚かな人間だったのでしょうか。小沢はそうやって自らの首を絞め、その後の大転落への道を自ら開いたと私は考えています。

そうそう、2012年の衆議院選挙で、東京新聞は「日本未来の党」を全力で応援しましたよね。あれが、長谷川幸洋の存在ともども、私が東京新聞を信用できない大きな理由の一つとなっています。