kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「立憲主義」あれこれ(1)

きまぐれな日々 「安保法案」議論、批判側には「知」も「情」も欠けている(2015年7月6日)の「拍手コメント」より。このコメントは、ブログ記事に「拍手」しなければ読めないので、読者の目に止まる機会はほとんどないと思われるが、興味深いコメントなので紹介する。コメント主は朱の盤さんで、2009年の民主党への政権交代の前からの「きまぐれな日々」の常連コメンターである。

朱の盤安倍晋三が「下から」反発している、というのはなかなかの卓見に思います。先日、若者が主催する安保反対集会に行ってみたのですが、その主張に安倍政権とのベクトルの違いはあれど、何か「安倍的なエモーショナル」を感じた違和感は、あるいはこれだったのかもしれません。「上から」押し付けられたくない、ということに終始している安倍と彼らは非常に近い、幼稚な政治を共有している。これを政治だと思っている彼らによって、日本の政治の幼稚化はこれからどんどん進むのでしょう。しかしそんな幼稚な彼らしか政治運動に積極的に関わらないし、そんな彼らが政治の主導権を握るのです。「反知性」とは現在、そしてこれからの日本の政治そのものである、と言えないでしょうか。…などと、評論で政治をした気分になってる人間が一番罪深いのでしょうね。自己嫌悪です。

「評論で政治をした気分になってる人間が一番罪深い」とはまさに私自身にドンピシャリ当てはまる言葉。耳が痛いです。

それはともかく、國分功一郎氏が國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか? - 國分功一郎|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト(2014年10月20日)に書いた、「安倍晋三が『下から』反発している」という指摘には、私も意表を突かれましたが、言われてみると納得できるものでした。上記ブログ記事本文にも書きましたが、なるほど、だから安倍晋三には何もネトウヨに限らない「草の根保守」の支持が根強くあるのかってことです。また、同じような「安倍晋三に対する『下からの』反発」だけでは安倍晋三を倒しきれないのかってことにもなります。

一方、國分氏への異論を唱えるのはコメント欄にコメントして下さった杉山真大さん。太字や赤字は元のコメントに準じる。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1398.html#comment18919

「上から目線」に就いての問題って、1990年代頃の「参加民主主義」のムーブメントに乗って出てきた感があると思いますね。官僚や政治家に任せたら業界と癒着する・専門家と称する者だって連中とつるんでいるとか批判されたりして(実際薬害エイズ事件とかそういう案件も現に起きていた訳ですが)、それで"さらば「お任せ民主主義」"とばかりに"目覚めた"市民が行動しよう・自分で出来ることは自分でやろうって風潮を生んだ訳です。しかも、それが所謂民営化とか"小さな政府"などのネオリベとも巧く適合したりして、"自己責任"とかが声高に言われたりもしましたし、更には"新しい公共"とかいうのまで出てきた訳ですよ(イギリス辺りだったら保守派の主張だったりするのに!)。

で、国分氏のお説を読んで思うことが二つあって、一つが以前のエントリで取り上げた水島朝穂早大教授の「直言」 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0603.html で、立憲主義を「上から目線」というか"お上"=権力を縛るものとして捉えるのに対し(国分氏の様な)権力に上から制限を課してくる仕組みとして捉える考えには意外性というか何か違和感を感じる部分があるって気もするんですよね。水島氏の立憲主義観を「法の支配」的なものとして見るなら、国分氏の立憲主義観って「法治主義」の発想から来ているって感じがするんですよ。国分氏は「これまであった〈上から〉の規制に対して、〈下から〉怨念をぶつけるように反発している感じ」って言ってますけど、そもそも安倍って"下"の人間なの?権力者で"お上"なんじゃないの?って疑問符が未だ以て拭えないんですよ。

あと、もう一つの点はこちらのtogetterでのまとめ http://togetter.com/li/826221 に詳しいんですけど、「上から押し付けるもの」以上に「下から湧き上がって来るもの」ってものの怖さってのにも通じる問題じゃないのか?ってことなんですよね。最初の点で国分氏の主張に対する疑問を呈しておいてこう言うのも何ですけど、戦時中からあった"草の根"の柵の暴力的な側面ってのは戦後70年の民主主義でも現行憲法でも何ら変わらなかったばかりか、それを懐かしんでは理想的の様に語る言説が幅を利かす様にも思えちゃうんですよね。所謂"リベラル"に「怒りの温度が低い」(ことに加えて「期待値が大きい」)ってことに関連して、昔の自民党は懐深くて何鱈と懐かしむ声が少なからざる"リベラル"からも出ていますけど、30年ほど前の中曽根政権の頃の自民党だって(いみじくも青木慧氏が一連の著作 http://amzn.to/1Iwri8O で実証的に指摘してますけど)体質的には殆ど変化も無く況や"草の根保守"をや、だと自分は考えますが。

2015.07.06 22:21 杉山真大


杉山さんが言われる「水島氏の立憲主義観を『法の支配』的なものとして見るなら、国分氏の立憲主義観って『法治主義』の発想から来ている」というのは、申し訳ありませんがよく理解できません。

法治主義」という言葉から私が直ちに連想するのは、「悪法も法なり」という、ソクラテスが語ったとされる言葉で(これは史実に反するらしい)、その理屈でたとえば現在国会で議論されている「安保法案」なんかが成立して「安保法制」になった時に、これに従わない奴は「法治主義」に反する、などと、それこそ「上から目線」でやりこめるあり方です。

高校生の頃に、政治経済の授業で「『悪法も法なり』という考え方は間違っている」として習ったのが、「法治主義」に対立する考え方としての「法の支配」でした。國分氏も上記リンク先の文章で下記のように書いています。

(前略)憲法学者の長谷部恭男先生が『憲法とは何か』(岩波新書)の中で立憲主義を、広い意味と狭い意味の二つで説明されています。

 広い意味では、立憲主義とは「法の支配 rule of law」である。つまり、誰かが支配するんじゃなくて、法が支配するということですね。この意味では立憲主義古代ギリシャにもあると言えます。

 他方、こちらの方が一般的な用法だと思いますが、狭い意味では、硬性の憲法典で権力に制限を課すという思想や仕組みを指しています。こちらの方は長谷部先生が『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)の中で分かりやすく説明されていますのでいくつか引用してみましょう。

 「民主的な手続きを通じてさえ犯すことのできない権利を硬性の憲法典で規定」しておく(62頁)。つまり民衆がどれほど望んだとしても、この権利だけは侵されませんということをあらかじめ憲法で規定しておく。(後略)


また、水島朝穂氏の文章を下記に引用しますが、國分功一郎氏の主張と特に対立関係にあるとは私には思われません。むしろ、水島氏の主張は、戦後の「左翼」の考え方とある種の緊張関係にあるように思われます。これは國分功一郎、長谷部恭男、さらには樋口洋一氏らにも共通することです。だから樋口氏や長谷部氏は憲法における「保守派」と言われるんだろうと私は思います(同じ「保守」でも、政治報道の文脈で語られる「保守」とは全く異なります。後者を「保守」というのは誤りで、「右翼」「極右」「反動」などと正しく呼ぶべきであり、たとえば「超保守」という呼び方にしても、あたかも彼らが「保守」に含まれるかのような誤解を与える点で問題が多いと考えています)。

前置きが長くなりましたが、以下に水島氏の文章を引用します。

直言(6.3) 『あたらしい憲法のはなし』からの卒業―立憲主義の定着に向けて(2)(2013年6月3日)

『あたらしい憲法のはなし』からの卒業―立憲主義の定着に向けて(2)              2013年6月3日

明日、6月4日は「天安門事件」24周年である。その約半年後に「ベルリンの壁」が崩壊する。ソ連ゴルバチョフ書記長(当時)は、「ブランデンブルク門天安門を繰り返すな」と、旧東ドイツ党指導部に圧力をかけたので、国境警備隊には武器の携帯が禁止された。そのことが、1989年11月9日木曜日の夜11時50分に「ベルリンの壁」が平和的に崩壊する要因となった。あれから世界は大きく変わった。「壁」崩壊後「4分の1世紀」については、11月にまた書くことにしよう。

 さて、「直言」ではこの間、「憲法96条先行改正」問題を何度も取り上げてきた。ここにきて微妙な変化も生まれている。「日本維新の会綱領」の冒頭にある、日本国憲法を罵倒する表現を借りれば、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」ているのは、安倍晋三橋下徹という二人の政治家だが、彼らが主張する「96条先行改正」の主張は、このところトーンダウンした感がある。

 しかし、油断は禁物である。安倍首相には「私の任期のうちに憲法改正を」という異様な思い入れと思い込みがあり、祖父(岸信介元首相)と叔父(佐藤栄作元首相)ができなかった改憲をやって「新しい時代を切り開きたい」というパワフルな思い違いをしたまま、参院選に突入してくる可能性はまだある。「まず96条から」という壮大なる勘違いに、しばらく付き合わねばならない。「アベノミクス」なる「催眠政治」の賞味期限もそろそろ切れるし、TPPをめぐる公約違反(総選挙で当選した自民党衆院議員のうち205人がTPP反対だった!)も、交渉の実態が明らかになるにつれてボデイブローのように効いてくると思うので、今後3カ月が一番危ない。限られた政治的寿命のなかで、「何でもいいから、憲法改正の実績を作りたい」と盲進するおそれがある。

 この日本政治史上、最も危険な「壊憲の鉄砲玉」をいかに止めるか。一研究者として微力ながら、この間、全国をまわって、「護憲か、改憲か」ではなく、「立憲か、壊憲か」を軸に訴えてきた。5月3日前後は、札幌、岡山、水戸の3都市を48時間で講演したほか、18日の盛岡講演では、東北6県から集まった「9条の会」の人々に講演し、討論にも参加した。

 参加者すべてが「護憲派」だったので、議論が活発になることを願って、あえて挑発的な問題提起をいくつか仕掛けてみた。その一つが、「戦後日本に立憲主義が定着しなかった要因の一つは、『あたらしい憲法のはなし』に過度に依拠する憲法教育が行われたからではないか」という論点である。これを口にすると、会場は一瞬凍りついた。

 討論のなかで、定年まで高校教師をやったという人から、「立憲主義はそんなに立派なものですか」という質問が出された。中世から存在するという意味では「たかが立憲主義」であるが、「96条先行改正」論に対する最も効果的な批判の軸になっているという点では、「されど立憲主義」である。「憲法三原則」だけで生徒に憲法を説明してきた人たちに、「憲法三原則」にとどまらず、その前提にある大切な原理(立憲主義)の説明がこれからは必要だと述べておいた。

 ところで、『あたらしい憲法のはなし』は1947年8月2日、文部省により、中学校1年生の社会科用副読本として発刊された。新憲法のやさしい解説書として、一般にも広く普及した。だが、1950年に朝鮮戦争が始まると、文部省はこれを使うことをやめた。その後、教員組合や市民団体などがこれを使った学習を続けてきた。憲法教育の教材と言えば、まず『あたらしい憲法のはなし』が推薦されてきた。「今もなお、護憲派のバイブル的存在」、あるいは「平和問題を考える上での『バイブル』」といった評価がネット上にも見られる。

 本文に11枚のイラストが使われ、そのうち、平和主義のところでは、兵器を平和転換させる「戦争放棄」のイラストがよく知られている。私自身、アフガニスタンから届いた武器を文具に変える「アシアナ」の玩具を紹介するとき、これを背景に掲げたことがある。

 イラストだけでなく、「六 戦争の放棄」のところは、戦争放棄と戦力不保持の意味や、「国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないときめたのです」という「武力による威嚇」の放棄がわかりやすく説明されている。このあたりはすぐれた記述だと私も思う。

 だが、最初から最後まで通読してみると、果してこれが「今もなお」憲法教育に有効かというと、私はかなり疑問を持っている。高校時代に初めて読んだ時、この本の語り口に漠然とした違和感を抱いた。それが何だったのか、当時はよくわからなかった。

 この間、「96条先行改正」問題で全国をまわって、いろいろな人たちから、「憲法が権力者を縛るものだということがよくわかりました」という感想を聞くことが多い。ラジオやテレビに出演して語っても、一番多いのはそういう声である。憲法学では自明中の自明の立憲主義の考え方について、この国では、憲法施行66年にもなるのに、十分に普及していなかったという事実を思い知った。

 その原因なり背景には、『あたらしい憲法のはなし』を過大評価し、長らく「護憲のバイブル」として扱ってきたこともあるのではないか。そもそも「バイブル」という表現がいただけない。

 憲法施行直後に作られた以上、人々の意識面で、まだ戦前の発想を引きずっている面があることも否めない。特に天皇についてはそうである。「私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が、天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう」という表現はその典型である。

 まだある。「内閣総理大臣は、国会の議員の中から、国会がきめて、天皇陛下に申しあげ、天皇陛下がこれをお命じになることになっています」。ここでは、憲法6条1項の国事行為が形式的・儀礼的行為ではなく、実質的な意味で語られている。

 「内閣は、…天皇陛下が国の仕事をなされるときには、これに意見を申し上げ、また、御同意を申します」とあり、天皇の国事行為が「国の仕事」と意訳され、それに対する内閣の「助言」と「承認」(憲法3条)の説明にも、内閣が天皇を「輔弼」するにすぎなかった戦前的な香りが漂う。衆議院の解散についても同様。7条3号について、「衆議院の考えが国民の考えを正しくあらわしていないと内閣が考えたときなどには、内閣は、国民の意見を知るため、いつでも天皇陛下に申しあげて、衆議院の選挙のやりなおしをしていただくことができます。これが衆議院の『解散』というのです」と書かれている。69条(衆院の解散、内閣の総辞職)も、「〔内閣〕不信任決議がきまったときは、内閣は天皇陛下に申しあげ、十日以内に衆議院を解散していただき、選挙のやり直しをして、国民にうったえてきめてもらうか、または辞職するかどちらかになります」と、天皇を軸にした説明の仕方になっている。「天皇陛下に申し上げて」「選挙のやりなおしをしていただく」「解散していただき」という下りを読んだ子どもは、天皇に実質的な解散権があるかのように思うだろう。

 実は、この『あたらしい憲法のはなし』で最も問題なのは、憲法が権力を制限するものだという立憲主義の視点がきわめて弱い点にある。この小冊子では、「憲法を守ってゆく」という表現が随所に出てくる。その主体は国だったり、国民だったりする。明示的あるいは黙示的に国民を主語にしたところが5箇所ある。例えば、「私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました」「みなさんは、国民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません」等々。これを読んだ生徒は、憲法は「私たちが守ってゆく大切な国のきまり」という理解に落ちつくだろう。

 この他にも、「守る」という表現は様々に使われている。国際条約を「まごころから守ってゆく」とあるし、人権を「守る」ということから、自由権の記述が薄い。「国家からの自由」(国家に対する自由)という面が理解しづらくなっている。国家機関に対しても、「みなさんは、私たち国民は、国会を、自分の代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません」と、「信頼」と「尊敬」が前面に出て、それをチェックするという視点はない。なお、国家に対する人権の尊重原則は立憲主義にも含まれるが、国民主権ないし民主主義原則は立憲主義と緊張関係に立つことも、この小冊子からはまったく見えてこない。

 結びの言葉は、「みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の国がさかえるようにしてゆこうではありませんか」である。こうして、憲法は「私たちみんなが守るもの」と刷り込まれていく。実際、中学・高校でそのように先生に教えられてきたと語る大学生も少なくない。

 フジテレビのノンフィックス「第96条−国民的憲法合宿」に、慶應大学小林節教授と出演したが、参加した6人の市民は護憲3、改憲3と意見は真っ二つに分かれたけれど、6人とも、憲法が権力者を制限するものだと知らなかった。

戦後、日本平和委員会の復刻版が1972年11月3日に発刊された。それには、長谷川正安氏(名古屋大学名誉教授)の「解説」が付いている。きわめて政治的な解説で、日本国憲法とそれをめぐる状況の外在的な批判はあるものの、立憲主義についての理解を助ける叙述は皆無である。それもそのはずで、長谷川氏はマルクス主義憲法学の代表格で、立憲主義に対して当然批判的である。日本国憲法も階級支配の道具であり、その「民主的・平和的条項」は擁護の対象となるが、将来の「民主的権力」が自衛措置を行う際には、9条2項は改正の対象となるという理解である。いかなる権力も憲法に縛られるという発想をとらない以上、「解説」に立憲主義という言葉が出てこないのはある意味で当然だろう。

 こういう政治的な復刻版が普及する一方、2001年には、童話屋から普通の文庫版が復刊された。末尾には編集部の言葉としてこうある。「本書の一部には、現行の制度とは異なる表記や、現在では不適当と思える表現があるが、終戦直後に執筆されたもので、当時の文部省のあり方を知る上で資料的な意味があるとの判断から、そのままとした」と。

『あたらしい憲法のはなし』の限界を最もよく示す記述は、普通選挙の説明の下りにある。「気がくるった人まで選挙権をもつというわけではありませんが…」。現代ではあり得ない表記であるだけでない。先週5月27日、改正公職選挙法参議院で可決・成立して、精神疾患や知的障害で成年後見人を付けた人にも、選挙権が回復することになった。7月の参議院選挙から13万6000人が一票を投じることができるようになる。

 この66年前の小冊子に過度に依存し、「護憲のバイブル」のような扱いを続けることはもうやめるべきである。『あたらしい憲法のはなし』からの卒業である。尾崎豊『卒業』(1985年)の一節に「仕組まれた自由にだれも気づかずに この支配からの卒業」というのがあるが、言葉を借りれば、「憲法は国民が守るきまり」という思考の「支配からの卒業」である。卒業のあとにくるのは「立憲主義」という思考でなければならない。

なお、6月14日、「96条の会」のシンポジウムが上智大学で開かれる。また、今週6月8日発売の雑誌『世界』(岩波書店)7月号には、前述の小林節教授と私の対談が収録されている。

《付記》
藤井康博氏(静岡大教育学部准教授)によれば、中学校の社会科・公民の検定教科書を見たところ、10年以上前とは異なり近年の5社(教育出版、 清水書院帝国書院、東京書籍、日本文教出版)では、「立憲主義」または「立憲政治」の項目が、憲法研究者らによって(遅まきながら)新たに的確に説明されている(育鵬社のものには「立憲主義」の項目がないが権力濫用を抑制する憲法との説明は一応あり、自由社のものでは人権保障との関連が不十分である)。 そのように中学と大学を接続させる憲法教育の発展が期待される。高校と大学を接続させる憲法教育の試みは横大道聡氏(鹿児島大学教育学部准教授)らの一連の研究がある。


(この項続く)