kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

中村勝広・阪神タイガースGM死去

5連休2日目から連休明け初日の昨日(9/24)まで日記を休んでいたが、その終わり頃にスポーツ・芸能界の著名人の訃報に接した。

まずプロ野球阪神タイガースGM中村勝広氏。同球団の東京遠征中、23日に心不全で66歳の若さで死去した。

千葉県山武郡九十九里町出身で成東高校・早稲田大学を出て1972年に阪神入り。阪神間で過ごした私の小学生時代、同級生に当時ルーキーだった中村選手のファンがいた。確か中村氏の息子が兵庫県進学校として有名な灘中学に合格したと聞いたことがあるが、もう20年くらい前(中村氏の阪神監督時代)のことだったかもしれない。調べてみると大阪大学の医学部を卒業して医者になったようだ。

息子の頭が良いから本人も同じとは限らないかもしれないが*1、中村氏は早くから阪神球団の幹部候補生として待遇されてきたと聞く。1990年に阪神監督に就任し、2年連続最下位のあと、1992年に阪神は躍進し、ヤクルト(及び読売)と激しく優勝を争ったが敗れた。以後は93年、94年と連続4位のあと、95年のシーズン途中で不成績の責任をとって監督を退任した(退任時5位、藤田平監督に代わった後の最終成績は最下位)。印象に残っているのは、やはりこの年不成績の責任をとって、前月に同じようにシーズン途中で中日の高木守道監督が退任した時のことだ(退任時最下位、最終成績は5位)。高木監督は、監督退任を発表した日に行われた甲子園での阪神戦で、審判の判定を不服として審判を小突き、退場処分を受け、それが第1次監督時代の最後の試合となった(のち2012〜13年に再び中日監督)。その感想を聞かれた中村監督は、「心中、察するに余りある」と言った。身につまされる思いだったのだろう。1995年はヤクルトが優勝したが、ヤクルトは前述のように1992年には中村阪神と、翌93年には高木中日と優勝を争ってそれぞれ勝った。あるシーズンの優勝争いの結果は、その後のチームの成績や監督の命運を大きく左右するものだなあと、勝負の世界の厳しさを思い知らされたものだ*2

しかし阪神球団は中村氏を見捨てたわけではなかった。中村氏はオリックスGM、監督を歴任したあと、2012年に阪神GMに復帰したのだった。

今年は1992年を思い出させるヤクルト、阪神、読売、広島の4球団の激戦となった。今年は3月1日以降の暦も1992年と同じで*3、なんというめぐり合わせか、9月22日と23日に東京ドームで読売と阪神の2連戦が行われたことまで同じだった。23年前の2連戦では、阪神は初戦を完封負けしたが、今年も同じだった。23年前の9月23日には、阪神の先発・湯舟敏郎があわやノーヒット・ノーランの好投をしながら四球を連発して押し出しで読売に先取点を与え、そのまま1対0で負けた*4。投球内容で湯舟は明らかに読売・斎藤雅樹を上回っていたが、この年それまで阪神戦で7勝を挙げていた斎藤に対する苦手意識からか、阪神打線は得点を奪えなかった。この(阪神にとっては)痛恨の敗戦で*5、それまで阪神絶対有利だった優勝争いの流れが変わるかも知れないと思った。そして実際その通りになった。湯舟の押し出しは、天王山の神宮球場でのヤクルト戦(1992年10月7日)でも繰り返された。最後は甲子園球場で先発のマウンドに立った湯舟をヤクルト打線が打ち込んで、ヤクルトが14年ぶり(!)のリーグ優勝を決めた(同年10月10日)。

その痛恨の9月23日に、東京ドームにおける阪神タイガースのサヨナラ負けを見ることなく、中村勝広氏は逝った。その非運には同情を禁じ得ない。

謹んで故人のご冥福をお祈りします。

*1:父親や祖父から頭の良さを受け継がなかった安倍晋三の例もある

*2:高木監督の場合は、1994年の読売との最終戦決戦にも敗れて2年連続2位だったが、この時一度は決めていた監督退任を思いとどまったことで気持ちが中途半端になってしまい、それが翌年の不成績につながったのではないかとも思った。

*3:1992年は閏年だったので1月と2月は1日ずれている。

*4:先取点を与えた時点で湯舟は被安打なし、その後内野安打を打たれて1安打完投負け

*5:注:筆者はヤクルトファンである。