kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

水島朝穂『はじめての憲法教室』(集英社新書)を読む

2013年に憲法学者水島朝穂が書いた集英社新書を図書館で借りて読んだ。薄いのですぐ本自体はすぐ読めてしまう。



本の副題に「立憲主義の基本から考える」とある。いくつかメモしておく

まず安倍晋三参院選を前にした2013年7月3日に、前に日本記者クラブにおける討論会ではなった妄言。

(前略)安倍首相は立憲主義について、「『憲法というものは権力を縛るものだ』という側面はあるが、いわばすべて権力を縛るものであるという考え方は、王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方であって、今は民主主義の国家である」と答えていますが、(略)民主主義の時代だからこそ、立憲主義が求められるのです。(51-52頁)


立憲主義と民主主義の関係については、江川紹子による樋口陽一へのインタビュー記事が参考になる。
「立憲主義」ってなあに?(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース(2015年7月4日)より

かつては民主主義を押し進めていけば、いい世の中になる、その向こうには社会主義というもっといい制度もある、というのが、知識層のかなりの共通認識でした。だから、『立憲』より『民主』。それは日本だけではありません。他の国々、たとえばフランスやイタリアなどは、共産党も強く、やはり『立憲』より『民主』でした。ところが、民主、さらにはその先にあったはずの社会主義の実態がだんだん明らかになっていく。やはり、権力というのは何らかの制限がされるべきだ、ということになって、立憲主義が見直されていったんですよ。

『法の支配』『法治国家』を包み込む形で『立憲主義』が80年代になって、国際的な会議やシンポジウムなどでも盛んにテーマになるようになっていきました」


それにしても安倍晋三の妄言はひどい。樋口陽一も前記インタビューで

『法の支配』『法治国家』は、EUの共通の価値観です。今の政権は『価値観を共有する』という言い方が好きですが、『歴史修正主義』と書いたドイツの新聞に外交官を差し向けて抗議や新聞社を非難させるなど、EUにおける価値観を共有しているようには、とてもじゃないけど見えませんね」

と言っている。日本が「価値観外交」を行うというのなら、安倍晋三のような人間に政権を委ねてはならないのである。

水島朝穂の本からの引用に戻る。

(前略)戦前の日本の政党には立憲政友会、立憲民政党など「立憲」の名のついた政党がたくさんありました。ところが、戦後になって政党名から「立憲」がの文字が消えていきます。戦後、それに代わったのが「自由」と「民主」で、権力者を縛るという理念よりも、そっちのほうが有権者が得をした気分になると考えたかどうかはわかりません。ただ、この「自由」と「民主」をふたつくっつけた名前の政党が「憲法を改正しよう」と言っているのは皮肉に思えます。

 このように戦後の日本では忘れられかけていた立憲主義ですが、ここ最近は、新聞もほぼ全社が立憲主義について書くようになりました。自民党の内部からも「安倍さんのやり方は立憲主義に反するのでは」といった声が出てきているし、共産党までが「立憲主義を守る」と言い出して、私は「えっ!?」と思いました。立憲主義というのは「どんな権力も制限されなければならない」という考え方ですから、特定の権力のあり方を正しいとする政党、つまり労働者階級の全能性を主張する立場からすれば(「プロレタリアート独裁」は放棄されたとはいえ)、立憲主義の考え方は否定の対象だったんですね。そういう意味で、いまの状況は、自由民権主義運動以来の、日本における「立憲主義ルネッサンス」と言っていいかもしれません。(38-39頁)


前にも一度引用したが、水島朝穂はこの本を書いたのと同じ2013年に、

長谷川(正安)氏はマルクス主義憲法学の代表格で、立憲主義に対して当然批判的である。日本国憲法も階級支配の道具であり、その「民主的・平和的条項」は擁護の対象となるが、将来の「民主的権力」が自衛措置を行う際には、9条2項は改正の対象となるという理解である。いかなる権力も憲法に縛られるという発想をとらない以上、(『あたらしい憲法のはなし』に=引用者註)「解説」に立憲主義という言葉が出てこないのはある意味で当然だろう。

と書いている*1

実は私は、長谷川正安が書いた岩波新書の『日本の憲法 第3版』(1994年)が本屋にあったら立憲主義系の憲法学者の同種の本と同時に買って比較してみようかと思って、先日三省堂書店神田本店の書棚を見てみたのだが、置いていなかった。絶版なのだろうか。しかし、共産党系の新日本出版社は2002年に長谷川正安の『憲法とはなにか』を出版している。ということは、2002年には共産党は「立憲主義」の立場には立っていなかったのではないかとの仮説を立て得る。

いずれにせよ、共産党がいつから「立憲主義」を党の立場とするようになったのか、かつての長谷川正安らの「マルクス主義法学」との整合性はどうなっているのか等の疑問は、共産党が「国民連合政府」を唱道している現在では、共産党が答えなければならない、というより、われわれ一般市民が共産党に問うていかなければならないことだと私は考える。それが市民の責務というものであろう。

いわゆる「新9条」「左折の改憲」論もまた、立憲主義の思想に照らし合わせると、共産党に対するのと優るとも劣らず、厳しい批判の対象となる。以下本書から引用する。

(前略)九条改正をめぐる問題には、純粋に「戦争の放棄」と「戦力の不保持」を謳った憲法を変えるのかという側面と、いま現実に存在する自衛隊をどうするかという側面が混在しています。「戦争の放棄」「戦力の不保持」を規定した憲法を改正するかというかという問題と、「自衛隊をどうするか」という問題は本来、別個に議論すべきものです。(中略)「いま現実に存在する自衛隊憲法と矛盾するから、憲法を改正しよう」という趣旨の議論は、国家権力を制限するという立憲主義の観点からは考えられないものです。そんな憲法はもはや近代国家の憲法とは言えません。

 憲法について、また九条の改正を議論するなら九条について、正確な認識を持つことが議論を始める条件ですが、その議論がどのような性質を持つかもまた、わたしたちに求められる認識だと思います。(86-87頁)


右の「新9条」(「左折の改憲」)派も*2、左の共産党も、立憲主義の立場に立つと批判の対象になる*3立憲主義の威力恐るべし。

最後に、水島朝穂の本の12頁から引用して記事を締めくくる。

 「よい政府」、つまり「よい権力者」は存在しない。アメリカ建国の父、トーマス・ジェファーソンが言うように、信頼はつねに「専制の親」であるから、猜疑心を持ち続けることが大事なのである。人々の「疑いの眼差し」が権力を縛る鎖である。この「疑いの眼差し」にさらされている限り、権力は暴走と堕落を免れる可能性が高くなる。「よい政府」は存在しないが、それに接近することはできる。そのための最良の方法は、権力者が人々の猜疑心にさらされ続ける仕組みが安定的に存在することである。これが立憲主義に基づく国のありようである。(12頁)

*1:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0603.html

*2:「左折の改憲」とは僭称に過ぎず、その実体は「右」であると私はみなしている。安倍晋三などの「壊憲」派は論外の「極右」である。

*3:面白いのは、共産党にルーツを持ちながらも「新9条」にも関与していると見られる人士がいることだが、その人士はかつて城内実を評価して「『右』も『左』もない」ブログにリンクを張り、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と書いた人物にほかならない。