kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

民主党と立憲主義

立憲主義は、2009年に「政権交代」をなしとげたものの無惨な失敗に終わった民主党政権の総括を行う際にも欠かせない観点だ。

今年(2015年)10月29日付朝日新聞の「論壇時評」に掲載された政治学者・中北浩爾氏の論評は参考になる。ネット検索で見る限り、中北氏の安倍政権観は微温的であって物足りない限りだと思ったが、民主党政権の問題点を指摘した朝日の論壇時評での指摘は納得できるものだった。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12040088.html

(あすを探る 政治)民主主義、次のビジョンへ 中北浩爾
2015年10月29日05時00分

 憲法9条の解釈を閣議決定で変更し、安全保障関連法案の国会審議を強引に推し進めた安倍政権を、民主主義の破壊者だと批判する声を耳にする。ファシストといったように。気持ちは分からないわけではない。だが、それは本当に正しい認識なのか。自民党を政権の座から放逐すれば、問題は解決するのか。私には、そうは思えな…

朝日新聞デジタルより)


朝日新聞デジタル」未登録者にはここまでしか読めないが、当該中北氏の論評を一部朝日の紙面から引用し、さらに論評を加えたブログ記事を見つけたので、以下引用する。

立憲民主主義 民主と安倍政治の違いは? - 三酔人の独り言(2015年10月30日)

 朝日新聞」2015.10.29(朝刊)【あすを探る 政治】中北浩爾「民主主義 次のビジョンへ」は、とても重要な指摘を含む良い評論だ。

 ■中北浩爾(なかきた・こうじ) 1968年生まれ。一橋大学教授(政治学)

 中北教授には、6年ほど前、インタビュー記事でお世話になったことがある。当時は、立教大学教授だった。

 上記「朝日」評論のうち、特に重要部分のみを以下に引用・紹介する。

憲法9条の解釈を閣議決定で変更し、安全保障関連法案の国会審議を強引に推し進めた安倍政権を、民主主義の破壊者だと批判する声を耳にする。ファシストといったように。気持ちは分からないわけではない。だが、それは本当に正しい認識なのか。自民党を政権の座から放逐すれば、問題は解決するのか。私には、そうは思えない。

 なぜなら、民主党政権の政治手法もまた、程度の差こそあれ、かなり乱暴だったからである。>

政治主導を標榜した民主党は、鳩山内閣の時期、独立性の高い機関の長として国会答弁が認められる「政府特別補佐人」から、内閣法制局長官を除外する国会改革法案の成立を図った。そこには、官僚たる内閣法制局長官ではなく、政治家が憲法解釈を行うという、今から見れば危ういねらいが存在していた。

自民党はその当時、次のような正しい批判を民主党に加えていた。「憲法は、主権者である国民が政府・国会の権限を制限するための法であるという性格をもち、その解釈が、政治的恣意によって安易に変更されることは、国民主権の基本原則の観点から許されない」

 自民党民主党は、野党になると一転して批判に回れども、民主主義に関して、ある共通した認識を抱いてきた。それは、総選挙で過半数議席を握った政党が、首相を中心として強力な政治的リーダーシップを発揮することこそが民主主義である、という考えだ。

 このような考えのもとでは、国家権力の行使を憲法によって制約する立憲主義が軽視され、世論調査や抗議行動など選挙以外の回路によって表出される多様な民意が蔑(ないがし)ろにされてしまう。安倍首相の強引な政権運営は、こうした多数決主義的な民主主義の表れ、あるいはその行き過ぎとみるべきであろう。>

<現在、民主党は「権力の暴走を許さない。その先頭に立つ。」というスローガンを掲げ、野党の間でも来年の参院選に向けて選挙協力などが進められている。安倍自民党が民主主義の単なる破壊者なら、それで十分だが、そうではない。多数決主義に基づく権力ゲームの繰り返しに終わらないためには、立憲主義と合意形成を重視する、ポスト政治改革の民主主義のビジョンが必要ではないか>

                 ≪「朝日新聞」中北教授評論の紹介終わり≫

 そうなのだ。現在の安倍晋三政権の政治(安倍政治)に対し、「民主主義の欠如」に関しては繰り返し訴えられるが、「(近代)立憲主義の欠如」に関しては忘れ去られがちだ。この点から言えば、安倍政治と対峙する民主党のあり方の「歴史」を検証することは、非常に重要なはずだ。特に、2009年に始まる民主党連立政権時代の内閣と民主党のあり方を。ここから見えてくるのは(おそらく)、「立憲民主主義の捉え方」という面での現在の安倍政治との類似性ではないか。そして、現在でもそのあり方は十分には払拭されていない、という可能性もある。そもそも、民主党はそういった事に関する検証・総括を行なった、という話を聞いたことが無い(*私が知らないだけかもしれない。もしあるのなら、教えてもらいたい)。

 一方に「個人的な好き/嫌いや人間関係」「損得勘定」の問題(A)があり、他方には「(立憲民主主義等の)政治レベルの高/低」の問題(B)がある。各人のAとBの重視割合は千差万別だろうが、自民党でさえ、少なくともタテマエ上は「Bを重視する」ことになっているはずだ。しかし自民党に於いては、実質的にはこのBの割合は極めて少なく、Aを「売り」として選挙に臨み、政権政党として日本の政治に君臨してきた(、と私は思う)。

 こういったあり方に対し「否」の思いを抱く有権者の割合が「是」のそれを凌駕したのが、2009年の民主党連立政権誕生前後の「世論のうねり」ではないか。

 もちろん、民主党政権誕生に期待した人々の中には、Aの部分もあっただろうが、自民党政権に期待した人たちとの比較で言えば、「圧倒的にBを求め、期待した」はずだ。

 しかし当時のマスコミ・ジャーナリズムの多くは、そして有権者の多くも、「民主主義」という面にばかり光を当て、「立憲主義」の面にはあまり関心を払わなかった。私自身も、似たようなものだ。民主党も全体としては、そういった基本姿勢を示してきた、と思う。「国政選挙で勝って内閣を樹立したのだから、期限付きで好きなようにできる」というような。

 だがそういった姿勢は、民主主義の全体を捉えたあり方ではなく、「選挙民主主義」といった限定的なあり方に留まるのではないか。そして近代立憲主義という面では、「大きな欠如・欠陥があった」と言わざるを得ない。

 安倍政治と違うのは、この「類似する姿勢」を実際の政策実行・立法の本丸には反映させなかった、という点だろう。安倍政治は憲法9条の「骨抜き」・解釈改憲(*「2014.7.1閣議決定」)と「違憲戦争法」(安保関連法)の制定を強引に押し進めたが、民主党はそこまでは行なわなかった。民主党政権には、そのつもりが無かったのか、そこまでの覚悟が無かったのか、それとも時間的余裕が無かったのか、は分からないが。

 民主党自身は、そして私たち(*有権者など)も、民主党のこういった「かつてと現在のあり方」を検証・総括する必要があるはずだ。そして、「立憲民主主義を基盤とする政治を追求する」姿勢を再確認する必要がある。そうでなければ、いつの日か民主党政権がカムバックした際、私たちは安倍政治とさして変わらぬ反立憲民主主義の政治を覚悟しなければならなくなるだろう。


引用文中の青字ボールドは原文にはなく、引用者である私が加えた。

「選挙で過半数議席を握った政党が、首相を中心として強力な政治的リーダーシップを発揮することこそが民主主義である、という考え」は、もっと雑駁に言えば、「選挙に勝てば何をやっても良い」という思想だ。そのもっとも極端な例が橋下徹であることはいうまでもないが、安倍晋三の考え方も橋下と同じであり、それどころか民主党政権の中心を担った鳩山由紀夫小沢一郎、それに菅直人らの考え方も橋下と同じだったと断言できる。

このところ私は、(路線転換をどんなに早く見積もっても)2002年頃までは「マルクス主義法学」の立場に立ち、立憲主義など認めていなかったのではないかと疑われる共産党が、いつから立憲主義を信奉するようになったのかと批判してきたが、民主党に対しても、民主党政権時代に立憲主義に反する行いをさんざん重ねておきながら、それを総括しないのか、と批判しないわけにはいかない。

共産党立憲主義を党の方針とするようになった経緯を、民主党はかつて立憲主義をないがしろにした政治を行っていたことの総括を、それぞれ明らかにした上で「立憲主義」の旗の下に「野党共闘」を行う、という謙虚な姿勢を見せて初めて「野党共闘」は人々の心をつかむことができるのではないか。

それができないのであれば、来年の日本の政治はますます「崩壊の時代」の崩壊の度を深めていくばかりだろう。