kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

清原和博の覚醒剤逮捕と「キョジン軍」の闇

読んで大いに思うところがあった。

読売ジャイアンツはやはり、人をスポイルする組織だ 江藤から清原へ : 広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)(2016年2月12日)より

江藤智選手は、1999年オフにカープからジャイアンツに移籍したあと、活躍らしい活躍もできず、ベンチウオーマーに甘んじました。
せめて移籍先が当初噂された横浜ベイスターズなら四番で活躍できたでしょう。
本当にもったいない。


そして、今回、覚せい剤取締法違反で逮捕された清原和博被疑者。
野村貴仁元選手によるとジャイアンツ時代から薬をやっていたらしいのです。
清原もジャイアンツにいかなければ、西武で偉大な選手として全うできたかも知れない。
つくづく、読売ジャイアンツは人を駄目にする組織だと思いますね。


金で他球団の江藤のような優秀な選手を買って死蔵する。
そしてセ・リーグ全体の活気を落とす。
FA制度の施行以後、特に長島監督時代、そうした役割しか、読売ジャイアンツは果たしていないのではないでしょうか。


94歳で死ぬまで読売新聞社の最高権力者として君臨した務台光雄の一周忌が明けた1992年、渡邉恒雄ナベツネ)が読売軍の球団経営に関与するようになった。これが事の始まりだ。ナベツネは手始めにドラフトの逆指名とFA制を導入させるとともに、長嶋茂雄を読売軍監督に復帰させた。長嶋は務台に嫌われていたため、12年もの間「浪人」を続けていたのだった。それは1975〜80年の第1次長嶋監督時代の読売軍の成績が務台のお気に召さなかったからだが、逆指名制度とFA制が長嶋監督でも優勝できるようにするためのナベツネの戦略であったことはいうまでもない。制度を施行する前の第2次長嶋政権初年度の1993年は、案の定読売は連覇したヤクルトと2位中日に大差をつけられ、4位阪神を辛うじて抑えての3位に終わった。読売の巨大戦力化はそのシーズンオフから始まった。中日からFA宣言した落合博満を獲得して翌94年の優勝に結びつけるたが、それだけでは満足できず、4位に沈んだヤクルトから広澤克実(FA)とジャック・ハウエルを獲得した。しかし95年には読売から主軸打者を引き抜かれたヤクルトに大差をつけられて3位に終わった。「読売 広沢 ハウエル」でGoogle検索をかけると、2003年に書かれたと思われる下記記事が筆頭で引っかかったのに笑ってしまった。


上記リンク先の記事にある通り、読売は96年のオフに清原和博石井浩郎(現自民党参院議員)を獲得した。だが清原は読売が期待したほどの活躍はできず、97年にはヤクルト(読売は3位)、98年には横浜(読売は3位)、99年には中日(読売は2位)がそれぞれ優勝した。そこで読売が99年オフに獲得したのが江藤智だった。このオフ、読売は他に投手でも阪神からダリル・メイを獲得した。江藤とメイの獲得は効いた。それまでどんなに補強しても優勝できないと言われていた読売の巨大戦力の火の噴き方は半端ではなかった。2000年のセ・リーグは、ヤクルトが川崎憲次郎伊藤智仁らが読売打線を抑えてリーグで唯一読売に勝ち越した(16勝11敗)ものの、前年優勝の中日(監督はあの暴力野郎・星野仙一)と前々年優勝の横浜がさっぱりだった。ことに中日は本拠地ナゴヤドームで読売に全く歯が立たずに2勝12敗と惨敗し、星野仙一中日ファンの罵声を浴び続けた。また広島は夏場に本拠地で江藤らに滅多打ちされて悲惨な3タテを食った。最下位阪神は当然のようにボロ負けした。

あの年の読売に関する不快な思い出を書き始めたらキリがないのではしょるが、2000年の読売の巨大戦力にあって清原の印象は不思議なほど薄い。いや、読売移籍後の清原の印象自体が薄いのである。せいぜいデッドボールをめぐって阪神の藪と喧嘩してたこととか、清原移籍初年度の1997年、読売最下位間違いなしとほくそ笑んでいたら、終盤の中日戦と阪神戦で狂ったように打ちまくって両球団(中日最下位、阪神5位)を抜いて4位に上がりやがったのに腹を立てた程度の記憶しかない。

今にして思えばそれもそのはず、2000年には清原はもう覚醒剤に蝕まれていたのだった(やっと本論につながった)。

元巨人野村貴仁氏「俺が現役清原に覚せい剤渡した」 - 野球 : 日刊スポーツ

元巨人野村貴仁氏「俺が現役清原に覚せい剤渡した」
[2016年2月10日8時49分 紙面から]

 覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された清原和博容疑者(48)と巨人で一緒にプレーした元プロ野球選手野村貴仁氏(47)が、現役時代に清原容疑者に覚せい剤を渡したと証言した。日本テレビの「NNNストレイトニュース」などが9日、報じた。野村氏は06年10月に覚せい剤取締法違反(使用)の疑いで逮捕され、同罪で有罪判決を受けたことがある。

 96年のオリックス日本一に貢献した左腕は、変わり果てた姿で、ニュース番組に登場した。仙人のような長いヒゲにボサボサの長髪が工事用とみられるヘルメットからのぞく。日本テレビの記者の質問に体をゆらして、薄目がちになったり、目を見開いたり…。現役時代、違法薬物の仲介役をやっていたことがあったといい、同じく現役だった清原容疑者に覚せい剤を「渡したからや。渡したからや」と話した。

 野村氏は90年にドラフト3位でオリックスに入団。98年に巨人に移籍。自由契約となった01年まで4年間、清原容疑者と同僚だった。02年以降は大リーグなどでプレー。引退後の06年10月、覚せい剤取締法違反(使用)容疑で逮捕された。

 公判で野村氏は、現役時代、覚せい剤と同じく集中力や瞬発力があがる「スマートドラッグ」に分類されるアンフェタミン系興奮剤「グリーニー」を始め、その後、覚せい剤に手を出したと説明。懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受け、06年末に社会に戻っていた。

 野村氏が06年に社会復帰した後、清原容疑者から突然「探りの電話」があったという。記者の「何の電話だったのか?」との問いに、野村氏は「うとうてないか(供述していないか)。うとうてるか。うとうてるか。うとうてないか。僕が。警察に」。清原容疑者が電話で、野村氏が逮捕された時に、清原容疑者にも覚せい剤を渡していたことを供述したか、していないかを確認してきたという。

 ◆野村貴仁(のむら・たかひと)1969年(昭44)1月10日、高知県生まれ。高岡宇佐から三菱重工三原を経て、90年ドラフト3位でオリックス入り。中継ぎ投手として、95、96年のリーグ連覇に貢献。98年に木田と交換トレードで巨人へ移籍。01年オフに巨人を自由契約となり、メジャーに挑戦。02年ブルワーズで21試合に登板した。03年に日本ハムに復帰するが1年で自由契約。04年に台湾でプレーした。日本での通算成績は344試合24勝22敗39セーブ。現役引退後は地元高知へ戻った。06年10月、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕され、懲役1年6月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。

(日刊スポーツより)


清原はいったいいつから覚醒剤をやっていたのかというと、一説には西武時代の末期からともいわれるが、98年のシーズンから読売入りした野村を介して読売時代に始めたとみるのが妥当と思われる。

「うとう(唄う)てないか、うとうてるか」という清原の言葉の模写はあまりに生々しい。いうまでもなく、「唄う」とは自白することを意味する極道用語であり、清原和博という人間の心性がヤクザそのものであることが感じられる。ちなみに日本テレビの局員にはこの言葉が理解できなかったらしく、テロップに「売っとってないか、売っとってるか」と表示された。

ところで野村貴仁が読売に在籍していたのは2001年までだ。長嶋茂雄が読売の監督を辞め、原辰徳に交代するタイミングで読売を退団している。

ということは、9年に及んだ第2次長嶋政権時代の後半の4年間、野村は読売に在籍していたわけだ。清原は1997年から2005年まで読売に在籍した。2005年のオフに、読売の監督が堀内恒夫から原(第2次)に代わるタイミングで清原は読売を退団した。実は私は清原がいつ読売を退団したのか全く覚えていなかった。それくらい、読売における清原の存在感は薄かった。

結局、清原が読売に在籍してた9年間で、読売は2度リーグ優勝しただけだった(但し2度とも日本シリーズに勝ちやがった)。その前後には、88〜96年の9年間に4度(日本一2度)、06〜14年の9年間に6度(日本シリーズ出場4度、日本一2度)、読売はリーグ優勝しているから、清原が在籍していた時代の読売はリーグ戦の成績がその前後と比較して悪かったとはっきり言える(但し日本一の頻度は同じ)。もちろん清原在籍の9年間のうち5年監督を務めた長嶋と2年監督を務めた堀内の采配にも問題があったかもしれない。だが、清原在籍中の読売の補強のあり方は常軌を逸していた。たとえば、原から堀内に監督が代わった2004年の読売は、江藤の他に清原和博(西武から移籍)、ロベルト・ペタジーニ(ヤクルトから移籍)、タフィ・ローズ近鉄から移籍)、小久保弘紀(ダイエーから移籍)と計5人の4番打者経験者を抱えていたのが、読売はそれでも優勝できなかった(2位、優勝は中日)。そしてこの年、しびれを切らしたナベツネプロ野球再編騒動を仕掛けたのだった。

言ってみれば、清原が読売に在籍していた9年間は、読売球団がもっとも反社会的な性格をむき出しにしていた時期だったといえるのではないか、そう私は思うのだ。もちろんそれ以降の第2次原政権時代にも読売軍から野球賭博常習者が出るなどしているし、覚醒剤野球賭博の常習者は他球団から出ても何の不思議もない。選手たちがそういう罠にはまりやすい世界であることは間違いない。

それでも、タガが外れきった当時の読売軍の球団経営と清原和博の堕落の間には、ある因果関係があるのではないかと思えてならない今日この頃なのだ。