kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書)読了

数日前に「序章」の部分を取り上げた下記の本を読み終えた。


右傾化する日本政治 (岩波新書)

右傾化する日本政治 (岩波新書)


17件あるアマゾンカスタマーレビューを読んで、もっとも取り上げたいと思ったは下記のレビューだった。

http://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1KAHRLGNO6JFB

★★★★★ 日本政治の見取り図。序章だけでも読む価値あり。, 2015/10/16
投稿者 汽車
レビュー対象商品: 右傾化する日本政治 (岩波新書) (新書)

最近読んだ新書の中では一番面白かった。
本書全体の内容は序章にコンパクトにまとめられているので、序章だけでも読むといい。

「右傾化する」といっても、ずっと常に「右」へとシフトしていったわけではないとする。
「右」に揺れれば「左」への揺り戻しが起こる。その後再び「右」へと転じる。近年の日本政治はまるで振り子のようだと筆者は例える。
しかし同時に、振り子自体が徐々に「右」へとシフトしているという。
したがって、「左」への振り戻しの後の「右傾化」は、以前よりさらに「右」へと移動する。
これは言い得て妙だと思った(4ページの図1および6ページの表1は実に分かりやすい)。

近年、ネット上のみならず言論界においても、論敵・政敵に「左翼」だとか「ネトウヨ」だとかいったレッテルを貼ることが多く、政治概念での「右」「左」の概念が相当に曖昧になっている。大抵の場合、こうした表現はあてにならないどころか、ただの悪口にすらなってしまうこともある。
なので、『右傾化する日本政治』という題を見たとき、これもまた同様のレッテルの類なのではないかと思った。
しかし、本書の冒頭で何をもって「右」とするかを定義し、この定義に従い「右傾化」が生じていると論じており、理解しやすかった。
さらに「右」にも様々な立場があるとして「旧右派連合」「新右派連合」という概念を用いているのは、本書ならではと言えるだろう。
これらの概念を旧来の「保守本流」「保守傍流」と重ねつつ、中曽根政権から第二次安倍政権に至るまで徐々に「新右派連合」が勢力を伸ばしている様子を図式的にまとめているのは、非常に分かりやすかった。
また、現在の日本政治を主導している「新右派連合」の政治家らが何を目指そうとしているのかもよく分かった。

また、本書では「リベラリズム」「自由主義」「新自由主義」を明確に区分し、概念の混同を回避しようとしている。
これも「右」「左」同様、明確に図式化して描かれている。

そして、民主党内にも様々な立場があり、自民党の現在の主流と同じく「新右派連合」を形成している集団があることを指摘しているのは面白い。
民主党の各グループがどのような系譜を辿って民主党に至ったのかを見るのは、日本政治全体を理解する上でも重要と感じた。
さらに自民党と読売新聞などのメディアが裏でどのようにつながっているか、自民党NHK朝日新聞に対してどのような攻撃を仕掛け、朝日新聞の購読者数減少に成功したのか、などにも触れられている。

昭和から平成にかけての日本政治の見取り図を端的に描いた作品と言える。
あまりにも明確に描かれているため、議論がやや単純化されすぎていたり反証になりうる事例が出されていない、などの欠点があるのも確かだが、新書という形態をとる本書は日本政治の概説書としては分かりやすく、内容も十分であると思う。

前にも書いたが、1982年以降の日本の政治には、5度の「新右派転換の波」と、それぞれの間に現れた4度の「揺り戻し(小休止・減速)」があったとする著者の見方は、私には実によく納得できるものだった。5度の「新右派転換の波」を主導した政治家は、中曽根康弘小沢一郎橋本龍太郎小泉純一郎安倍晋三の5人だが、この5人を私はすべて嫌っており、4度の「揺り戻し」、つまり (1)1989年参院選における自民党大敗、(2)94年の自社さ政権成立、(3)98年参院選における自民党大敗、(4)07年参院選と09年衆院選における自民党大敗と民主党への政権交代をすべて歓迎したからだ。但し、2009年衆院選における民主党の圧勝と政権交代の時だけは、このあとにものすごい反動が待ち構えているのではないかと予感して、多くの人たちのように狂喜乱舞はできず、一種の憂鬱さえ感じたことを覚えているし、そのことをこの日記か「きまぐれな日々」かのどちらかに書いた記憶もある。とはいえ自民党政権が続くよりは明らかにマシだと思って気を取り直したものだった。

しかし、読者の中には、中曽根、小沢、橋本、小泉、安倍の5人を一緒くたにすることに違和感を感じたという人が少なからずいるようだ。アマゾンにもそのようなレビューがあったし、ブログの書評記事にもあった。後者を以下引用する。

中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書) 5点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書) 5点

 『戦後日本の国家保守主義』を著し、日本再建イニシアティブ『民主党政権 失敗の検証』(中公新書)の第6章 「政権・党運営――小沢一郎だけが原因か」(この分析は面白かった!)を担当した政治学者による、近年進む、日本政治の「右傾化」を概観、分析した本。
 現在の安倍政権だけではなく、ここ30年ほどの歴史のなかでの「右傾化」をとり上げています。

 この本が分析する日本の「右傾化」のポイントとは次の3つです。
 1つ目は、日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)であること。2つ目は、何回かの揺り戻しを経ながら徐々に進んでいること。3つ目は、旧来の右派が勢力を伸ばしたというよりは「新自由主義」と「国家主義」が結合した「新右派」がその中心となっている点です(3-5p)。

 著者は本書6pの「新右派転換の波」と題された表で、過去30年の「新右派転換の波」として、1982〜87年の「中曽根康弘「戦後政治の総決算」」、89〜94年の「小沢一郎「政治改革と政界再編」」、96〜98年の「橋本龍太郎「六大改革」「バックラッシュ」」、2001〜07年の「小泉純一郎構造改革安倍晋三戦後レジームからの脱却」」、2012年〜の「安倍晋三「日本を、取り戻す。」「この道しかない。」」の5つを示しています。
 そして、これらの波の間にあるのが89年の自民の参院選の敗北、94〜96年の「自社さ政権」、98年の自民の参院選の敗北、07年の自民の参院選の敗北、09〜12年の民主党政権であり、これらが「右傾化」に対する「揺り戻し」ということになります。

 55年体制下の自民党政治は「開発主義」と「恩顧主義」の組み合わせでした。政治主導の経済発展を目指す「開発主義」と、公共事業などで地方に恩恵をもたらす「恩顧主義」が自民党政治の両輪であり、国民の指示を得るための手段でした。
 しかし、70年代以降の財政悪化などによって、この組み合わせは維持できなくなります。また、経済大国化した日本は国際社会でもさまざまな役割を求められるようになります。
 こうした中で、自民党の新たな中心となったのが「新右派」です。

 「新右派」とは、著者によれば「新自由主義」と「国家主義」の結合です。
 著者によれば、「新自由主義」は「経済的自由主義」、「国家主義」は「政治的反自由主義」と言い換えることが可能だとのことですが(19p)、この「自由」と「反自由」の結合はいかにして可能なのか? 著者は次の3つの理由をあげています。
 1つ目は、自己利益を追求するアクターによって世界が構成されると考える「リアリズム」的な世界観を共有していること、2つ目は、どちらもエリートにとっては都合の良い理論だということ、3つ目は、「新自由主義」的な経済体制の実現のために「強い国家」が要請されるという政治的な補完性です(19ー22p)。

 こうした理論的枠組をもとに、1980年代から現在に至るまでの政治の「右傾化」の流れをたどる部分が本書のメインになります。
 ここ30年の日本の政治において、宏池会田中派に代表される「旧右派」は主役を「新右派」に譲り、右派のカウンターである「革新」は退潮しました。
 そして、中曽根康弘小沢一郎橋本龍太郎小泉純一郎安倍晋三といった政治家のもとで日本の政治は以前よりもずっと「右傾化」してしまったのです。

 ただ、個人的には、この中曽根康弘小沢一郎橋本龍太郎小泉純一郎安倍晋三という5人の政治家を同じ「新右派転換の波」としていしまうところには違和感を感じます。 
 確かに安倍晋三については「右傾化」と言われても仕方のない印象を与えるものがあると思いますが、小沢一郎橋本龍太郎小泉純一郎という3人を同じ「新右派」としてまとめてしまっていいものなのでしょうか?
 もし、そうならばなぜ小沢一郎橋本龍太郎は袂を分かち、橋本龍太郎小泉純一郎自民党総裁選で激しく争ったのでしょう。また、小泉・小沢連合というのも「反原発」という部分を除けば考えにくい組み合わせです。

 もちろん、この3人の政治家の打ち出した政策には「政治家主導」、「小さな政府」といった共通点はあります(小沢一郎に一貫した経済政策があるのかは謎ですが)。しかし、それは必ずしもこの3人がずっと持ち続けていた思想ではなく、社会からの要求を受け入れてのものだと考えたほうが自然なのではないでしょうか?
 90年代から00年代にかけて、日本は「失われた20年」とも言われる不況の中で「改革」が要請され、小沢一郎橋本龍太郎小泉純一郎といった政治家はそれぞれのスタンスでそれに応えようとしたのでしょう。
 ここから、「日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)である」という著者の主張は、「右傾化」に「新自由主義」的政策まで含めるのであれば、それは少し違うのではないでしょうか。
 このように、この本の政治の捉え方はやや大雑把すぎると思います。

 また、この本で描かれる「右傾化」という現象は否定的です。「寡頭支配」(26p)という言葉まで使われており、民主主義の否定へと突き進む現象です。
 ただ、こうなると中曽根康弘橋本龍太郎小泉純一郎安倍晋三といった首相の支持率が高かったことはどのように説明できるのでしょうか?
 この本のなかでは「小選挙のマジック」という言葉が使われており、小選挙区制のもとでは、過半数に満たない得票率でも大きな議席を獲得できてしまう問題点が指摘されています。
 確かにその通りです。しかし、小選挙区制というしくみは「右派」勢力以外にも適用されるわけで、実際、2009年の衆院選では民主党小選挙区制のしくみを活かして圧勝しています。野党がまとまっていれば、小選挙区制は必ずしも自民党にだけ有利な制度というわけではないはずです。
 やはり、著者が「新右派転換の波」とまとめる政治家たちがなぜ支持を得たのかという部分の分析がもっと必要でしょう。

 個人的に、安倍首相の周囲にいる戦前の国家主義を賛美するような政治家の存在には危惧を覚えているので、著者の問題意識や危機感というものは分かりますし、興味深い論点もあるのですが、もう少し「新右派」的政策に対する国民の支持(特に「新自由主義」的な政策への支持)というものを受け止めて、その背景やリベラルの「失敗」を見ていく必要があると思います。

うーん、わかってねえなあ、というのが上記の書評に対する私の感想。ブログ主はこの本に「5点」(10点満点なのでしょう)をつけてるけど、私なら「8点」だね。あまりに常識的な分析であり過ぎて刺激に欠ける、という感想だった。もちろんこれは、良し悪しではなく意見の相違であって、上記ブログ主から見れば私の方が「わかってねえなあ」ということになるんだろうけど。

で、中曽根、小沢、橋本、小泉、安倍の5人に一貫した運動を見る著者からすれば、小沢一郎に対する評価が低いのは当然だし、数日前に維新の党と野合して民進党になった民主党への批判が多く含まれているのも当然だ。

だからこの本は、小沢一郎の支持者や民主党民進党)の支持者にこそ読んでもらいたいと思う。私のように著者の意見の近い人間が読んでも、思考の整理には役立つけれども「目からウロコが落ちる」までには至らないのだが、小沢や民進党の支持者が読めば違うかもしれない。そう、自分と違う考えの人の意見を知ることが人間大事なのだ。蛇足ながら「小沢信者」にはおすすめしない。信仰に凝り固まった人間の考え方はそうそう簡単には変わらないからだ。

ネットに記事を書いていると、よく「日本は右傾化なんかしてない」とコメントを寄せてくる「リベラル」の人もいるが、そういう人にも読んでほしいと思う。

さらに、民主党政権時代に「55年体制の保守・革新の対立構造に代わって、今や(旧自民党政権の)官僚支配と(民主党政権の)政治支配が政治の新たな対立構造になった」という頓珍漢な迷論を唱える者が現れたことを覚えているが、そんな珍説の論者にはこの本に書かれた下記の一節を捧げたい。以下引用する。

 「マニフェスト」を掲げた「政治主導(政治家主導)」、首相への権限集中、政府与党一体化などの試みは、いずれも政治の新自由主義化をもう一段進める方向に作用し、また後に第二次安倍政権で問題になる集団的自衛権行使容認への解釈改憲との関連では、憲法や法律についての政府公式解釈の責任を内閣法制局から政治家へと移したのもまた民主党政権が最初であった。(144頁)

終章「オルタナティブは可能か」で著者は「リベラル左派再興のための」「基礎条件」として、「小選挙区制の廃止」、「新自由主義の訣別」、「同一性にもとづく団結から他者性を前提とした連帯へ」の3点を挙げていて、それもそうだよなあと思う。小選挙区制については、上記の書評を書いたブログ主は

野党がまとまっていれば、小選挙区制は必ずしも自民党にだけ有利な制度というわけではないはずです。

などと書いているが、本の著者・中野晃一は

 小選挙区制論者などから、それでもなおいずれまた「振り子」の原理が働き、政権交代が起きるという「楽観論」が聞かれるが、その根拠となるような事実は現状では見当たらない。(211-212頁)

と書いており、私は著者に軍配を上げる。なお、著者が指摘したような「楽観論」を某所でさる小沢支持者が発したのを私は目撃したことがあって、未だに「政権交代」の幻想にしがみついているのだなあと、人間社会に働く「惰性力」の強さに呆れたことを覚えている。

それから、最後の「同一性にもとづく団結から他社製を前提とした連帯へ」の項には下記のように書かれている。

(前略)第三の条件として、旧来型の同一性(アイデンティティ)に依拠した団結から、相互の他者性を受け入れてなお連帯を求めあうかたちへと、左派運動のあり方、言い換えれば集合文化(エトス)の転換を進めていかなくてはならない。前衛政党や組合幹部からの上意下達的な組織モデルは、教条主義に陥り、独善の袋小路へと至るのみであった。(218頁)

 これを読んで思い出したのは、今年に入ってからこの日記で共産党の「民主集中制」を批判した時、「組織とはそういうものだろ」という主旨の、共産党の支持者または党員と思われる方からもらったコメントだ。確かに企業などの組織では共産党の「民主集中制」と同様の「業務命令」の縛りがあり、社員はしばしば上司によって違法行為を強いられることすらあるが、そうした「組織」と「政党」が同じような仕組みで動くことを正しいと信じて疑わない共産党の支持者や党員が多数を占める限り、日本共産党もお先真っ暗だよなあ、と私は思ったのだった。コメントには答えなかったけどね(私は、よほど強く主張したいことがある場合を除いて、コメント欄でのやりとりはしないことにしています)。

もっとも著者は

 こんにち共産党社民党は女性やLGBT(セクシャル・マイノリティ)の政治参加をリードするような動きを見せており、民主党の鈍さが際立つほどになっている。(218頁)

と書いている。まあそれはそうなんだろうけれど、昨年末から今年初めにかけて、「民主集中制」の政党が右傾した時の恐ろしさを垣間見る場面があったことを私は忘れない。

そんなわけで、小沢支持者、民進党支持者、共産党支持者をすべて批判する記事になってしまったけれども、それほどまでにも「リベラル左派再興」のための課題は山積していると改めて思うのだった。