kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

日本(東アジア)では「保守」も「リベラル」も性善説?

うーむ、枝野幸男がそんなこと言ってたんだ。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1442.html#comment19632

昨日の日曜日に所謂“野党共闘”の面々が「6・5全国総がかり大行動」というのを全国各地でやってましたけど、その中で民進党枝野幸男幹事長(かつては“リベラル”とさえ看做されていた!)が「安倍政治を支えている人たちは、安倍自民党が『保守』だと勘違いしている。ここを引きはがさなければ勝てない。われわれこそが保守なんだと言わないと勝てません。日本の長年に渡って作られてきた支え合いと助け合いの社会を壊し、美しい農村風景を壊し、平和主義を壊し…。日本の平和主義というのは、戦後70年の歴史なんかじゃありません。聖徳太子の『(十七条の)憲法』になんて書いてあったか。『和をもって貴(とうと)しとなす』。日本の歴史に残っている最も古い政治指針は『話し合いで円満に物事を治めましょう』。この指針のもとで日本は1500年の歴史を歩いてきたんです」と言っていた http://www.sankei.com/politics/news/160605/plt1606050021-n2.html んですよね。まぁ、『文藝春秋』の保守特集 http://amzn.to/1TVEyuO八百万の神々云々なんて言う御仁だからそうなっちゃうのも驚きはしないけど、とは言いながら「支え合いと助け合いの社会」の伝統なんてものの内実にも思いを致す以上にもはや“リベラル”ってのは寧ろ嫌われる要素にすらなっているのかなぁとさえ思っちゃうんですよね。

そういや、以前にkojitaken様がはてな日記の方で想田和弘(この方も内田同様“脱成長”論者だったりしますね)の言を批判してました http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150903/1441235103 けど、リベラルばかりか保守までも“性善説”になっているのはことアジアに目立つ特徴だったりするんですよね。つまり人間の本性は善だから、富める者は貧しい者に施すだろうし権力者は慈悲深いしお互いに助け合い・支え合うだろうって具合の「徳治」な訳です。アジアで寧ろ“性悪説”なのはいわゆる荀子や韓非などの「法治」につながる話で、寧ろ歴史的にみると体制改革的な流れに多く見られるんですよね。

これに対し、西洋の保守主義って案外“性悪説”を基本としているんですよ。バークにしてもトクヴィルにしてもそうだけど人間は完全な存在じゃないのだから矢鱈古くからの慣習や制度を弄って余計な介入をしない方が好いというのが基本的なスタンスだったりして、「法治」を認めてもそれは古来からの慣習を基本とした慣習法だったりして例えば市民革命的なのには否定的だったりする訳です。寧ろリベラルには“性善説”なのが目立っていて人間が理性を持っている存在である以上は自由にやっても法律を作っても巧くいくってことになるし、時代が下って社会政策的なのが出来たとしてもケインズの想定したような「少数の“知的貴族”による理性的説得」という具合だったりします。もっともこの「ハーヴェイロードの前提」ってのは、宇沢弘文ケインズ自身の言動を引く形で否定 http://amzn.to/1TVFAXQ していますが。

何と言うのか、リベラルの自壊・衰退・転向って性善説”で発想していた悪癖の抜け切れなさではないかとも思うんですよ。でないと、脱成長どころか「支え合いと助け合いの社会」を日本の伝統であるかの如く言えないでしょう。そうでなくても社会政策的な話でもなかなか公共的な政府の介入とかに向かわず、“共助”だの“ノブレス=オブリージュ”だののハナシになってしまう。欧米の中道左派でさえ“性善説”から離れてさえいる面があるのに、いまだ“性善説”でモノを言うのが当たり前ってのを見てると、“転向”が起きても不思議は無いなって気もします。

西欧の保守主義が「性悪説」という懐疑的思考に立脚していることは、中島岳志が『「リベラル保守」宣言』(新潮社,2013)で、それこそバークやトクヴィルや福田恒有を引用して諄々と説いていたを読んだことがあるので一応頭には入っています。とはいえそれ以前には長い間、右翼も左翼も「性善説」指向で、中道が「性悪説」指向なんだと漠然と思ってました。その点は私もまた東アジアの伝統にどっぷり浸っていたんだろうと思います。そういえば私を「性善説」指向の人間と決めつけ、ご自身を「性悪説」指向だと見なしていたid:spirit7878さんなんかも、その自己規定に大いに反して、幕末の志士たちに無批判に入れ上げたり、宮城のブログにかつての宿敵の地元・萩城址の画像を貼り付けたのを批判された時の主張なんかを見ていると、なんのなんの、「性善説」指向の強いお方じゃん、と思ってしまいました。

宇沢弘文の「『ハーヴェイロードの前提』批判」も本(『経済学は人々を幸福にできるか』)が出版されて早々に買って読みましたが、「ハーヴェイロードの前提 宇沢弘文」でググるGoogleブックスで該当部分を確認できるのでざっと読み返してみました。最晩年の宇沢弘文には、やや思い込みが強すぎるところがあると感じていますが、「『ハーヴェイロードの前提』批判」はよく納得できます。ケインズと同様の思考様式はガルブレイスにも見られ、また立場はかなりかけ離れていますが日本の元官僚・榊原英資などにも見られて、そういうのを読む度私は「なんだかなあ」と思っていたのでした。宇沢のケインズ批判のすぐあとに日本の官僚への批判が展開されていますが、その部分も含めて強く同意できる指摘です。

それはともかく、「リベラル」(括弧付き)の性善説といえば、すぐに連想されるのが「小沢信者」であって、彼らは小沢一郎に全面的に依存しているわけですが、旧民主党の「反小沢」の代表的な政治家の一人だった枝野幸男もそんな「保守主義」観を持っているとするなら病根は深いですね。なぜなら、そのような「性善説」思考と「立憲主義」は相容れないと思うからです。

辺見庸はかつて下記のように書きました。

 軍隊や監獄という実体は、しかし、視覚的に露出した国家の一面にすぎないのではないか。いまはそのように思う。国家というのは、じつのところ、不可視の観念領域を隠しもつ、もっと手に負えない、もっともっと恐ろしいものなのではないか。国家論には、見た眼だけではない、射程の長い想像力が必要だ、と私は思う。国家を国家たらしめている二大装置が、軍隊と監獄だというのなら、反国家の立場をとるには、ひたすらこれらに対抗する暴力あるのみ、ということになりかねない。実際、かつての新左翼組織の一部は、実体的国家論のもとに、一時期、もっぱら対抗暴力を構築する運動にこれつとめたことがあります。けれども、たとえば、エンゲルスの国家論は、右のような実体論とはずいぶん異なります。次のくだりを、私は若いころ、何度も線を引いて読んだ記憶がある。が、やはり少しばかり実体的国家論にとらわれていたせいか、抑圧機関のところにばかり眼がいっていたような気がする。今回再読してみて、含意の深さに感じ入ったことだ。

 「ひとびとは世襲君主制国にたいする信仰から解放されて、民主的共和国を信奉するようになりでもすれば、まったくたいした大胆な一歩をおし進めたかのように思っている。しかし実際には、国家は、一階級が他の階級を抑圧するための機関にほかならず、しかもこのことは、民主的共和制においても、君主制におけるとすこしも変わりはないのである。もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいであり、このわざわいは、階級的支配を獲得するための闘争で勝利をえたプロレタリアートにもうけつがれる」(『フランスにおける内乱』のエンゲルスによる序文)。

 要諦は、国家とは一階級が他の階級を抑圧するための機関にほかならない、という実体的機能の説明だけにあるのではない。むしろ、味到すべきは、「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわい」である、という個所であろう。最善でも、国家はひとつの災い---私はこれ以上的確な国家論を知らない。思えば、国家とは、われわれにろくなことをしたためしがないのだ。民主的共和制だろうが、国民国家だろうが、そのお慈悲は、戦争や他民族の抑圧など巨大な災厄に比べれば、ほとんどなきに等しいものではないか。エンゲルスはこの序文でさらに、プロレタリアートが国家の災いの最悪の部分を切り取り、「ついには新しい自由な社会状態のもとで成長した世代が、国家のがらくたをごみために投げすててしまうときがくるだろう」と、国家の死滅を予測したのだが、いうまでもなく、そんな時代は一度としてやってこなかったのであり、国家はごみために投げ捨てられるどころか、逆に、われわれのほうが、国家によって、がらくたとしてごみために投棄されそうな雲行きである。国家は、つまり、依然、最もよい場合でもひとつの災厄でありつづけているのであり、今後とも、とことわにそうなのではないかと私には思われる。日本という国もまた、その例外ではありえない。

辺見庸『抵抗論』(毎日新聞社,2003)57-59頁)

こんなことを書く辺見庸が、同じ論考で驚くほどオーソドックスな「立憲主義」論を展開しています。このことから思うのは、「立憲主義」とはやはり性悪説、あるいは懐疑論に立脚した「保守思想」であり、いかにマスコミの世論調査立憲主義が国民に浸透しているかのように見えたとしても、それは単に「立憲主義」という言葉を「知っている」国民が増えただけの話であって、「立憲主義」が日本国民に浸透したとは到底言えない。そう私は思います。

だから、「立憲主義」の旗の下、自民党に選挙で勝とう、などというのは「夢のまた夢」としか思われないのです。