kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

永六輔死去

永六輔氏が亡くなった。

氏の存在を知ったのは、1976年の尺貫法復権運動を載せた毎日新聞の記事を読んだ時だった。曲尺鯨尺という言葉や読み(曲尺と書いて「かねじゃく」と読む)はその時に知った。

永六輔と尺貫法 - KENSO BLOG(2013年7月27日)

永六輔と尺貫法

意味不明なタイトルだと思われたことでしょう。
今回のテーマは全然関係ないようでとても関わりの深い永六輔さんと尺貫法について。

尺貫法とは間(ケン)・尺(シャク)・寸(スン)・分(ブ)・坪(ツボ)などを単位とする日本古来の計量法
1921年(大正10年)に、日本はそれまでの尺貫法をやめ、世界基準のメートルを取り入れる法律をつくりました。
しかし、単位を急に切り替えるのは難しく、皆がそのまま尺貫法を使い続けたそうです。
何とかメートル法に切り替えたい政府はやがて尺貫法を用いると罰則を与える強行策にでました。
こんなこと今では考えられませんが、尺貫法の計量器を売ったり、取引で尺貫法を使うと法律違反として処罰が課されることになります。

引用
昭和51(1976)年、知り合いの指物師から曲尺で仕事をして警察に呼び出された、という話を聞いた永先生は、この計量法の在り方に疑問に感じ政治家に相談するが改正は不可能と告げられる。義憤を発した先生は、自らのラジオ番組「誰かとどこかで」で尺貫法復権を提唱、全国の職人衆に決起を呼びかけたほか、自ら尺貫法を使用し警察に自首するデモンストレーションや、曲尺鯨尺の密造密売、プロパガンダ芝居「計量法伝々」の全国公演などの形で尺貫法復権運動を大々的に展開した。
その結果、法律自体の改定は行なわれなかったものの処罰は行なわれなくなってゆき、尺貫法の使用は黙認されるようになったという。
(大永帝国書陵部 「尺貫法復権運動」http://motoda.exblog.jp/1250295/


今でも計量法自体は依然として尺貫法を認めず、取引などには使えないことになっています。
しかし永六輔さんのこうした運動が伝わって、やがて処罰されることはなくなっていきました。

普段、間(ケン)・尺(シャク)・寸(スン)・分(ブ)・坪(ツボ)といった単位を使っても捕まらないのは永六輔さんのお陰といってもいいでしょう。

永六輔さんは浅田飴舐めてるだけの人じゃないんです!
他にも坂本九の「上を向いて歩こう」の作詞もしてるんです!
すごい人なんです!


上を向いて歩こう」以外では「こんにちは赤ちゃん」の作詞者でもあるらしい。

「こんにちは赤ちゃん」は、昔、音楽評論家の吉田秀和がエッセイで「偽善的だ」とけなしていたことを覚えている。乗っていたバスが「こんにちは赤ちゃん」を流していたことにお怒りだったと記憶する。

しかし、2012年に吉田氏が亡くなった時、氏が戦争中に何をやっていたのかをついに語らないままに世を去ってしまったことに気づき、それを指摘したことがある。敗戦直前に、「みんな、仕事をしてるふりをしているだけだ」と言って職を辞したことだけは書いていた。しかし、それまでは「音楽による戦意昂揚」にかかわっていたと推測されるのだ。「こんにちは赤ちゃん」を偽善的と評した吉田秀和については、彼が戦時中になしたことについて批判的に検証されて然るべきなのではないかと今では思っている。

訃報記事のついでに書くのもどうかとはわれながら思うが、参院選投票日の前日から、辺見庸の『増補版 1★9★3★7』(河出書房新社)を読んでいるところなのだった。4分の3ほどを読み終えた。


増補版 1★9★3★7(イクミナ)

増補版 1★9★3★7(イクミナ)


永六輔は、尺貫法復権運動や風貌などから、第一印象は右翼の人なのかと思ったがそうではなかった。晩年にはパーキンソン病に罹患した不自由な体を押して、脱原発や安保法案反対の集会で発言をしていた。

謹んで故人のご冥福をお祈りします。