kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「音楽に政治を持ち込むな」は「音楽に政治を持ち込め」と表裏一体の関係にある

「音楽と政治」の話題に関する記事なので、これを取り上げないわけにはいかない。

フジロック「音楽に政治を持ち込むな」問題のバカらしさ~歴史を紐解けば、「音楽と政治」は切っても切れない関係なのに(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

2016年07月22日(金)
フジロック「音楽に政治を持ち込むな」問題のバカらしさ〜歴史を紐解けば、「音楽と政治」は切っても切れない関係なのに
文/辻田真佐憲(近現代史研究者)


広がり続ける音楽と政治の問題

7月22日から24日にかけて、フジロックフェスティバル新潟県の苗場スキー場で開催される。同イベントをめぐっては、同月16日にSEALDsの奥田愛基の出演が発表されて以来、「音楽に政治を持ち込むな」とネットで大きな話題になり、マスメディアでも取り上げられた。

騒動の発端は、単にひとりの政治運動家に対する忌避感にすぎなかったのかもしれない。ただ、ここまで大事になったのは、音楽と政治の関係という重要な問題が示されたからにほかならない。

音楽に政治を持ち込むのは悪いことなのか。そもそも音楽と政治はどのように関係しているのか。音楽は反体制のものなのか。今後、音楽は政治とどう付き合っていくべきなのか。「音楽に政治を持ち込むな」騒動は、こうした一連の疑問を呼び覚ましたのである。

ときあたかも、現代日本では、音楽と政治が結びついた事例が散見されつつある。今年に入ってからの動きをいくつか列挙してみよう。

1月10日、陸上自衛隊中部方面音楽隊の鶫真衣陸士長が、大阪で催された講演会「日本が戦ってくれて感謝しています」で「海ゆかば」を歌唱した。3月13日、SPEEDの今井絵理子(現・参議院議員)が自民党の党大会で「君が代」を独唱した。同月23日、超党派議員連盟「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が設立会合を開いた。

7月3日、2020年東京五輪組織委員会森喜朗会長が、リオデジャネイロ五輪の代表選手団の壮行会で「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」などと発言した。同月17日、シンガーソングライターの山口采希が、横浜で催された日本青年会議所主催の「サマーコンファレンス2016」で「教育勅語」を歌にした曲「大切な宝物」を歌唱した。

さらに同日、参議院選挙に立候補した音楽家三宅洋平が、安倍昭恵首相夫人と会合し、安倍晋三首相とも電話で話したとツイッターで発信した。

個々についていまは論評しないが、このように音楽と政治の話は、無視できないほどに広がりつつある。国外でも、ニースのテロやトルコのクーデタに関して、国歌や行進曲が追悼や動員に使われた例がある。音楽と政治の問題は、今後の日本や世界を考えるうえでも、参考になるはずだ。


まず何より、音楽は多くの場合「反体制のもの」どころか、体制の支配の道具として用いられてきた。特に強権的な政権であればあるほどそれが当てはまる。ナチスドイツ、軍国主義日本、スターリンソ連などがその典型的な例だ。その中でも最悪だったのはソ連で、音楽に限らず芸術家に「社会主義リアリズム」を押しつけようとした。わかりやすくいえば、スターリンソ連は、「これこれこういう芸術作品を作るな」ではなく、「こういう(「社会主義」、否、スターリニズムに奉仕する)芸術作品を作れ」という命令だったということだ。だから芸術家を抑圧する度合いにおいて、ナチスドイツや軍国主義日本ももちろん酷いけれども、スターリニズムはそれらと比較してもさらに苛烈を極めたといえる。そして、志位和夫が大好きだというショスタコーヴィチの音楽は、スターリニズムに対する抵抗芸術という側面を持っているのだ。嘘だと思うなら志位さんに聞いてみてよね。

それにしても山口采希(やまぐち・うねき)って何者だよ。そのうち田原総一朗に売り込んで朝生の常連にでもなるんじゃないか? あの「わけのわからない変な古事記女」(吉木誉絵)のお仲間として。

それにしても三宅洋平、ひどいよねえ。まあ「民族がひとつになるための新しい時代の始まり」*1とかなんとかほざいていた人間だと前から知ってたから、今回の件はさもありなんとしか思わないけど。三宅は直近では自らのブログで、沖縄の高江でオスプレイなどの離着陸に使われる米軍のヘリパッドの建設工事再開について、

高江のことについては、現在まさに深刻な対立が生まれている状況下にあって、僕としては総理はじめ、政権にあられる皆さまには今一度、住民や反対派の感情や境遇に寄り添う気持ちを持った上で、ご判断いただきたいというのが率直なところです。

政権を運営する人々には、どちらかの側に立つのではなく、推進と阻止の間に立って、その対話、調整をより強く意識してもらいたいのです。

などと書いている。もののみごとに安倍昭恵に丸め込まれてしまったようだ。

もういい加減「左」側のある種の人たちは、三宅洋平だの山本太郎だの小沢一郎だのの幻想から自由になるべきだろう。小沢や山本はいざ知らず、三宅洋平なんか宇都宮健児支持者たちを小池百合子支持に流し込もうと煽動した人間といくらも違わないくらい有害だ。もっとも、参院選ではその三宅が「支持層のかぶる」おおさか維新の会公認候補・田中康夫の票を食ってくれたばかりか東京の生活の党支持層を掘り起こしたおかげで、「改憲4党」の議席を2議席減らしてくれたわけではあるけれども。

脱線してしまった。「現代ビジネス」の記事の引用に戻る。

きわめて視野狭窄的な主張

では、そもそも音楽に政治を持ち込むことは悪いことなのだろうか。まず、この問題から考えてみたい。

音楽と政治の関係は、実は決して例外的なものではない。むしろ、歴史的にはずっと結びついてきたといってもよい。これは洋の東西問わずそうである。

古代中国では、政治が乱れれば音楽も乱れるとされ、「鄭衛の音は乱世の音なり」「桑間濮上の音は亡国の音なり」などといわれた(『礼記』)。一方、古代ギリシャでは、詩人が韻律やリズムを使ってひとびとの低劣な感情を刺激すると、国の政治をゆがめかねないと危惧された(プラトン『国家』)。

もっとも俗世間から離れているように見えるクラシック音楽さえ、実は政治と深く関係を持っていた。音楽家たちが宮廷や国家に保護されていたのだから当然である。

ハイドンハプスブルク家のために皇帝賛歌を作った。ベートーヴェンはナポレオンに捧げるために交響曲第三番を作った。ブラームスは音楽で普仏戦争の勝利を祝い、ヴェルディは音楽でイタリア統一運動を支援した。ショスタコーヴィチハチャトゥリアンソ連のために、リヒャルト・シュトラウスナチス・ドイツのために、それぞれ音楽を提供した。

近代以降に著しく増加した、国歌、愛国歌、軍歌、革命歌、労働歌のたぐいが、政治と関係があるのはいうまでもないだろう。

したがって、「音楽に政治を持ち込むな」という主張は、きわめて視野狭窄である。音楽は政治と昔から関係していた。それ自体に良いも悪いもない。すべてはこの前提から話を進めなければならない。

「音楽は政治と昔から関係していた」のはその通りだが、「それ自体に良いも悪いもない」という意見には反対だ。少なくともナチスドイツに積極的に協力したリヒャルト・シュトラウスや指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンなんかは悪いに決まっている。ショスタコーヴィチの音楽が実はスターリニズムに対する抵抗芸術であるのは前述の通り。

日本は近代化のために洋楽を取り入れた

音楽と政治の密接な関係は、もちろん日本にも当てはまる。特に、洋楽の歴史は政治を抜きに考えることができない。

明治時代、日本は近代化のために洋楽を輸入した。宮廷の雅楽家は、国際儀礼のために洋楽を学んだ。陸海軍の軍楽隊は、規律訓練や士気高揚のために洋楽を取り入れた。文部省は、唱歌を通じて子供に国民意識を植え付けるために洋楽を採用した。キリスト教の教会を除けば、明治初期の日本に洋楽を普及させたのは、すべて公的な機関だったのである。

海軍軍楽隊と雅楽家が協力して作った「君が代」が、政治的な音楽であることはいうまでもないだろう。軍歌や行進曲のたぐいもそうである。今日では政治色が感じられない唱歌も、当時の歌詞はもっと政治色が濃厚だった。

たとえば、「蛍の光」には「ひとつに尽くせ国のため」という歌詞があり、「われは海の子」には「いで軍艦に乗組みて、我は護らん海の国」という歌詞があった。文部省は、こうした唱歌を子供に歌わせ、日本人としてのアイデンティティーを養おうとしたのだ。

それゆえ、近代日本の音楽家たちも、政治と無縁ではいられなかった。クラシック音楽の大家である山田耕筰も「連合艦隊行進曲」や「米英撃滅の歌」などを作曲し、夭折した滝廉太郎でさえ「日本男児」や「我神州」のような作品を手がけていた。

一方、「体制」側だけではなく、民間の俗謡にも、政治的なテーマの曲は存在した。その象徴が演歌だ。演歌はもともと「演説の歌」のことであり、自由民権運動の壮士たちが宣伝のために歌い歩いたものだった。

やがて自由民権運動が落ち着くと、演歌は社会風刺の歌へと変貌していった。有名な演歌師・が作った「あゝわからない」には、次のような歌詞さえある(一部、今日では不適当な表現があるが、歴史資料としてそのまま引用する)。

あゝわからないわからない 賢い人がなんぼでも
ある世の中に馬鹿者が 議員になるのがわからない
議員といふのは名ばかりで 間ぬけで腑ぬけで腰ぬけで
いつもぼんやり椅子の番 唖かつんぼかわからない

2016年に「演歌議連」を作った政治家たちは、演歌を「日本の心」などと唱え、あわよくば演歌の人気を集票に結びつけようとしたのかもしれない。だが、演歌は本来そんな都合のいい音楽ではなかった。

そのほか、社会主義運動に関連して、欧米の革命歌や労働歌が輸入され、日本語に翻訳されて歌われた。このように、日本にあっても音楽は、体制・反体制問わず、政治と切っても切れない関係にあったのである。

ここもまた突っ込みどころ満載の文章だ。

演歌はもともと「演説の歌」のことであり、自由民権運動の壮士たちが宣伝のために歌い歩いたものだった。

というのはその通りだろうが、それと「演歌議連」を作った政治家たちが言っている「演歌」、つまりWikipediaさんの記述に拠れば

2. 1960年代半ばに日本の歌謡曲から派生したジャンルで、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類の一つである。当初は同じ音韻である「艶歌」[2]や「怨歌」[3]の字が当てられていたが、1970年代初頭のビクターによるプロモーションなどをきっかけに「演歌」が定着した。

とされているものを同一に論じるのは誤りだろう。上記Wikipediaも「1. 明治時代の自由民権運動において政府批判を歌に託した演説歌の略」と区別している。「ここでは1.2含めて概説する」とはしているけれども。

なお、童謡「桃太郎」の異様なまでの侵略性・好戦性と、その一方で芥川龍之介が小説で桃太郎を侵略者として描いたことを辺見庸の『1★9★3★7』が指摘している。

岡山県香川県は、いい加減桃太郎の宣伝にかまけるのは止めてはどうだろうか。また話が逸れるが、四半世紀前の1991年に岡山の吉備津彦神社に行った時、当時20代と思われたうら若き巫女さんが、「温羅(うら=吉備に残る伝承では吉備津彦命に退治されたという鬼)に魅せられて巫女になりました」と言っていたことが強く印象に残っている。凛々しくてあっぱれな女性だと思った。岡山県もそうだが、香川県も桃太郎なんかよりも鬼ヶ島(女木島)の鬼をたたえる観光キャンペーンでもやった方が良い。香川(高松市鬼無)の桃太郎神社なんて実にしょぼいものだし、あんなものを売り物にしても何の効果もない。

記事の引用に戻る。

「音楽に政治を持ち込むな」が話題になった理由

さて、ここで話を「音楽に政治を持ち込むな」騒動に戻そう。

音楽は政治と深い関わりがある。音楽は体制にも反体制にも利用される。これは、歴史的に見て明らかである。にもかかわらず、なぜ現代日本では音楽と政治の関係がかくも問題になってしまったのだろうか。

そこには、戦後日本の特殊な事情があると考えられる。日本においても、70年安保があった1970年ごろまで、ひとびとは音楽と政治の結びつきに自覚的だった。革命歌や労働歌、また旧時代の軍歌や愛国歌も比較的よく知られていた。

ところが、その後消費社会化が急速に進むなかで、多くのひとびとは政治を深く考えなくても豊かで安定した生活を送れるようになった。それにともなって、音楽に政治を持ち込むことは「ダサい」「時代遅れ」とみなされ、歌謡曲、ポップス、アニソンなどから政治色が抜けていった。

この傾向は、おおむねゼロ年代まで続いた。つまり、政治を考えなくてもよい「幸せな時代」がたまたま長く続いたのだ。その結果、日本人のなかで「政治と音楽は別」「音楽に政治を持ち込むな」という意識が形成されたのである。

ところが2010年代に入り、その状況が変わりつつある。東日本大震災原発事故の発生。解決が見えない貧困、格差、少子高齢化財政赤字などの問題。日本人は、豊かで安定した社会を失い、それまで覆い隠してきた政治の問題と向き合わざるをえなくなった。

消費の時代から、政治の時代へ。その移行のなかで、音楽にもかつてのように政治の問題が押し寄せているわけだ。「音楽に政治を持ち込むな」騒動の背景には、こうした時代の変化に対する戸惑いがある。音楽と政治の関係は、時代の過渡期であるからこそ、問題となり、議論になったのである。

音楽に政治を持ち込むことは「ダサい」「時代遅れ」とみなされ

という風潮は確かにあったし、それを批判して「昔のフォークソングにはもっとメッセージ性があった」という俗流「革新」の意見もまた昔からあった。そして私はその両方に違和感を持っていたのだった。後者に対しては、メッセージ性がなければ価値が認められない音楽なんかたいした音楽ではない。そんなものはクソ食らえだ。そうずっと思っていた。というのは、ソ連当局に迎合して書かれた音楽の大半がくそ面白くもないことを痛感させられていたからだった。

しかし、著者が「政治色が抜けていった」と評する音楽には、果たして「政治色」はなかったのだろか。そんなことはない。それらには、コマーシャリズムというきわめて強い「政治色」があった。

さらなる音楽と政治の結びつきに備えよ

現代日本の抱える諸問題が解決する見通しは暗い。政治の時代は当面の間続くことが予想される。

それゆえ、音楽と政治はますます結びつきを強めるだろう。ミュージシャンはより積極的に自分の政治的な立場を表明し、政府や政党もより積極的に音楽を利用するだろう。政治と縁遠い音楽がなくなるわけではないとはいえ、われわれの社会は、音楽と政治が結びつく、当たり前の状態に回帰していくに違いない。

それはなにも愛国歌や軍歌の単純な復活ではない。音楽はその時代の流行を取り入れる。現在であれば、ボーカロイドやアイドルの歌などに政治的な要素が流れ込むのではないか。ユーチューブやニコニコ動画にはすでにそのような音楽があるし、冒頭に掲げた「教育勅語」の音楽化もそのひとつと考えられる。

あるいは、政治的な音楽は、昨今話題のAR(拡張現実)やVR(仮想現実)の技術を取り入れ、ひとびとの感情をこれまで以上に効果的に、自然なかたちで刺激してくるかもしれない。

このような状況で、「音楽を政治に持ち込むな」といっても詮ない。それどころか、かえって強い政治的な意味を持ちうる。

「政治を持ち込むな」という主張は、あたかも自分は無菌状態にあるかのごとくである。とはいえ、実際ひとは政治と無縁ではいられない。「政治を持ち込むな」という主張は、自らの政治性を自覚せず、それを他人に押し付ける危険性を持っている。

まして貧困化し、余裕を失っている現代の日本では、「政治を持ち込むな」という主張は、「空気にあわせろ」「多数の意見に同調せよ」という圧力にもなりかねない。

つまり、「音楽に政治を持ち込むな」という主張は、かえって野放図に音楽に政治性を持ち込む可能性があるわけだ。そこで、われわれは音楽と政治の結びつきを自覚しなければならない。そして、これに無闇に反発するのではなく、「ここで表現されている政治性は妥当なのか」と是々非々で考えるようにしなければならない。

音楽の政治性を認めたうえで、その政治性に一定の歯止めをかけること。こうすることによって、ますます強くなる音楽と政治の結びつきに、われわれは適切に対処できるのではないだろうか。

この最後のページは、やや表現が弱いとは思うがその通りだろう。「音楽に政治を持ち込むな」という主張こそ、政治的な主張そのものだ。

私はもっとも有害なのは「音楽に政治を持ち込め」という思想(社会主義リアリズムはその一例)だと思うが、「音楽に政治を持ち込むな」という一見もっともらしい主張は、「音楽に政治を持ち込め」という思想と表裏一体の関係にあると言っても過言ではない。