kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新自由主義や「小さな政府」の元凶としての「保守本流」池田勇人

井出英策という人は、前原誠司佐藤優との共著(共著者たちも胡散臭いが、特に佐藤優が「前原誠司氏が大好きだ」と明言していることについて、かつて佐藤優を(城内実平沼赳夫らとともに)天まで昇るほど持ち上げる*1一方で前原誠司をこき下ろしていた*2「喜八」氏のご見解をうかがいたいものだ。氏は近年になっても佐藤優を好意的に紹介している*3)に名を連ねていることや、その本の中でしきりに「共助」ばかりを唱えていることなど、かなり違和感を感じる部分が多いのだが(本全体についても、少し前に書いた通り「なんだ、この胡散臭い本は」というのが読後感だった)、共著の「はじめに」にある保守本流の政治家・池田勇人(1899-1965)への批判は、良いところを突いていると思った。


分断社会ニッポン (朝日新書)

分断社会ニッポン (朝日新書)


正規雇用と非正規雇用など、本のタイトルにもなっている「分断社会ニッポン」の分断線はなぜ引かれたのか。それについて、井手氏は池田勇人を名指しで批判する。以下引用する。

 では、なぜこのような分断線が引かれてしまったのだろうか。

 近世の時代から、日本では、「経済的に失敗した人」は、「道徳的に失敗した者」だと考えられてきた。貧乏なのは自堕落だからだ、努力がたりないからだ――いまでもよく聞く「自己責任」の論理は、日本人の伝統的な考え方に深く根づいている。

 同じ視点は、戦後日本の福祉国家の基礎を築いた池田勇人の中にも見いだされる。池田は、「救済資金をだして貧乏人を救うのだという考え方」を批判し、戦後の社会保障政策を「贅沢過ぎ」だと言い放った*4

 だからだろう。池田は、勤労した人に税をかえす「勤労所得減税」、低所得層に勤労の機会を与え、所得を自分で稼ぐようにうながす「公共事業」、このふたつを政策の柱にすえた。ようするに、住宅、教育、医療、老後の生活といった生活のニーズは、お金を稼ぎ、それを蓄えて自分でなんとかしなさい、というわけだ。

 こうして、社会保障は、勤労の義務をまっとうした高齢者への「ごほうび」と、道徳的な失敗者にたいする「ほどこし」にしぼられた。同時に、教育サービスも、私学や塾のように、自分自身で市場から買うよう、求められていったのである。

 勤労と倹約によって貯蓄を増やし、自分の力で社会保障や教育を何とかする「自己責任の社会」、私たちのいう「勤労社会」の原型はこうしてできあがった。

(井出英策・佐藤優前原誠司『分断社会ニッポン』(朝日新書,2016)12-13頁)

だが、それがうまくいったのは高度成長期(からせいぜい1980年代まで)の話であって、バブル崩壊後に破綻した。「人びとの所得は大幅に減少し」(鉤括弧は本書からの引用を表す、以下同様)、「家計貯蓄も激減し、かわりに企業の内部留保が急増した」*5。以下再び本書から引用する。

 勤労国家は破たんした。雇用と貯蓄、この二つの基礎が掘りくずされた一方、巨額の政府債務が積み残された。身動きのとれなくなった政府は、自らを切り刻み、歳出を減らすことで経済が成長するという、新自由主義路線へと舵を切っていった。

(中略)

 だが、多くの日本人は、いまだに「経済的失敗者イコール道徳的失敗者」という教義から抜け出せていない。いまの日本には、家族と過ごす時間、いやそれどころか結婚や出産さえもあきらめながら、懸命にはたらき、それでもなお生活不安におびえている人たちで溢れている。過酷な競争によって身も心も疲れているにもかかわらず。

 労働の苦痛に耐え、日々の生活をなんとかやり過ごしている人びとは、はたらかずに収入を得る生活保護者を非難し、貧困を自己責任だと突き放すしかない。政府や既成マスメディアへの反発を強め、急速に保守化、排外主義化の動きを強めているのは、まさに転落の恐怖におびえる中間層である。

 反知性主義が喧伝され、止むことのない公務員バッシングの一方で、親はわが子に公務員になることを希望する。強者への嫉妬、まさに「ルサンチマン」である。

(後略)

(井出英策・佐藤優前原誠司『分断社会ニッポン』(朝日新書,2016)13-14頁)

井出英策の問題意識と問題点の指摘はそれなりに良い線を行っていると思う。もっとも、本書に書かれた処方箋にはあまり共感できないのだが(繰り返すけれども、井出英策は「共助」を言い過ぎる。師匠の師匠に当たる(後期)宇沢弘文は無論のこと、師匠の神野直彦と比較しても、井出英策には「保守」色が強すぎる印象を受けた)、こういう問題意識を持つ人を前原誠司がブレーンに迎えたことと、現在の蓮舫野田佳彦民進党執行部の路線とを対照すると、前原と蓮舫・野田との対立軸がわかりやすいかと思う。そして、小沢一郎前原誠司と組んだことも、小沢が蓮舫(というより野田佳彦蓮舫は野田(野ダメ)の傀儡に過ぎないのではないかと思われる)の路線よりも井出英策をブレーンに迎えた前原の路線の方に、民進党あるいは「野党共闘」の活路を見出していることがうかがわれる。

野田佳彦大平正芳を尊敬していることはよく知られているが、大平は池田勇人の流れを汲む「保守本流」の政治家であり、首相在任中に「田園都市国家構想」を打ち出し、「小さな政府」を唱えていた。野田佳彦の好きな神話は「民のかまど」である。

「民のかまど」といえば、小沢一郎も好む神話だが、野田も小沢も要するに「減税真理教」信者であって、「小さな政府」を理想としているだけの「同じ穴の狢」に過ぎない。余談だが、「民のかまど 小沢」または「民のかまど 野田」でググると面白いことがわかる。「小沢信者」の元毎日新聞記者にして、トンデモとしても悪名高い板垣英憲が下記の記事を書いているのである。


小沢一郎元代表『民のかまどの煙』路線VS野田佳彦首相『軍事色内閣』路線が激突、火花を散らす」って何じゃそりゃ。事実は、野田佳彦もまた「民のかまど」信者だった。板垣英憲の記事よりも2年も前に私が指摘した通りである。


なんのことはない。野田佳彦小沢一郎も、井出英策が指摘した

池田は、勤労した人に税をかえす「勤労所得減税」、低所得層に勤労の機会を与え、所得を自分で稼ぐようにうながす「公共事業」、このふたつを政策の柱にすえた。ようするに、住宅、教育、医療、老後の生活といった生活のニーズは、お金を稼ぎ、それを蓄えて自分でなんとかしなさい、というわけだ。

という路線の後継者に過ぎなかったのだ。

2007年の参院選と2009年の衆院選民主党を勝たせた有権者の主力は、「団塊の世代」だった。それより少し下の世代である私の観察によれば、彼らの世代においては「中間層」に民主党(当時)の支持者が多かった。エスタブリッシュメント層が自民党支持で強く団結していることに対する強い反発も感じられた。

しかし、それから10年近くが経過した。子ども時代からの経験から、私は自らが属する世代は、それより上の世代と比較して保守色が強いことを認識しているが、私よりも下の世代になればなるほど保守色が強まっている。かつての「団塊の世代」はいくら小沢一郎野田佳彦が「民のかまど」(減税真理教)信者であって、「国民の生活の第一」というスローガンとは裏腹に「ムダの削減」にばかり血道を上げる政治家であっても、選挙で自民党政治を批判することによって、小選挙区制の後押しも受けて選挙で圧勝することができたが、池田勇人から大平正芳に受け継がれ、野田佳彦(や小沢一郎)がその後も理想とした「小さな政府」の経済政策では、危機感を強める「中間層」をつなぎ止めることはもはやできなくなっている。そこで、「中間層」をトリモロそうと考えたのが前原誠司であって、前原は井出英策をブレーンに迎え、自らのかつての方向性が限界に達していることを自覚しているであろう小沢一郎が前原に乗っかった、というのが私の見立てである。小沢は、さすがに野ダメと比較すると風向きの変化を読み取って自らの立場を変えることには長けている。

なお、現在石原慎太郎の手抜きの小説『天才』がベストセラーとやらになったらしいことに象徴されるように、田中角栄が大ブームになっているが、田中角栄は1973年を「福祉元年」とする、福祉国家志向の政策を打ち出した政治家である。ただ、「福祉元年」が高度成長最後の年である1973年だったことは遅きに失した。その直後の石油ショックに端を発する大不況(1974年度のマイナス成長)の影響もあって、日本は福祉国家になり損ねてしまったのである。本当は、池田勇人がそういう政策をとっていなければいけなかった。現在の政治の荒廃は、何もフリードマンサッチャーレーガン中曽根康弘以来の新自由主義にばかり問題の源泉があるわけではなく、A級戦犯容疑者・岸信介のあとを受けて総理大臣になった池田勇人の政策ももっと批判されなければならないと思う。

55年体制への回帰」「昔の自民党ハト派への回帰」で問題が解決するという論者もいるようだが、そんな甘いものではないと思う。「保守本流」の政治に対する批判が必要不可欠だろう。

救いがたいのは一部「リベラル」である。蓮舫・野田路線がもっと「保守色」を剥き出しにするかと思ったら、「中道」路線を打ち出したので、「ワオ」と思ったとかなんとか書いていた論者がいたけれども、松尾匡が先々月に書いた言葉を思い出さざるを得なかった。

また選挙が終わったので言いたいことを言う(2016年8月7日)より

 特に、左派勢力が頼みにすべき比較的経済弱者の層は、長年の新自由主義政策と長期不況に痛めつけられて、暮らしを楽にしてくれる政策、暮らしの不安を取り除いてくれる政策を求めています。だから、この層にアピールしようと思ったら、安倍政権を上回る景気・雇用の拡大と、社会保障の充実を訴えなければダメなのです。
 このとき注意すべきは、これらの層はいわゆる「中道」に分類されがちな「改革」路線の支持者ではないということです。つまり、おカネを使わずに、財政削減で行政をスリムにしようという話には飽き飽きしているということです。もちろんその中には、財政削減の矛先が自分に向かわずに、生活保護受給者なり、在日外国人なり、公務員なりといったスケープゴートに向かう限りは賛成する人が結構いるかもしれませんが、自分自身がこれ以上犠牲になるのはまっぴらごめんなのです。
 それゆえ、左派勢力は「中道」とではなく、極右と票田を取り合っていると認識すべきです。あるいはそこまでいかなくても、伝統的な保守勢力が利益誘導で暮らしを保護してくれることにも期待をよせる層と重なっているということです。こういった層が、今、圧倒的に(少なくとも消去法的に)安倍政権を選択しているのだと考えられます。これらの層は、多くは国粋主義などどうでもよく、苦しい自分の暮らしをなんとかしてくれそうな者の言うことに説得力を感じているだけで、実は多くの人々は本来は平和憲法の理念にシンパシーを持っているはずだと思います。

 ということは、「野党共闘」は基本的にいいのですけど、なんでもかんでも共闘しさえすればいいというわけではないわけです。比較的に経済的に恵まれた層のエコでロハスな文化の香りをプンプンさせ、なるべくおカネは使わないでゼロ成長不況に甘んじよと言っているような「中道リベラル」と組んで、護憲や脱原発は言っても、庶民におカネを使う政策への言及がその影にかくれてしまっては、主観的には「中道」に手を広げて支持基盤を広げたつもりになっていても、実は、本来左派勢力が頼みにすべき層から見放されて、これらの層をこぞって極右や自民党側に追いやる結果になっていると言えるでしょう。そこまでいかなくても、かなりの数を棄権に向かわせていると思います。
 それがこのかん参議院選挙でも、東京都知事選挙でも見られたことだったのだと思います。

民進党が国会論戦で打ち出したのは、赤字ボールドで示した「いわゆる『中道』に分類されがちな『改革』路線」に過ぎない(そしてそんなものを「民進党の7,8割を占めるリベラルの政策だ、だからお前も受け入れろ」と言われても、そんな暴論を受け入れることなど全くできない。あんたなんかに強要されるいわれはない。私が言いたいのはそれだけだ)。そしてそれは、それこそ民主党時代の昔からずっと保持してきた政策であって、民進党が国会論戦でその伝統的な旗幟を改めて見せた、それだけの話に過ぎないのである。

ま、いまや記事の半分以上が小池百合子関連で、なおかつ民進党内小沢派(かつて民主党を除名された松木謙公が親玉)が松原仁長島昭久ら極右と組んで(元社民党阿部知子も仲間に引き入れて)作成した、蓮舫の「『二重国籍』問題」を批判して民進党代表選延期を狙った「怪文書」を批判もできない「リベラル」とあっては、多くを期待する方が無理というものだろうとは思うけれども。

*1:http://kihachin.net/klog/archives/2006/06/satougoken_1.html

*2:http://kihachin.net/klog/archives/2007/01/sunpro_1.html

*3:http://kihachin.net/klog/archives/2014/06/sato_kaikaku.html

*4:井出英策は言及していないが、「貧乏人は麦を食え」という池田勇人の有名な言葉がある。

*5:本書13頁