kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

荒川尭

少し前に荒川博が死んだ。プロ野球の元ヤクルト監督だが、一般には王貞治の育ての親として知られる。私もテレビで読売びいきの解説をしていた悪印象の方が強かったので、訃報に反応する記事は書かなかった。しかし、荒川博の養子・荒川尭についてはよく知らなかった。というより、荒川尭荒川博の実の息子ではなく養子だったことさえ知らなかった。

アトムズとスワローズの狭間、など - Living, Loving, Thinking, Again(2016年12月5日)より

荒川博氏が急死“道場”で日本刀素振り、世界の王へ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-01747489-nksports-base

王貞治氏、荒川氏の死を悼む 「今の僕があるのは荒川さんの情熱があったから」」http://full-count.jp/2016/12/04/post52561/

昼食後に胸の痛みを覚え、入院し、その日のうちに向こう側へ行ってしまったのだという。

荒川氏は「74年から76年途中までヤクルトの監督を務めた」わけだけど、その頃って、たしかヤクルトアトムズからヤクルトスワローズに変わった時期だったのではないかと思った。Wikipediaによれば、荒川氏は1973年のシーズン途中にヤクルトアトムズの打撃コーチになっている。そして、ペナント・レースが終わった同年10月にティーム名がヤクルトスワローズに変更されている。翌1974年に荒川氏は監督へ昇格。

どのメディアでも言及していないが、荒川氏の養子には荒川尭氏というのがいるが、この方は養父の博氏よりもずっと数奇な人生を送ったのだった。

私が小学生時代、初めて(のちに応援することになるとは夢にも思わなかった)この球団の名前を知った時、それは「サンケイ」も「ヤクルト」もつかないただの「アトムズ」だった。読売ファンだった亡父が、夕食の時間だと呼ばれた時、「ロバーツ、チャンス!」と言ったのを覚えている。もうちょっと待ってくれ、相手のアトムズが攻撃中で、強打で鳴らした三、四番の外国人選手の打順だから、という意味だった。おそらくアトムズがチャンスを迎えていた(読売がピンチを迎えていた)のであろう。

それはともかく、いつヤクルトがアトムズからスワローズになったのかははっきり覚えてなかったのだった。フライヤーズがいつファイターズになった時期についても同様だが、ともに読売が9年連続日本一を決めた年のオフのことだったようだ。フライヤーズがファイターズになったのは、親会社が日拓ホームから日本ハムに代わった1973年12月で、アトムズがスワローズに代わったよりも2か月遅い。ということは、張本勲がファイターズの選手だった時期があったということだ。私はこれまで、パ・リーグ時代の張本については、フライヤーズの印象しか持っていなかった。

当時はやはりプロ野球といえば読売と地元の阪神、そしてなんとかの星とかいう漫画で主人公のライバル・左門豊作が所属した大洋、それにせいぜいオズマや星一徹・伴宙太が所属した悪役球団・中日くらいしか眼中になかったのかもしれない。しかし、広島の外木場が広島市民球場で行われた読売戦でノーヒットノーランを達成した試合(1972年4月)をテレビで見て、すごいなと思った記憶はあるから、ヤクルトはもっとも印象の薄い球団だったかもしれない。とはいえヤクルトは、読売が9連覇した1973年のシーズン(4位)で、読売と優勝を争った阪神を17勝9敗といじめたものの、読売と阪神との最終戦直前の試合(後楽園)に勝って、一度は読売の自力優勝を消していたのだった。ヤクルトの土壇場での読売いじめというと、なんといっても1986年のブロハードの「神が打たせた正義の一発」の印象が強いが、阪神と中日がそれぞれ最終戦で読売と直接対決した1973年と1994年にも、読売の最後から2試合目に勝ち、73年には読売の自力優勝を消し、94年には同率首位決戦を導いた。阪神と中日はそのチャンスを活かせず、広島だけがチャンスをものにしたというわけだ。さらにいえば、2010年にも読売との最終戦(東京ドーム)に延長戦の末に勝って読売を3位に突き落とし、その前日だったかのシーズン最終戦(確か甲子園での横浜戦)に負けて3位に落ちていた阪神クライマックスシリーズの本拠地開催権をプレゼントしたが、阪神は甲子園で読売に連敗した。この年の読売と阪神の譲り合いは本当に熾烈だった。阪神に勝った読売もファイナルステージで中日に惨敗したことはいうまでもない。もっとも、「人を呪わば穴二つ」の運命がその翌年に待ち構えていたのだったが……

さて本題の荒川尭の話。大洋とヤクルトの三角トレードは、当時新聞でも報じられて記事を読み、荒川がのちの江川卓同様の出場停止を食ったことは知っていたが、当時まだ小学校低学年だったから、何が問題だったのかなどは理解できなかった。

荒川尭 - Wikipedia より。

荒川尭

荒川 尭(あらかわ たかし、1947年5月3日 - )は、長野県北佐久郡(現・佐久市)出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は実業家。

プロ野球におけるドラフト会議の歴史を語る際、ドラフト制度史上でも最大の存続の危機とされる『荒川事件』の当事者として、今なお話題にされる人物である。旧姓は出澤(いでざわ)。

来歴・人物

荒川博との出会い

1947年に長野県北佐久郡岩村田町(のちに近村との合併で浅間町、現:佐久市)の映画館経営者の家に生まれる。幼い頃から母親の実家で田植えの手伝いをしていた。

4歳のころから野球をはじめ、浅間中学校時代には「長野に出沢あり」と内外で知られる存在となっていた。また通知表でオール5をとり、両親が常々「東京大学に行かせたい」と言うほど勉学面でも優秀だった。中学3年の時、岩村田町の近くに来ていた読売ジャイアンツコーチの荒川博が実の両親を介して尭を呼び、自らの前で素振り等をさせた。すっかりほれ込んだ荒川博は「中学を卒業したら養子に迎えて東京で野球をやらせたい」と実の両親を説得した。それに対し実の両親は「田舎では良くとも都会では無理」と反対し、中学の校長も学力を生かすよう説得した。しかし尭は「僕はこの人と行くから」と両親を納得させ上京する。

ドラフト会議直前まで

早実高に合格し学校近くにある荒川家に下宿。そこには毎日のように王貞治が来て素振りをしていた。1年生のときからレギュラーとなったが上級生から苛烈なシゴキに遭い、「何度も逃げ帰ろうと思ったが反対を押し切った末とあっては出来ず毎晩布団を口にくわえて泣いていた(本人談)。」ほど辛酸をなめていたという。2年の時に養子縁組をして荒川姓となる。

1964年、2年生の時(当時は出澤姓)に遊撃手、三番打者として夏の甲子園東京都予選決勝に進出するが、修徳のエース成田文男に抑えられ敗退。翌1965年夏の都予選準々決勝では萩原康弘、原田治明のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。高校の一年上に内田圭一一塁手、同期に大矢明彦捕手がいる。

早稲田大学に進学し2年生の時に東京六大学野球春季リーグ戦で1番ショートとしてスタメンデビュー。対立教大学1回戦では3打席連続本塁打を放った。1試合3打席連続、3本塁打はいずれも史上初。このことから「長嶋二世現る」と騒がれた。1968年秋季リーグでは田淵幸一らのいた法大に競り勝ち優勝。リーグ通算71試合出場、268打数90安打、打率.336、19本塁打(リーグ記録4位タイ)、43打点。ベストナインに4回選出される。この頃は一本足打法だった。

早稲田大学で尭は1番、同期の谷沢健一がクリーンアップを打ち、二人で「早稲田のON砲」と呼ばれ1960年代後半の早稲田大学野球部を牽引していた。尭について谷沢は「人にまねのできない、天性のバネがある」と評価していた。谷沢以外の大学同期に 小坂敏彦、阿野鉱二、小田義人などがおり、計7人がプロ入りしている。

ドラフト会議〜荒川事件

養父の荒川博が巨人のコーチ、また東京六大学野球の常打ち球場明治神宮野球場を本拠地にしている球団がアトムズ(1970年からヤクルトアトムズ)という事もあり、ドラフト会議の前から尭は「巨人・アトムズ以外お断り」と明言していた。

だが、1969年のドラフト会議では指名順が3番目だった大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)が1位指名した。尭は即入団拒否し、その後も拒否を貫く中大洋ファンからは脅迫電話や嫌がらせを受ける。1970年1月5日夜、尭は自宅付近を散歩中に熱狂的な大洋ファンとされる二人組の暴漢に襲われた。棍棒状の凶器(一説には野球用バットと言われる)で殴打された尭は緊急入院を余儀なくされ、診断の結果、後頭部および左手中指に亀裂骨折。この事件は荒川事件と呼ばれ、事件の後遺症によって尭のその後の選手生命にまで影響が出た。

事件後の2月、荒川はアメリカに野球留学する。その後、大洋サイドがヤクルトへの移籍を前提とした契約を持ちかけた。次のドラフトで巨人かヤクルトに行ける保証はないと考えた尭はこれを受け入れ、同年10月7日に大洋と契約。12月26日にヤクルトへの移籍が発表された。(1978年度ドラフト会議の江川卓_(野球)も阪神タイガースに一時的に入団し背番号3を与えられ巨人に移籍、参照江川事件

プロ入り〜引退

1971年1月、野球協約違反のペナルティとして1カ月間の試合出場辞退が決まったが後に緩和され、二軍の主砲としてイースタン・リーグ公式戦24打数9安打1本塁打の成績を残す。5月の対巨人戦で5番三塁手としてデビュー。この頃二本足打法にしている。2年目の1972年には打率.282、本塁打18をマークし3番打者に定着。当時ヤクルトで主砲といえるのは外国人しかいなかったため、「チーム唯一の日本人大砲」と呼ばれた。球宴のファン投票でも人気が偶像化していた長嶋茂雄に肉薄する。

1973年、暴漢に襲われた後遺症でボールがよく見えなくなり、コーチに就任していた荒川博に相談。翌年「左視束管損傷」と診断され当時最新の手術なども受けたが回復しなかった。左打者に転向したが、結局1975年シーズン途中で現役引退。まだ28歳の若さだった。

引退後

引退直後東映岡田茂社長から直々に俳優デビューの打診を受ける。しかし水物のスターの危うさを知る荒川はこの打診を拒絶し、セールスマンとして地道に働く決心をする。ただし引退直後には、フジテレビのバラエティ番組に出演することもあった。また、東映製作であった「がんばれ!レッドビッキーズ」では技術指導役を務め、実際に顔出し出演していた事もあった。

その後野球用品などを扱う会社「サンヨー・ジャイアント」を設立、自作のピッチングマシンや当時日本にはなかったスピードガンの販売で大成功を収め(1976年〜1979年頃)、プロ野球の大物OBたちを営業で利用するなど羽振りがよかったが、のちに大手企業が参入して、荒川の会社は倒産した。[要出典]


なるほど、これはすごい。松本清張の小説にでも出てきそうな経歴だ。

大洋ファンの暴漢に襲われたというのはもちろん知っていたが、横浜移転後に読売や阪神のファンばかりが目立った客席を知る者としては嘘のような話だ。だが大洋は1969年には読売、阪神に次ぐ3位となり、以後3年連続3位で打倒読売の可能性も見え始めていた頃だったから、ファンが過激になってきていたのかも知れない。

球団名に「ヤクルト」を冠した初年度に荒川尭を獲得し損ねた年のヤクルトがいかに惨憺たる成績だったかをスポニチの記事で見てみよう。

http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1104/kiji/K20110412000587650.html

【4月12日】1970年(昭45) 不吉な予感…ヤクルト 公式戦初戦はなすすべなしの完封負け

 【阪神3―0ヤクルト】雨で1日順延したセ・リーグの開幕戦。甲子園では、69年から事実上オーナー企業となり、サンケイから完全に球団経営権を取得したヤクルトが「ヤクルト・アトムズ」として最初のシーズンを迎えた。

 2年目の別所毅彦監督は開幕前、「選手層が厚くなり、人海戦術も可能になった。今年は十分戦えるという実感がある」と手応えを感じてシーズンイン。しかし、現実は厳しかった。

 阪神先発の江夏豊はヤクルト打線を翻弄。決して調子は良くなく、最後までストレートは走らなかったが、カーブを有効に使い、毎回の12奪三振で3安打完封勝ち。ヤクルトは三塁も踏めず、別所監督が期待をかけた、3番チャンス一塁手、4番ロバーツ右翼手のCR砲は5三振では得点の入りようもなかった。別所監督は「3安打じゃ勝てん。江夏が良かった。ただそれだけ」と手短にコメントすると、さっさと球場を後にした。

 これがつまづきの始まりだった。特に江夏に対しては手も足も出ない状態が続き、5月16日の阪神4回戦で早くも3試合連続のシャットアウト負け。7月28日の11回戦でようやく31イニングぶりに得点したが、対江夏には6敗5完封と顔を見るのも嫌ほどひねられ続けた。

 江夏にだけでなく、この年のヤクルトは負けに負けた。33勝92敗5分けと優勝した巨人とのゲーム差は45・5。巨人と阪神にはそれぞれ5勝ずつしかできず、逆に計42敗を喫した。

 「選手層が厚くなった」と自信を持っていた別所監督の人海戦術だったが、裏を返せばレギュラーが固定せず、先発投手陣が安定していないということだった。

 ヤクルトは1年を通してのべ2007人の選手を起用。1試合当たり15・4人はリーグ最多だった。だが、選手を代えればこ代えるほど成績は悪くなる一方。12人まで起用の試合は15勝8敗だったが、13人以上となると18勝84敗5分け。19人以上使った試合は20試合もあったが、全敗した。
 7月4日からの11連敗。8月19日には2度目の11連敗で別所監督が辞任。小川善治代理監督が指揮を執ったが、連敗は16まで達し、8月26日の中日19回戦で延長13回、東条文博二塁手がサヨナラヒットを放ってようやくストップ。悪夢の8月の成績は5勝19敗で勝率2割8厘、チーム打率は1割9分7厘と目を覆うばかりだった。

 “ヤクルト元年”は最悪のスタートとなった。71年からは名将・三原脩監督が就任。借金60に届こうかというチームの建て直しを図ったが、その道は険しかった。広岡達朗監督の下、ヤクルトが初優勝を果たすのは、78年まで待たなければならなかった。
[ 2011年4月12日 ]

スポーツニッポンより)


読売と阪神にともに5勝21敗で両球団との試合の勝率がともに2割に届かなかったことは覚えている。ただ、江夏に6敗して5完封負けとあるが、調べてみると甲子園球場で2度江夏を打って勝っている(7月28日3対1、勝利投手・河村保彦、9月2日5対4、勝利投手松岡弘)。対江夏の勝率は2割5分であり、まだマシな部類だったのだ。阪神戦では他に権藤正利に2勝4敗だが、権藤はこの年6勝3敗で、うちヤクルトに4勝2敗、中日に1勝、広島に1勝1敗という成績だった。上位の読売や大洋には1回も勝てなかった投手にやっとこさ2勝したものの4敗を喫するどうしようもない球団だった。江夏と権藤以外には、若生智男が先発した6月26日の試合(神宮)に14対4で大勝しているが、他の試合にはすべて負けている。読売戦については調べる気も起きない。

荒川尭がヤクルトに入団していたなら、1970年のヤクルトはどうなっていただろうか。そして暴漢に襲われなければどんな選手になっていただろうか。

だが勝負にもしもはないのと同様、人生にももしもはない。政治にももしもはなく、あの時森喜朗古賀誠谷垣禎一の代わりに石原伸晃を推そうとさえしなければ安倍晋三が総理大臣になることもなかったのにと思ってもどうしようもないのと同じだ。ヤクルトについていえば、もしも1987年か88年に松園尚巳が病気で倒れなければ、野村克也の監督就任もなく、90年代の黄金時代もなかったかもしれない。