kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『荒野の少年イサム』に出てきたのは「黒人のお尋ね者」では?

「黒いカウボーイ」 - Living, Loving, Thinking, Again(2017年1月27日)より

 普通西部劇に黒人は出てこない。出てくるのは(ヒスパニックも含む)白人とインディアンで、黒人が出てくればジャンルが違うよということになるのだろう。ハーレムのStudio Museumで開催されている写真展Black Cowboyはそのような「白い西部」の神話に具体的に異議を申し立てている。1870年代から80年代にかけて、「西部フロンティア」にいたカウボーイの25%は黒人だった。


そのコメント欄より。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170127/1485489530#c1485500043

id:osaan 2017/01/27 15:54

確か子供の頃読んだ『荒野の少年イサム』(原作:山川惣治、画:川崎のぼる)という漫画に、黒人のカウボーイが重要な役で登場していたような。


『荒野の少年イサム』(1971〜73年に『週刊少年ジャンプ』に連載)は子どもの頃に全巻集めて愛読してましたが、「黒人のカウボーイ」は記憶にありません。「黒人のお尋ね者」ビッグ・ストーンが重要な役で登場していましたが。

ビッグ・ストーンは主人公・イサムの育ての親にして極悪非道のアウトロー・ウインゲート一家(父と息子2人の3人組)に母親を殺され、以後自身もお尋ね者の犯罪者となって「おふくろの敵」としてウインゲート一家の命を狙う黒人の凄腕ガンマンという設定でした。

ただ、このビッグ・ストーンは、原作である山川惣治絵物語『荒野の少年』(1954〜56年。未読)には登場しない、川崎のぼるが独自に考案したキャラクターとのことです。

なお、川崎のぼるといえば『××の星』ですが、イサムの顔は星飛雄馬そっくりだし、ビッグ・ストーンは「黒い花形満」としか言いようのない顔です。黒人なのに髪の毛が直毛だったりします。キャラクター的にも主人公のイサムよりもビッグ・ストーンの方が魅力的だったりして、それも『××の星』と同様です。

『荒野の少年イサム』を知ったのは、1973年の家族旅行で福井の海に行った帰りに、長い汽車の旅(国鉄小浜線とか舞鶴線とか福知山線なんかを使ったんだろうか。見たこともない田舎の路線だなあと感動した記憶があります)の暇つぶしに人生で初めて買った漫画週刊誌『少年ジャンプ』によってでした。この号に、『はだしのゲン』の原爆投下の広島市の光景が描かれた回が載ってました。『荒野の少年イサム』は、カウボーイとなった黄色人種の少年イサムが、ライバルである白人カウボーイの少年ジョーカー・ジュニアに殴られるシーンで終わってました。といってもジョーカー・ジュニアは善人役、それどころかイサムの身代わりとして自ら犠牲になってウインゲート一家に惨殺される不幸な役回りでしたが。もっとも不幸な役回りといえば、前記のビッグ・ストーンに止めを刺します。私は『荒野の少年イサム』を愛読はしていましたが、正直言って主人公のイサムには全く思い入れできませんでした。星飛雄馬に対するのと同じように(笑)。だから私がのちにアンチ読売になったのか、それはわかりませんが。

ビッグ・ストーンもジョーカー・ジュニアも山川惣治の原作には出てこないキャラクターですが、ともに悲劇的な最期を遂げるあたりは梶原一騎の影響を感じさせます。『××の星』では日高美奈の運命が悲惨でした。川崎のぼるの独自キャラクターの設定に梶原一騎が与えた影響は大きかったんだなあと今にして思います。

ところで、比較的最近、山川惣治の原作『荒野の少年』についてネット検索で調べたことがありました(斎藤貴男が書いた梶原一騎の評伝を再読したことがきっかけ)。下記は「まんだらけオークション」の「商品説明」より。なんと3冊で4万5千円という高値で落札されたようです。

https://ekizo.mandarake.co.jp/auction/item/itemInfoJa.html?index=346866

作・画、山川惣治による「荒野の少年」。アニメにもなった川崎のぼる「荒野の少年イサム」の原作に当たるのがコレである。集英社が発行していた月刊誌「おもしろブック」が初出掲載となる。ちなみに「イサム」方も連載は集英社発行の、こちらは週刊雑誌(少年ジャンプ)であった。「イサム」の大ヒットのため、またそれ自身が名作であるためもあってこちらの「荒野の少年」は「イサムの原作となった」、という枕詞の元、「イサム」ありきで紹介がなされることが多い。また、その知名度のわりに復刻の機会に恵まれず、皆が存在を知っているのに、その内容を知るものは少ない、という属性を持つタイトルである。単行本は全3巻、集英社発行の「おもしろ文庫」シリーズとして、 発行が成された。「おもしろ文庫」はこの他にも多くの山川作品(「少年王者」「幽霊牧場」)を発行しており、それといえば山川、の印象が強い。
舞台は明治時代初期、夢を求めて開拓時代のアメリカに渡った日本人・渡勝之進は現地でインディアンの娘と結婚し、いさむをもうける。しかし、いさむは母に死なれ、父はギャングに襲われ記憶を失い、波乱の人生を送る事となる。西部に悪名高きウインゲート親子に拾われ、一家に組するを強いられながらも正義の心を失わず、雄々しく育ったいさむは、愛馬サンダーボルト号を駆り、荒野を正義の為に戦って行く。大筋は後の漫画版と変わらないが、こちらは山川のペンによる「絵物語」。見知った筋であるが、非常に新鮮な印象を受ける画面である。貴重、かつ未復刻。「イサム」の原点。お見逃し無く。


この山川惣治が描いた絵物語『ノックアウトQ』に触発された梶原一騎が、のちに梶原の最高傑作と言われるちばてつや作画の『あしたのジョー』を生み出しました。

ところで、山川惣治の人生も波瀾万丈だったようです。

山川惣治 - Wikipedia より

山川惣治

山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 1992年12月17日)は主に昭和20年代(1945年から1954年)から昭和30年代(1955年から1964年)に活躍した絵物語作家。


来歴

福島県郡山市生まれ。戦前より紙芝居作家として、戦後は絵物語作家として多くの作品を発表した。

昭和6年より紙芝居作成を始め、昭和7年より書いた「少年タイガー」が爆発的にヒットし、当時、紙芝居界の絶対的トップ作品であった「黄金バット」を抜いたとされる。少年タイガーには敵役としてブラック・サタンなる怪人物が登場するが、大きな翼と全身黒ずくめのマスク姿といういでたちがバッドマンに酷似していると指摘される事がある。ちなみにブラック・サタンの登場は昭和7年(1932年)であり、バッドマンが初めて登場した1939年より7年前である。

終戦直後の1945年より作成した紙芝居「少年王者」が小学館二代目社長相賀徹夫の目に留まり、1947年に休眠中の子会社であった集英社より絵物語として単行本で描き下ろしたところ大ヒット。集英社は『少年王者』によって大出版社としての経営の礎を築き、『少年王者』を看板作品として『おもしろブック』を創刊した。山川惣治小松崎茂や福島鉄次らと共に、戦後1950年代前半の月刊少年雑誌絵物語ブームを牽引する絵物語作家の代表格として活躍した。

1949年から『漫画少年』で連載した『ノックアウトQ』は、少年時代に親友だったボクサー木村久をモデルにし、梶原一騎が少年時代に感化院で読んで感動した体験が、ボクシング漫画『あしたのジョー』の原作を引き受けた背景になっている。

特に1951年より産業経済新聞産経新聞)にて連載された『少年ケニヤ』は大きなブームを呼び、後に漫画・ラジオ・テレビ・アニメ・映画化された。

1954年には長者番付で画家部門の1位になるが、絵物語は1950年代後半になるとコマ割り漫画の人気にとって代わられて人気が退潮。山川は絵物語復権の夢をかけて、1967年にタイガー書房を設立して、8月から絵物語雑誌『ワイルド』を創刊するが、1968年に廃刊し、タイガー書房も倒産して、山川は財産を失い、借金返済の為、新宿区筑土八幡町の豪邸を売却、世田谷区上用賀に転居。

この後、山川は第一線を退いて、横浜市根岸でドルフィンというレストランを経営して過ごすようになる。ちなみに、このドルフィンは、荒井由実が女子高生時代に八王子から電車を乗り継いで通い、初期の名曲「海を見ていた午後」に “山手のドルフィンは、静かなレストラン。晴れた午後には、遠く三浦岬も見える”と歌ったことでも知られている。

1982年秋頃に山川は手形詐欺にあいドルフィンは破産。一家は離散し借金に追われる惣治夫妻は新小岩など住居を転々とする。

1983年山川の窮状を知った角川春樹の即断即決で角川書店にて大量の復刻版文庫と映画によるメディアミックスが開始される。新創刊の月刊誌「小説王」にて15年ぶりの新作「十三妹」連載。角川の用意した新宿区津久戸町のマンションに転居。

1984年に角川書店が『少年ケニヤ』をアニメ映画化。山川自身も実写部分に登場した。

1985年千葉県成田市橋賀台に転居。

1987年千葉県佐倉市宮ノ台に転居。

1992年佐倉市宮ノ台のマンション 開かれた「山川惣治高橋真琴チャリティー絵画展」初日に横尾忠則が来場 し山川に作品を依頼。12月に受け取った2作品の内、1点は未完であった。12月17日、心不全のため、千葉県八千代市内の病院にて死去。享年84歳。