kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

渡部昇一死亡

渡部昇一が死んだ。死ぬのがあまりにも遅すぎた。当然ながら冥福など祈らない。

以下に、1980年に渡部が『週刊文春』に書いた「神聖な義務」という文章を掲げておく。「古語俗解」と題したコラムの第19回だったようだ。

以下、http://www.livingroom.ne.jp/d/h003.htm より引用。

■ 渡部昇一 1980 古語俗解19 「神聖な義務」全文

サミュエル・スマイルズ西国立志編』の一節を冒頭に引いて、以下本文

 「大声では言えないことだが」とドイツ人の医学生が私に言った。もう三十年も前のことになる。だいたいの話の趣旨は次のようなものであった。

 「この前の大戦でドイツの強健な青年の多くが戦場で失われた。この大量の血液の損失は民族の運命にかかわるものであった。しかし西ドイツは敏速に復興し、 ヨーロッパでも最も活力がある国である。その理由は東ドイツから大量の青少年が流れ込んでいることと、ヒトラーが遺伝的に欠陥ある者たちやジプシーを全部処理しておいてくれたためである」と。

 その頃、私は西ドイツの学生寮にいたので、いろいろな学科の学生たちの友人がいた。この話をしてくれた医学生は、東ドイツから逃げて来た男であり、スポーツマンで、しかも一時期には楽団の指揮者になることを志したという音楽好きでもあった。
 ヒトラーが非人道的な科学主義者であり、一卵性双生児その他の人体実験におそろしく熱心であったこともどこかで読んで知っていた。そして精神病患者、ジプシー、ユダヤ人、その他、ヒトラーの考えでドイツ民族の血のためにならないと思われた人たちを容赦なく消したことも知っている。それは非人道的なことでありナチスの犯罪 の典型的なものだと思っていた。しかしこの非人道的犯罪の功績の面を考えているドイツ人がいること、そしてその数は必ずしも少なくないだろうと想定されること、 またそれは公には言えないことになっていることなどをその時知ったのである。
 今年、ヨーロッパの旅行をした時、例によってガイドの注意を受けた。ドイツやオーストリアでは言われないことだが、パリやイタリアに入れば必ず注意されることである。つまりスリやかっぱらいに注意せよ、ということである。特にジプシーの子供には注意せよ、といわれる。実際、ルーブル美術館では追えども払えどもまとわりついて離れないので実に不愉快だった。特に日本人が狙われるという。
 そういうことはドイツやオーストリアに入るとまるでない。それで三十年前聞いた話を思い出したのである。戦前のドイツの少年小説を読んだ時に、ジプシーがそこでもプロのこそ泥として扱われていることを知った。すべてのジプシーがそういうわけでもあるまいし、そこには人種的偏見も多くあるように思われたが、ヒトラーは その人種的偏見に従ってドイツ中のジプシーを一掃したわけである。
 今年も一行の人がカメラをミュンヘンのホテルのロビーに忘れた。あとで気付いて連絡したら、次の予定地のバイロイトにちゃんとついていた。去年、私も似たような経験をした。しかもそれは現金だった。といってドイツで安心しすぎてもよくないと思うが、フランスやイタリアとは別世界という印象を受ける。

 劣悪遺伝子は自発的な断種で

 ヒトラーとは逆の立場の人であるが、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞 受賞)も、異常者や劣弱者が、ある比率以上に社会に存在すると、社会全体がおかしくなるのではないか、ということを指摘している。カレルは敬虔なキリスト教徒であったから、ヒトラーのように異常者や劣弱者を国家の手で一掃することには大反対である。しかし悪質な犯罪者や、犯罪を繰り返す異常者からは社会は断乎として守らなければならないとする。また劣悪な遺伝子があると 自覚した人は、犠牲と克己の精神によって「自発的に」その遺伝子を残さないようにすべきであると強くすすめる。そういう人が進んで修道院のようなところで、 独身のまま修行や瞑想や学問に打ちこむような社会の雰囲気がなくなれば、その文明は亡びるであろうという。
 日本の田舎の豪家が精神病患者の息子の病気をかくして、嫁を東京からもらうという小説を少し前に読んだ。親心はわかるが、社会や民族について、また生まれてくる 子に対して責任を感ずるところがあってもよいのではないか、という気がした。
 国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある。劣悪遺伝子を受けたと気付いた人が、それを天命として受けとり、克己と犠牲の行為を自ら進んでやることは聖者に近づく行為で、高い道徳的・人間的価値があるのである。
 知人の家に早産があった。ガラス箱で育てれば育つ可能性はなくはないが、障害児になる可能性が高く、特に目が危ない、ということを知った時、その知人はそのガラス箱をことわった。また奥さんの悪阻(つわり)が甚だしい時、よい薬が出来たことを知らされた。その知人は直観的に危険を悟り、その薬を使うことを拒絶した。後からわかったことだが、それはサリドマイドだった。決断と良識によってその知人は障害児とサリドマイド児を持つ可能性を回避したことになる。かくしてこの人の行為は社会 に対して莫大な負担をかけることになることを未然に防いだ。

 自助的精神の国に危険な徴候

 もちろん精神異常者、精神薄弱者、先天的身体障害者として「既に」生まれている人たちに対して、国家あるいは社会が援助の手をさしのべるのは当然である。 しかし、未然にふせぎ得る立場にある人は、もっと社会に責任を感じて、良識と克己心を働かせるべきである、ということは強調されてしかるべきであろう。スマイルズではないが、国家、あるいは社会の価値というのは、その成員に、どれだけ自助能力があるかによってきまるのである。助けてもらわなければならない人が多ければ、あるいは自助努力を重んじない風潮のところでは、社会の程度は甚だしく低くなるのである。
 日本は自助的精神の強い方の国である。だから資源もろくにないのに繁栄している。しかし危険な徴候がないでもない。『週刊新潮』(9月18日号)によると、生活保護 家庭である作家の大西巨人氏の家庭で、1ヶ月の医療扶助費が1千500万円だというのである。しかも同氏は家賃7万円の借家に住み、公営住宅への移転も拒絶しているとのこと。個人にはそれぞれの理由があり、与野市の福祉事務所がOKしたことに対してよそから口を挿むこともないであろう。
 血友病の子供を持つということは大変に不幸なことである。今のところ不治の病気だという。しかし遺伝性であることが分かったら、第2子はあきらめるというのが多くの人のとっている道である。大西氏は敢えて次の子供を持ったのである。そのお子さんも血友病でテンカン症状があると報じられている。「既に」生まれた子供のために、一月1千500万円もの治療費を税金から使うというのは、日本の富裕度と文明度を示すものとして、むしろ慶祝すべきことがらである。「既に」生まれた 生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらない、というのが私の生命観である。しかし「未然に」避けうるものは避けるようにするのは、理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。
 今は日本には「自助クル(ミズカラタスクル)人民」が多いために、生活保護費総額1兆2千億という巨額を支えていることができる。「自助クル(ミズカラタスクル) 人民」の数が相対的に減少すれば絶対必要な福祉水準さえも下らざるをえないことは明白なのである。

以上「神聖な義務」全文


こんな文章を書いた人間に冥福を祈る必要などない。そう堅く信じる次第。