kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『読む国会』より

昨日(4/23)いただいた鍵コメ情報。全文は元記事をご覧下さい。

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読む国会


総理大臣が真実に背を向ける時代(4月23日)

権力は真実を作り出すことが出来る。権力は自分の出したい情報だけをコントロールすることが出来る。そうすれば、あらゆる情報は確かに「疑惑」にとどまり、証拠がない悪魔の証明だ、と強弁することも可能だろう。

この問題は確かに存在したのだ。前例のない、極めて安い金額で国有地は払い下げられたのだ。それは事実であり、誰かが何かの便宜を図ったのだ。

私は、本件に関する反応を見るにつけ、ハンナ・アレントの「全体主義の起源」を思い出す。(歴史的名著。三巻が一番面白い)

アレントは言う。全体主義は、「事実への蔑視」を伴う、と。事実が蔑視される世界では、あらゆる予言は的中するのだ。全体主義の指導者にとって重要なのは「誤ることのない予言」なのだ。

内容がいかに荒唐無稽であろうと、その主張が原則的にかつ一貫して現在および過去の拘束から切り離されて論証され、その正しさを証明し得るのは不確定の未来のみだとされるようになると、当然にそのプロパガンダはきわめて強大な力を発揮する。

真実から背を向け、事実を検証しようとする姿勢を放棄すれば、指導者が提案するバラ色の未来に浸ることが出来る。

権力者が絶対に正しければ、その権力者に従っている限りは何一つ思考をする必要がない。権力者には向かうものと反対の行動を取っていればいいのだから。

あるいは、それはオーウェル的世界と言ってもいいかもしれない。

君も段々に分って来るさ、ウィンストン。 われわれに出来ないことは何一つない。 姿を隠すこと、空中を浮遊すること--何だって出来る。 その気になりさえすれば、私はこの床上からシャボン玉のように浮揚できる。 しかし私はそれをやりたくない。党がそれを望んでいないから。 自然の諸法則に関する十九世紀的な考え方は放棄しなくちゃいけない。 われわれが自然の諸法則を造るのだ

「悪は凡庸である」というのは、「エルサレムアイヒマン」における、アレントの有名な言葉だ。

この問題もそうである。首相のスキャンダルのため、財務省が、大阪府が、すべての資料を隠し、国会で愚にもつかない答弁をし続ける。

これを凡庸と言わずなんと呼ぶだろう?本来、このような問題には迅速な真相解明と、責任の所在を明らかにすればいいだけの話なのだ。


指導者の無謬性を信じ、無邪気に「野党は時間を浪費している」と唱える人たちは置いておこう。しかし、その他大多数の人は、自民党支持者であれ、野党支持層であれ、少なくともこの問題が、何かしら誰かが責任を追うべきスキャンダルである、ということは同意していただけるだろう。

しかし、そのスキャンダルが、これほど大々的に報じられたにも関わらず、誰一人責任を取ろうとしない。あるいは、その真相解明に必要な資料すら明らかにならない。悪が堂々と目の前でなされている。

白昼、警察署の前で賄賂を要求されるようなものだ。これが国家的崩壊と言わず、なんと呼べるだろう?

この国では、もはやドリルでHDDを破壊しようが、大臣室で金銭の受け渡しをしようが、総理の友人(だった人)に八億円の便宜が図られても、全ての問題は「野党がだらしないから」で片付けられてしまうのだろうか?

国家が衰退するというのは、国の力が弱まるということではない。それは、国民の力が弱まるということである。それは、我々が権力に相対する力を失っているということである。

途上国の独裁者は皆いい暮らしをしている。国民から吸い上げた富で、だ。日本はそうなっていくのだろうか?

生まれ育った、愛する国が壊れていくのを、無力感を感じながらただ眺めているというのは、なかなかの地獄である。


共産圏化する日本(4月23日)

森友学園問題は戦後最大の汚職事件である」とか「これが初めての日本での汚職疑惑である」ということではない。

これほど明白に汚職であり、かつ口利きの流れも明らかである事件において、誰ひとりとして関係者が謝罪すらせず、もちろん更迭も辞任もしていないことが、日本でおそらく始めてである、という点を指摘したのだ。

かつても、無論、闇から闇への汚職はたくさんあった。田中角栄は現金をばらまいていた。しかし、それらは「金権政治」として、明るみに出れば少なくとも問題にはなり、それに対して誰かが責任を取ったのである。

かつて、政治資金規正法や国会審議活性化法など、多くの法律が作られ、少しずつ日本の政治はクリーンになるべし、という方向に向かっていたはずだ。そこには確実に政治家たちの自浄作用を期待する国民の目が存在した。

しかし、この森友問題で、確実に時計の針は逆戻りしていることが明らかになった。

総理は完全に国会答弁を放棄し、何か聞かれれば「民主党政権時代には…」とお決まり型の紋切り答弁をするか、関係のない話をグダグダと繰り返すだけである。

安倍晋三総理大臣は、もはや行政府の長として立法府と向き合うということを放棄しているのだ。

今までもろくでもない大臣は居た。しかし、冒頭の森友問題とも重なるが「あれほど酷い答弁をしているのに辞めない大臣」はおそらく憲政史上初めてだろう。

全ての意思決定を党が握り、立法府や行政府がそれに追随しているとすれば、一体、日本は本当に民主主義国家といえるだろうか?

法務大臣が法案の中身を理解していなくてもいい」

「総理大臣はまともに法律の説明をしなくてもいい」

「森友疑惑なんて言うのは存在しない。なぜなら存在しないと言っているからだ」

立法府が資料提出する際は党の許可が必要だ」

「大臣が答弁しなくてもいいと、党が言っている」

こんな日本という国は、投票率も得票率も百%の北朝鮮の選挙を笑えるだろうか?

本当に、日本の行政府は、立法府は、実質的に立法府、行政府たり得ているのだろうか?それは本当におままごとではなく、実質的な意味を伴っているのだろうか?

もしその答えがイエスでないとすれば、日本の政治は確実に死んでいるのだろう、というほかない。


日本は既に腐敗国家になった(4月21日)

森友学園を巡る一連の報道は既に収束している。
どうやら、籠池理事長一人が生贄になり全てが幕引きになるらしい。

この問題は、日本が既に腐敗国家になっていることを明らかにした。

一つの仮定を置こう。「腐敗国家とは、悪がなされ、それが見過ごされる国家である」とする。

アジアの一部国家には賄賂を渡す文化が未だ根強く残っている。先進国でも賄賂は存在するが、問題はそれが起こることではなくそれが処罰されないことである。

さて、森友学園を巡る手続きには間違いなく瑕疵があった。それはつまり、近畿財務局のずさんな見積もりであり、大阪府の不自然な認可である。

しかし、この間、公には誰ひとりとして謝罪せず、誰一人処罰せず、誰一人瑕疵を認めていない。

佐川理財局長は延々と「確認していないが問題ない」「確認することは控えていきたい」という答弁を繰り返し、安倍総理もそれと重なる答弁を繰り返している。

かつては、少なくとも汚職や腐敗は追求され、メディアもそれをきちんと報じるだけの体力があった。


日本が腐敗していないという仮定を置くには

  1. 森友学園を巡る行政の手続きには何ら瑕疵がなかった(少なくとも悪いのは籠池理事長だけだ)
  2. 森友学園をめぐる行政の手続きには瑕疵があったが適切に対処されている

二つのストーリーを描くしか無い。どちらも明らかに現実離れした話だろう。

私は、本件はまさに「日本の終わりの始まり」であると考えている。戦後の日本は経済成長とともに汚職や腐敗などを摘発するだけの民主主義的体制と、メディアを整えてきた。第五の権力と言われ、批判されながらも、一定の役割を果たしてきたといえる。

しかし、日本は既に、そのような腐敗をチェックするだけの国家的体力を失ってしまっている。それはメディアも同じである。経済力がなくなればメディアのちからもなくなるのだ。

経済が発展するために必要なのは公正命題なデュー・プロセスの担保である。逆説的に言えば、発展した経済では汚職は摘発されやすい。逆説的に言えば、途上国ほど政治権力が力を持ち、私物化していくものだ。

これからますます日本は発展途上国に戻っていくのだろう。口利きや裁量により仕事が回り、それが指摘されても政府が守ってくれるとすれば、権力が跳梁跋扈しない理由はない。

折しも、習近平主席は腐敗の撲滅を掲げている。経済の発展を盾に腐敗国家からの脱出を目指す中国と、衰退しながら権力だけが肥え太る日本。

今は笑っているかもしれないが、二十年後に同じように笑っていられるとは限らない。

まあ、国家が衰退するというのはこういうことなのかもしれない。


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